FC2ブログ

Old Saltの日々雑感

日々雑感的に思うところを小さなウソと大きな誇張でデフォルメして掲載中!

酒と海苔と猫  




酒と海苔と猫


スーパーで食材を買っているところに、次女から「カスヤのオジサンからスルメを貰った」と電話が入った。オジサンにお礼の電話をすると「よう分からん真っ白なスルメだ」と言う。帰宅して現物を見ると、普通のスルメだった。大振りのケンサキを開いたもので、綺麗に皮を剥がしていたので真っ白なスルメになっていたにすぎない。1枚だけと言っていたが、たしかに1枚だけだった。真っ白なスルメを口実に顔を見に来てくれたのだと思う。

カスヤのオジサンの名は富蔵という。苔むすような古風な名なのは、創業明治37年という老舗の海苔屋の社長だからだ。社長との出会いはヨット。近くの漁港に彼たちのヨット(3人の共同オーナー艇)が係留してあって、あるときヨットの船上に彼らの姿を見かけたので「ちょっとお邪魔していい?」と声を掛けたのが始まりだった。
その数日後に玄関チャイムが鳴るので出てみると彼がいて、「お近づきの印に」と海苔を届けてくれたのである、300枚も。海苔巻き用サイズを300枚も。しかも、あと2週間で賞味期限を迎えるヤツを・・・。

これが、西三河に越してきて、初めて友人ができた瞬間だった。いや、友人にしていただいたといった方が正しい。なにしろ彼は創業明治37年の老舗海苔店の社長、地元の名士である。そんな立派な社長様の友人の末席に加えていただいたおかげで、見知らぬこの地で他の友人もできて行ったのである。
スルメの件で、以前に書いたオジサンの文章を思い出したの再掲したいと思う。

先日、用があって彼の店に行った時に『富蔵』という名の酒を見せられた。この酒の蔵元の初代の名前が富蔵らしくて、その名を冠にした酒らしいのである。そんな命名は、ものすごい自信作か、自己顕示欲が強いだけかのどちらかだと思うのだが、海苔屋の富蔵さんは『富蔵』の封を切ってくれなかったから自信作か顕示欲だったかの区別はつかず仕舞いだった。

純米吟醸『富蔵』の一升瓶を横目で眺め、僕がご馳走になったのはアイスコーヒー。
「おーい、早く出してよぉ」という富蔵氏に、
「グラスを探しにいってたの」と返事したのが店長。(富蔵氏の嫁)
そしてなぜか、テーブルに僕の分だけアイスコーヒーが置かれたのだった。小雪が舞い散る12月21日の底冷えのする海苔屋の事務所の応接室で・・・。

グラスを探すということは、海苔店の接客用飲み物はすでに夏物から冬物に変わっていたのである。僕は特段アイスコーヒーが好きというわけでもないし、何がなんでもアイスコーヒーが飲みたいとダダをこねたわけでもない。なのに、どうしてグラスを探してまでしてアイスコーヒーを出してきたのか。
思い当たる理由は一つ、冷蔵庫にペットボトルのブレンディ無糖のアイスコーヒーが1杯分だけ残っていたのだと思う。そろそろ処分かなと思っていたところに、海苔屋の嫁には運の良いことに、客の僕は運悪く来てしまったのである。運というのはこういう風に対極的に存在するものなのだ。

かくして、富蔵さんの『富蔵』講釈を聞きながら、小雪が舞い散る12月21日の底冷えのする海苔屋の事務所で10月末から延々と冷やされ続けてきたアイスコーヒーをいただいたのだった。せめて、砂糖シロップぐらいは付けて欲しかった。

彼にはケンちゃんという次男がいる。その次男と『富蔵』を買いに行ったらしいのだ。ケンちゃんは鋭い切れ味を持っていて、その鋭さをほんわかとした雰囲気で包んでいる好青年なのである。ネット検索が苦手な親父に代わって酒の販売元を詳細に調べあげ、富蔵をミニクーパーの助手席に乗せ『富蔵』を買いに遠路はるばる車を走らせたのである。ちなみにケンちゃんのミニクーパーのナンバープレートのナンバーは「3298」である。「・・32」はよく見かけるが「3298」は滅多にないというのが自慢なのだそうだ。さよか。
その自慢の愛車で勇躍出かけて店に着いてみると定休日。アホちゃう?
「お前なあ、どうせなら休日も調べとけよ」と富蔵氏。
「普通、酒屋が日曜日を定休にするか」とケンちゃん。
あのな、ケンちゃん。カナダの酒屋は普通に土日休みやで。

次男に頼り切った親父と、自分ちの海苔屋は日曜も営業だから、世界中の酒屋も日曜営業と思い込んでいた息子。どっちもどっちだが、仕切り直してようやく買った『富蔵』なのである。

小雪が舞い散る12月21日の底冷えのする海苔屋の事務所で飲んだアイスコーヒーで身体が冷え切ってしまったので、帰宅して激辛ラーメン『辛』を作って食べた。今回はザーサイをトッピングしてみた。卵も一つ落とした。昨日の餅入も美味しかったのだが、今日のザーサイ入りもまた美味かった。
激辛ラーメンで身体が温まったので、いよいよ今日の主役のポンズの登場である。

いつものように身体を仰け反らせ伸びきって寝ている。眠っているそばで音を立てようとドカドカ歩こうと、薄目すら開けず耳をピクリとも動かさない。危害を受ける心配がないと確信して眠っているのだ。外出自由の外猫だが家庭と社会の区別がついているものとみえる。そんな、神経の全てを弛緩させて眠っている姿を見ていると、ちょっと幸せな気分にさせられたりする。

わが家には妻もいるのだが、妻もポンズ程度には家庭と社会の区別がつくため、神経の全てを弛緩させて大イビキで眠るのである。むろん、ちょっとつつく程度では薄目すら開けず耳をピクリとも動かさない。そんな妻の寝顔を見ていると、ちょっと幸せな気分、にはならなくて、ちょっと危害を加えたくなってしまうのである。蹴飛ばすといったような・・・。

ポンズは穏やかな性格で、どう扱っても噛んだり爪を立てたりすることがない。犬的なところがあって名前を呼ぶと、尻尾こそ振らないが必ず返事をする。50m四方のどこかに居るときは名前を呼ぶと戻ってくる。50m~100m以内だと皿をスプーンで叩いて合図すると、猫のくせに脱兎のごとく戻ってくる。朝だけ缶詰の餌をやっているので、そのご馳走に有りつけると思ってのことなのだ。100m以上の遠出の時は皿を叩いても戻ってこないから、やつの動物としての能力の限界はその辺りにあると思われる。

ポンズは、ドアというドアを開けまくる癖がある。わが家は安普請なので建て付けが悪いのだが、おかまいなしに力まかせに開けまくるのである。右手で左から右に引くことしかできないらしく、襖や障子に向かって左側の方を開けるのである。で、戻ってくる時は出て行った所ではなく、逆の方を開けて入ってくるのだ。開けるのは得意なくせに何度言っても閉めることができない。そういうのを見ていると、猫というのはつくづくアホな生き物だと思ってしまうのだ。

妻も似たところがあって、建て付けの悪い戸を力まかせに開けるのである。そして、台所の方から出て行って玄関の方から入ってくるのだ。猫と違い閉めるのは閉めるのだが、加減というものを知らないからビシャ!と閉めるため反動で5センチぐらいは開いてしまうのだ。また、妻は猫と違うのでポンズよりも特技が多くて足技も得意なのである。キッチンで履いたスリッパを2階の寝室で脱いで素足で降りてきて、2足目を履いて今度は子供部屋で脱いでくるといった芸当ができるのだ。ところが逆の、素足で行って履いて戻ることができないのである。だから戸を閉めたりスリッパを集めるのは僕の仕事になってしまうのだ。わが家の妻という生き物ははつくづく・・・。

ということで、わが家の襖や障子が15センチほど開いているときはポンズ、5センチだと妻の仕業だと区別できるのだ。ポンズは犬と違い猫なので、スリッパを咥えて2階にあがることはないし、A型の僕は真似たくても真似られない所作なので、来客の皆さん、もしわが家の、妙な所にスリッパが転がっていたら妻の仕業だと思ってください。


家族写真  




家族写真




フル画面でどうぞ


誕生日にPCが壊れ今日で3日目。
新しいPCは7月3日ごろ届く予定です。
1月にも同じようなことがありました。以下はその時の文章。

新しいPCが届きました。
ようやく設定を終えましたが使い勝手が悪く苦労しています。
今回のノートPCはテンキー付きなのでキーサイズが小さく入力キー全体が左寄りで10インチ画面のモバイル並みの大きさです。そのため頻繁にタッチミスをしてしまうのですが、修正するためのdeleteキーやbackspeaceキー、上下左右キーなどのサイズが小さく、以前のPCとは違う位置にあるためさらにミスタッチを重ねるという負の連鎖。ストレスがたまりイライラしています。ここまでの約300文字にどれだけ時間を費やしていることか。
解決方法はただひとつ。慣れるしかありません。

Win8も、今のところ使い勝手がよくありません。無駄な手順が多いように思えるのです。Win7もその機能を使いこなせていなかったのでwin8 もそうなる予感があります。


とにかく、このキーボードに慣れなくちゃ。


いま、そのPCのメモ帳を使い書いているわけですが、すでに30分が経過。ストレスが・・・。
新しいノートPCもテンキー付なので同じストレスを抱えることになりそうです。

今度こそ、キーボードに慣れなくちゃ。

絵手紙と焼餃子  




絵手紙と焼餃子


父の日の絵手紙コンテストの入選作を見に公民館へ行ってきた。
小学生の部の中に一枚気に入った絵手紙を見つけた。
大胆に、葉書いっぱいに顔半分が描かれ目から大粒の涙がホロリと一粒こぼれ、余白には『いつも なぐさめてくれて ありがとう』とあった。

僕が審査委員だったなら、間違いなくこの作品に金賞を与えた。作品の荒さは否めないが、大胆に描かれた絵のセンスとコピーのバランスが秀逸なのだ。

この娘はいつも父に慰めてもらうような失態をしているのだろう。それはもしかしたら母からの小言かも知れない。勉強のことかも知れない。遊びのことかも知れない。友達のことかも知れない。
色々と失態をやらかしているか、失態でもないのに自分で失態だと思っているかのどちらかなのだろう。そうしたナイーブな心の揺れがいつも、父の一言二言で救われているということなのだ。

こういう娘を持った父親は幸せ者だなと思ったら、
僕じゃないですか。わはは。


卒業する6年生を送り出す練習を終えて帰宅したら、台所で父が粉まみれになって餃子作りをしていた。
「ただいま。手伝うね」と声をかけて、急いでランドセルを二階の勉強部屋に置きに行き、洗面場に戻り手を洗った。

麺棒で伸ばされた皮の大きさがいつもと違い小さい。具もいつもと違うようだ。
「今日は焼き餃子なんだね」
「おう。分かるか。白菜とネギの餃子」
「ヘルシー餃子だね」
「肉も入ってるぞ」

私は父の前に座り、餃子を包む手伝いをした。でも、私はいつも皮作り担当なので包むのは上手じゃないのだ。私が3つ包む間に父は10個以上包む。しかもちゃんと餃子らしい形をしている。包むコツを教えて貰うのだが、練習不足で上手に包めない。
「早いね」と言うと、
「お母さんのようには形が揃わないけどな」と父。
確かに母は包むのが上手だ。形の大きさが揃っていない皮も上手に大きさを揃えて包んでしまう。
「中華鍋を振るのと煮魚と餃子包みはお母さんの方が上手だからね」と父。
「それと牡蠣に小麦粉をまぶすのと、アンコウに水を飲ませるのも」
「正恵よ、それは余計だろ。あれはあれで難しいんだから・・・。でもないか(笑)」

そう言われてちょっと反省。父はいつも一生懸命、重箱の隅をつつくように母の長所を探して褒めている。私もそれを見習わないと。
でもお父さん。褒めたあとで、
「豚もおだてりゃ木に登る」というのは、余計な一言じゃないの。

※絵手紙の画像を探したが見つからなかった。
※牡蠣フライの下ごしらえは面倒。粉をまぶしてはたく作業が最も簡単。
※あんこうは吊して水を飲ませて膨らませてから捌く。水を飲ませる作業が最も簡単。


渥美半島を周遊  




渥美半島を周遊



写真をクリックするとサイズアップします


GWに伊良湖で遊んできました。

写真は渥美半島の先端にある伊良湖岬灯台です。綺麗でしょう。なにかこう、気持ちをかき立てられませんか。



僕と娘たちです。昔はスラッとしていたと言っても信じてもらえない体型ですが、長く生きていると誰もが気圧と重力の影響を受け縮んでしまうものなのです。ええ、あなたも例外ではありません。

娘たちが小さいのは9年前の写真だからです。小学校の2年と4年。今は高校3年と大学2年生。幸い僕の体型は当時とほぼ同じです。
伊良湖岬に行こうと言い出したのは僕でした。同じ場所に立ち同じポーズで写真を撮りたいと思ったからです。比較できる二つの写真を残しておけばいい思い出になるではないですか。でも思いは叶いませんでした。

GWの人出は半端ではなく、伊良湖岬の広くない駐車場は満杯で車が道路まで列をなしていて、待つことや行列が嫌いな僕は瞬時に断念しました。
だから残念ながら灯台下の親子の写真も、以下の写真の9年後の今の写真もありません。














三島由紀夫の小説の舞台になった神島です。余談になりますが、三島由紀夫の作品は若い頃にほぼ全て読みました。



今の妻と次女。岬から少し離れた場所で撮りました。
次女も大きくなりました。妻は、なぜか小指を立てて写真を撮っています。


三河湾の地図。知多半島寄りの沿岸部の一色が僕の住む町です。わが家から知多半島の羽豆岬まで90分、伊良湖岬まで120分ほどでしょうか。



ちょっと雑学。
岬に白い灯台。これほど似合う光景はないと思います。太平洋に面した岬の灯台と日本海に面した灯台では趣がかなり違います。太平洋側の灯台は鳥瞰的に遠く睥睨しているような感じがしますが、日本海側の灯台は厳しい中に毅然と立つ孤高のイメージが強くします。

岬の白い灯台を嫌いな人は、たぶんいないのではないでしょうか。あなたもきっと灯台の一つや二つ、岬巡りをしたことが一度や二度はあるはずです。そして、灯台は沖ゆく船の安全航海のためにあることもご存じのはず。でもたぶん、その程度しかご存じないと思います。

灯台はなぜ白いのかご存じですか。
灯台には白が似合うからです。黒だと不気味だしピンクは趣味が悪い。迷彩色の灯台は見にくいでしょ。
というのは冗談で、白は視認性がいいからです。かなり遠くから視認できます。
自動車も黒や暗い系の色よりも白色の車の方が交通事故率がかなり低いのも認知されやすいから。

港の入り口には赤色の灯台や緑色の灯台がありますが、それは目的が異なる灯台です。
右舷が赤、左舷が緑という決まりがあって、港の入港時に赤の灯台や浮標を右に見て航行します。堤防の先端の赤の灯台を左に見て入港すると堤防に衝突してしまいます。

船には右舷に緑、左舷に赤の航海灯が付いています。だから夜の浜辺などで沖に赤のランプが見えたら、それは左方向に航行している船なのです。灯りの動いているの方向を見れば分かると思うでしょうが、船の速度は遅いので判断がつきにくのです。だから広い海で時速20km程度という、陸だとありえないはずの条件下でも衝突事故が起きるのです。

ちなみに港の防波堤の灯台は港側から見て左が赤、右が緑。川の右岸・左岸は海の方に向かって(川の流れにそって)左が左岸、右が右岸です。

真っ暗な海を航海するときに欠かせないのが船に付いている赤と緑の航海灯です。船同士がすれ違うとき互いに相手の緑(右舷灯)を見て通過します。赤を見て通過しようとすると衝突してしまいます。赤と緑の明かりが二つとも見えていたら、それは相手の船が真っ正面から来ているということですね。
この航海灯の色は飛行機も同じです。飛行機の右翼には緑、左翼には赤色灯がついています。飛行機は高速なので見落とさないよう点滅しています。

灯台が白いのは遠くからの視認性がいいからですが、夜間は何色であっても見えません。そのために明かりが灯りますが、その灯る色や閃光時間が異なります。

例えば和歌山の 潮岬灯台は、単閃白光(白色でピカリ)と15秒毎に1閃光(一回転)します。その光達距離は19.0海里(約35km)です。
出雲の日御碕灯台なら複合群閃白赤互光で、20秒毎に白2閃光と赤1閃光なのです。光達距離は21.0海里(約40km)

道路には道路地図があるように、海には海図(チャート)があります。チャートには灯台や暗礁の位置、水深などなど、航海に必要な詳細な情報が漏れなく記載されています。
灯台の特徴も記入されていて、それを見て自船の位置を判断するのです。光達距離も重要で、白色で15秒ごとに1閃光していても40km先からでも見える灯台は潮岬灯台ではないわけです。

今はGPS航行なので灯台の役目はほぼ終わっていますが、それでも昼間の航行では十二分に役立っています。なによりも沖合から眺める霞む島影の中にくっきりと見える白い灯台は船乗りの眠気を吹き飛ばしてくれる嬉しい光景なのです。

灯台守を題材にした『喜びも悲しみも幾歳月』という映画がありました。昔は灯台のそばに官舎があり灯台守が住んでいて、毎日灯台の管理していました。万一灯台の火が消えたりすれば航行する船が遭難する恐れがあるからです。球切れがなくてもレンズやガラスが曇ると視認性が悪くなり他の灯台と間違われ船を混乱させてしまいます。
『喜びも悲しみも幾歳月』は新婚夫婦が晩年までの長い人生を費やした灯台守の物語。いい映画でした。

GPS航海のいま、灯台はかつてほどの役目は終えていますが、でも、灯台を訪れる人は絶えないし、沖ゆく船の船乗りは欠かせない存在で在り続けているのです。




お伊勢さん  




お伊勢さん


伊勢神宮へ行って参りました。今年で10年連続かな。
10年前、とても体調が悪くゼイゼイと呼吸に苦しんでおりました。気分展開のつもりでお伊勢さんに詣でたのです。五十鈴川に架かる宇治橋を渡り正殿へ向かう巨木鬱そうの深山幽谷的雰囲気の参道を歩いていて、呼吸がすごく楽になっていることに気づいたのでした。ゼイゼイと呼吸する苦しさが消えていて、歩くのも辛かった身体も軽くなっていました。伊勢神宮には広大な神宮の森があります。その森の精霊が清々しい空気が僕の肺機能を蘇らせてくれたのです。僕の身体に奇跡をもたらしてくれたと、強くそう思っています。

僕の病気、突発性間質性肺炎という難病の平均寿命は5年半。上手に付き合って8年程度といわれています。罹病して10年。その上限を2年も超えました。年々体力が落ち疲れるのが早くなってきていますが体調全体としては大きな変化はありません。ふつうなら鼻にチューブを入れ携帯酸素ボンボを引きずっているはずが、そういうこともなく、心持ち、ハンサムさに陰りが出てきた程度です。でも、元々すごいハンサムだったので少しぐらい陰りが出ても普通の人よりもうんとハンサムです。

伊勢神宮。昨年は一昨年は20年に一度の式年遷宮の年でした。内宮・外宮の正殿をはじめ、全ての別宮、全ての社殿や鳥居、垣や殿舎が造り替えられました。必要な檜2万本は神宮の森から切り出されます。遷宮行事は費用も時間も人でもかかり、一見無駄な行事ようにも思えます。けれどもそうではありません。神様だって同じ所に20年も住んでいると飽いてくるのです。何事にも無頓着になり惰性に流されてしまいます。精神が澱みます。チャレンジ精神も萎みます。つまり病むということです。だから気分を一新し、神々しさを取り戻そうというわけですね。神様だって新築の家やおニューの着物の方が気分が引き締まるといういうもの。神様でもそうなのだから、凡人の我々はもっと怠惰に、もっと無頓着に、もっと無関心になりがちです。
わが家のお伊勢さん詣は、一年に一度ぐらいは身を引き締めなくっちゃというのと、奇跡を頂いたお礼の参拝でもあるのです。


あれから20年  




あれから20年


神戸にサンテレビという地元局がある。
熱狂的な阪神ファン御用達のテレビ局だ。いや、この説明は間違いではないが正確でもない。サンテレビは熱狂的な阪神ファンが運営しているテレビ局というべきだろう。
スポーツ中継の放送や解説は一方に偏らないようにするのが普通だ。が、サンテレビは違う。阪神サイドに立った視点でしか放送しない。だから相手チームはケチョンケチョンにけなされる。ある時、中日か巨人のファンが偏った放送に抗議の電話を局にかけたことがあった。その時に電話応対したスタッフはこう答えた。
「じゃかしましいわい。気にいらんかったら見るな」ガジャン!
サンテレビはそういう、地元密着型のテレビ局なのである。

話をこれだけで済ますと、柄が悪いだけのロクなテレビ局じゃないという印象で終わってしまうので、それだけのテレビ局ではないことを書いておきたい。
野球中継が偏るのは、子供の頃に濃度の強い阪神・アンチ巨人の2種混合ワクチンを接種した社員が、たまたま多く集まったにすぎず、野球以外はしごく真っ当な局なのである。


あの阪神大震災を覚えている方も多いと思う。
20年前の1995年1月17日午前5時46分。京阪神が激震に見舞われた。何が起こったのか事態が飲み込めずNHKすら右往左往状態でテレビはどの局も沈黙したまま。そんな中で2時間後の8時14分。他社に先駆けてサンテレビが震災報道を開始した。
以後、6日間、106時間28分にわたり、一切の通常番組とCMを止め震災特別番組を放送し続けた。地元局だから当然と思ってはならない。町は壊滅しライフラインがすべて稼働せず、液状化現象で歩くのもままならない惨状の中を一人また一人と局に駆けつけた社員たちが、自分の親族や友人たちへの心配を抱えながらも、各自がそれぞれのスタンスと手法で現場を歩き回り放送を続けたのである。

肝心の被災者たちはTVは見ていない。ライフラインが壊滅し情報を入手する術を失っていたからだ。見ていたのは被災していない人々だった。肝心の被災者に情報が届いていなかったが、サンテレビの放映のおかげで京阪神の人々の反応は早かった。すぐに大きな救援の輪が広がって行った。
当時大阪に住んでいた僕たち夫婦も生涯で最大級の恐怖を味わった。ワインの海に倒れた家財道具が氾濫する中で、ザーザーとノイズだけが走るテレビを見てどれだけ心細かったことか。そんな情報不足に因る不安の中で、サンテレビの報道にとても助けられたのである。

熱烈な阪神タイガースファンたちが運営するサンテレビだが、いざという時には頼りになるテレビ局なのである。


阪神大震災から20年。その3日後の1月20日に僕たちは結婚した。
今日は僕たち夫婦の結婚20周年の日なのである。



シーズン?  




シーズン?




寒くなってくると腰痛に要注意!
ダメだ。冒頭からこんなつまらないことを書いていては。
女は男に、男は友に染まるものなので、女はいい男を、男はいい友を持とう。
僕のように、寒い国から来たお笑い芸人を友に持たないようにしなさいね。

でも昔読んだ、ジョン・ル・カレの「寒い国から帰ってきたスパイ」は面白かったです。

そろそろクリスマスの飾り付けをしなければならない。
写真はラマ教のお守り。わが家はラマ教徒なのだが、11月25日から12月25日まではキリスト教徒短期入門コース信者になり、クリスマスイブイブはJohn Lennon の Happy Xmas を歌いながらクリスマスケーキを食べるのを習いとしている。

22年前は違った。当時は、雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう♪と口ずさみながら、最終の新幹線のプラットホームで彼女との別れを惜しんだものなのだ。彼女というのは今の妻ではない。なぜなら、妻とは春に出会いその年の夏に結婚するという、芸能界でいうところの電撃結婚だったので我ら夫婦にクリスマスソングを口ずさむ冬の時代がなかったからだ。その代わりといってはなんだが、結婚後は長い冬の時代が続いているから、人生の辻褄は合っている。

ヨット仲間の友人は地元に恋人を残し横浜の大学に進み、恋人から木綿の白いハンカチーフを求められることなく無事結婚し今に至っているのだが、彼もまた帰郷して束の間の逢瀬を楽しみ新幹線のプラットホームで別れを惜しんだ。
ちなみに僕が別れを惜しんだのはシンデレラエキスプレスのCMロケ地の名古屋駅だが、彼の場合は一つ東京よりのコダマしか止まらない閑散とした三河安城駅だったはずで、僕の方が都会の匂いのする別れだったのである。

毎年、クリスマスケーキは僕が作っているが、今年は娘たちに作らせようと思っている。
奥様がお作りになればという声が聞こえてきそうだが、12月の声を聞くと妻は家から消えるというか、極力家に居る時間を削ろうとするからムリだ。しかも、どういうわけかバターのホイップが出来なくて分離してしまうのだ。今年は珍しく妻が長女の誕生ケーキを作ったのだが、バターではなく生クリームのホイップだったにもかかわらず上手に出来なくて、ハンドミキサーを馬鹿力で振り回して壊してしまったのだった。そういう、無邪気だが可愛げのない妻なのである。

B型ううう脳の妻の辞書には掃除や整理整頓という言葉がない。以前、実験のために階段の途中にミカンを置いてみたら、拾わずにちゃんと跨いで上がって行った。そういう脳型だから仕方がないのだ。妻の教育が徹底している娘たちもちゃんと跨いで行ったので、結局僕が片付けたのだが、その時、ミカンの横に落ちていたネコの毛玉も一緒に拾ったのは、A型さうさ脳の僕の、哀しいサガだと言えようか・・・。

このようなわけだから、年末の家事一切は僕の担当になる。小さいといえど一軒家、狭いといえど庭もあるから作業量は多い。穏やかな日を選んでこつこつと家事にせいをだすのである。妻は家事から逃げるべく無理に矢理を込めて29日まで仕事をするはずだ。さすがに晦日の30日ぐらいは家に居ると思いたいが、昨年のように餅つきの手伝いと言って逃げだし、実家の電動餅つき器の前に座り、おやつを食べながらほとぼり(大掃除が終わる)が冷めるのを待つはずだ。
ふだんは算数が苦手なくせに、こういう時だけ計算高いのだ。

まったくもって、 無邪気だが可愛げのない妻である。

B型ううう脳の詳細はコチラでどうぞ。





サライの空の下で(2)  




サライの空の下で(2)




前回に続く。



前回掲載した祖父の写真を再度掲載。
写真の実寸は縦12.5cm横8.0cm。裏書きには昭和15年。71年前に撮られた古色蒼然とした写真である。ワイシャツにズボン。脚絆を巻き靴はコードバン(馬の尻の皮)らしき革靴。雑嚢(今風に書けばショルダーバック)をタスキがけにし、手には樫の杖か。

ブログに掲載するために写真をPCに取り込んだわけだが、デジタルはすごいと思うのは、居ながらにして簡単に拡大できることだ。15インチのモニター画面一杯に拡大しても画像の荒れはさほどひどくなく、これまで見えていなかった細かい部分まで判別できる。古色蒼然とした背景、服装などから、撮影された頃の祖父は相当高齢と思い込んでいたのだが、拡大した顔を見ると艶や張りがあり皺やたるみがない。
祖父の生年月日は不明なのだが、この写真が撮られた昭和15年は、7人兄弟の3女だった母が24~25歳ぐらいのはずだから、仮に母が祖父の30~34歳頃の子とすれば、この時の祖父の年齢は54~58歳ぐらいだと推定できる。だとすれば今の僕よりも若い時の写真ではないか。むろんこのことで何かが大きく変わるわけでも、このことが大きな意味をもつわけではないのだが、僕にとっては新鮮な発見であった。



さらにもう一つ驚きの発見があった。今までまったく気づかなかったのだが、右上(黄色で囲んだ中)に文字が写っているではないか。まるで突然文字が浮かび上がってきたような錯覚を覚え、一瞬にして僕はインディジョーンズになってしまった。僕は渡辺謙だったはずなのに、ハリソンフォードになってしまったのである。
どうせバレるだろうからコトのついでに書いておくと、このところの僕はどこからどう見ても渡辺謙には見えなくなった。(前から見えてないと妻)今はどちらかといえば中尾彬である。昭和の蘊蓄を垂れたり知ったかぶりをする点も同じで、ヤツを見るたびに鏡の向こうに自分を見ているようで人生をはかなんでいるのである。

で、ハリソン君は宝物を探すために文字の識別を行ったのである。『天理 桃尾滝』とある。天理は奈良にある。そこで奈良県 天理 桃尾滝でネット検索してみると、瞬時にヒットした。桃尾滝は現在の天理市の郊外にあった。



これが現在の桃尾滝で、モノクロ処理をしたのが下の画像。モノクロにすると祖父の写真と同じだということがよく分かる。滝の流れ方すら70年前と大きく変わっていない。



以上で祖父の写真分析はおしまい。ハリソン君としては金銀財宝が見つかったわけではないのだが、でも小さな宝物を一つ見つけた気分。ご先祖様の足跡の一つが辿れただけで満足だ。


古い写真は想像力を刺激する。前回のブログの冒頭に掲載した丸髷(まるまげ)を結った二人の女性の写真もそうだ。二人は誰かは分かっていない。裏書きがないので撮影された時期も不明だ。写っている写真から想像をたくましくするしかない。ちょっと考証してみよう。



この写真を母が持っていたということは、母の血縁関係者であろう。それはたぶん左側の女性で、丸髷を結っているから母の姉ではなく、母の母、祖母ではなかったか。右の女性はおそらく奉公人である。椅子に座っている女性から半歩後ろに立っていることや着物の違い、帯や帯止め、襦袢の違いがある。二人とも髷に櫛や簪などはない点は同じだが、左の女性の髷は髪のほつれはないのに、右の女性には何本ものほつれ毛がある。おそらく左の女性は鬢付け油を使っているが右の女性は使っていないか、使っていてもほんの少しなのだろう。こうした点を総合的に考察すれば、おのずと主人と奉公人という分析結果になる。

仮に、左の女性を祖母としよう。
祖父が、あまりにも天気が良いので「写真を撮ってやろう」と言いだしたのだ。そして庭に椅子を持ち出し祖母を座らせた。その光景を奉公人の千代(仮称)が珍しそうに見ていたところ、父が、
「おい、千代。お前も撮ってやろう。横に立ちなさい」と言ったのである。

この写真はおそらく100年近く経っている。色褪せてしまい背景は写っていない。
なぜ庭かというと、この時代の写真機は暗い室内では鮮明に写りにくいからだ。天気の良い屋外は格好の撮影場所なのである。足元に草が写っていて背景の中段あたりに沓脱ぎの石のようなものがかすか見える。女性たちが普段着ということからも、自宅の庭で撮られたものである。

モノクロの色褪せた写真だが、実際は明るい陽光の下で撮られたのだ。左の女性が祖母ではないかと思うのは、帯が緩めに締められていることと、お腹が少し膨らんでいるように見えるからだ。お腹の中には母か叔母、叔父を宿していたのではあるまいか。
だから祖父はとても上機嫌で、写真を撮るぞとなった。自分は写真機を、千代に椅子を運ばせたのである。
時は大正2年~5年。幕末から半世紀も経っていない頃のことだ。日曜日にTBSで放映されているドラマのJIN。あのカラー画像の光景を重ねてみれば、丸髷を結った硬い表情の二人ではあるが、けっしてモノクロの世界に生きたのではなく、彩られた時代の中を生きたのだという息吹や明るさがイメージできないだろうか。

思うのだが、モノクロなのはむしろ今の時代の方であって、昔の方が総天然色ではなかったか。
古い写真は、そんなことを僕に語りかけてくる。

※ この文章は2011年5月に書いたものです。

サライの空の下で  




サライの空の下で


母が存命なら今年95歳になる。生まれ故郷は大分市の大野川(旧戸次川)沿いにある上戸次村。母が何歳の頃に村を離れ大阪に出たのかは僕は知らない。出奔理由だけでなく、母のことも家系のこともほとんど知らない。強く知りたいと思っている父のことに至っては母のこと以上に知らない。2×3cmサイズのモノクロ写真の中に、米粒ほど大きさの父の姿が残っているだけだ。父と触れ合った記憶といえば、4歳か5歳の頃に旅館の一室で母の帯の一方を欄間にくくりつけ、一方を自分が持ち僕を帯に乗せブランコ遊びをしてくれた記憶があるのみだ。この時、おそらく母も父と久しぶりに会ったのだろう、とても嬉しそうに、にこやかに僕と父の遊びを見ていた記憶も一緒に残っている。

その父は数ヶ月後に他界した。母に連れられ遺骨を受け取るためにロングノーズのバスに乗り生駒山の麓の刑務所に向かった記憶も断片的に残っている。開け放たれた窓から蒸し暑いホコリが舞い込んでいたから梅雨の頃ではなかったか。
時代は戦後の混沌期。父は闇米を扱っていて逮捕され刑務所内で死亡した。30代半ばの働き盛りだったから入所わずかで病死とは考えられない。刑務所内で何かがあったはずなのだ。父のルーツは、その何かがあってもおかしくない差別されるものだったのだろう。だろうと書くのは、母は父のことを闇米で逮捕されたということ以外は何一つ僕に語り残していないからである。父のことを具体的に話し聞かせるには僕は幼すぎたはずだし、語り継ぐ年頃になる前に母は他界してしまった。
僕の戸籍の父の欄は空白のままだ。つまり僕は私生児なのである。3歳で急逝したが妹もいたから家族が存在したのは事実だ。けれども、戸籍に乗せられないか、戸籍を作ってもらえない事由があったということなのだろう。“たかのつめ”は、父方ではなく母方の姓だ。以後の話も、母系の話である。父系の話は書きたくても藁一本の手がかりもない。

2~3年前になるが、ネットで「大分市たかのつめ」で検索してみたら即座に地図がヒットしたことがある。これには驚いた。
話が前後するが、生前、母が僕に断片的に語ってきたことは全てがウソっぽいと思っていたのだった。『ご先祖様はたかのつめ越前守というお殿様で、私(母)が生まれ育ったのは濠で囲まれた大きな屋敷。演習で来た兵隊さんが沢山泊まれるほど大きな屋敷だった。大阪に出てきたのは祖父が事業を興すためで、家が没落したのは事業に失敗したため』と母は僕に語っていた。

この話を僕は信じ込んでいたのだが、母が亡くなった何年か後にふと気づいたのである。大分って越前かと。大分は豊後で、越前は福井ではないか。
母は適当な作り話をしたのである。小学生の頃に父の姓を尋ねたことがあって、母は村田と答えたのだが、それはたぶん、浪曲演歌の村田英雄が大ヒットしていた頃だったから、思いつくままその名を言ったに違いなく、僕は村田は違うという確信があった。そうした話のアレコレから、父と死別してからの母はアンニュイに人生を送っていて、人生を振り返っての説明など面倒だったのかも知れない。あるいは、田舎のことや父のことはいつも布団の中での話だったから、母は息子を寝かしつけるための絵本でも読んでいるつもりの作り話だったのかも知れない。そのようなわけで僕は、母の話はどれもウソっぽいと思っていたのだが、越前が福井であることに気づいた時点で、ウソっぽいからウソに変わってしまったのである。僕の母への評価は。

母が住んでいた家の近くに大きな屋敷があって、そこに演習の兵隊が宿泊していて、祖母が手伝いかなにかで行っていて、母はその祖母から話を聞かされていたから細かいディテールまで話すことができたのだ。額の傷は濠に落ちたときに出来たと聞かされたが、そこのお嬢さんでなくても濠に落ちることはできるではないか。疑えば全ての話が反転する。武士の家系でもなければ殿様の末裔でもなんでもなく、戸籍の父欄が空白なのでせめて立派な家系でも仕立ててと考えた作り話だと僕は結論づけたのだった。

それから幾星霜。数年前に、暴れん坊将軍を見ていて「あれ?」っと思ったのである。大岡越前守は江戸にいるではないか。なんでヤツは福井県の裁判官ではないのだ、と。
このとき僕は自分の無知、不勉強さを知った。あちこちに越前守はいたのだ。大分にいても何ら不思議はないのである。母の作り話だと思っていたので真贋を調べもしなかった。インターネットが無かったということもあるが、図書館で調べるということもしなかった。ネットが普及してもなお、たかのつめ越前守で検索という簡単なことすらしてこなかった。

改めて検索してみると“たかのつめ越前守”で簡単にヒットするではないか。鶴賀城主とある。辿れば大友氏、さらに辿れば源頼朝にまで行き着く。家紋は杏葉だと判明した。杏葉(ぎょうよう)とは馬の装飾に用いる金具で、珍しい紋章らしい。
母の話は半分は事実だったのだ。半分と書いたのは、これだけでは大屋敷のお嬢様だったという証拠にはならないからだ。
たかのつめ越前守がヒットしたので、大分市・たかのつめで検索してみると、なんと地図がヒットしたのである。たかのつめという地域が今も存在するのだ。それは大友・島津激戦の地として有名なところでもあった。

母の話が半分本当なら、息子としては残りの半分の検証もしてみたい。けれども大屋敷のお嬢様であったことを調べる手立てがない。母には姉がいたようなのだが他家へ嫁ぎ姓が変わったためその後のことが掴めない。弟も二人いて共に50年前までは大阪に住んでいたのは確かだが、その叔父たちの消息も掴めていない。



手元にある資料といえば二十数枚のセピア色に色褪せた写真だけだ。それを見直していて、ようやく母の話の残りの半分の方もあながちウソばかりではないと思うに至ったのだった。



祖父の巡礼地であろう所の写真、母の姉の写真、部落の結婚式か祭事の集合記念写真、母が2歳の頃の写真。その一枚一枚を見ていて、大きなことを見落としていたことに気づいた。
それは、写真が撮られたのは大正から昭和初期だということ。いまなら簡単に写真が撮れるが、誰もが写真が撮れる時代ではなかったはずだ。写真機は貴重で高価なものだった。祖父の巡礼地の写真は祖父か同行の誰かが、その貴重で高価な写真機を持っていたことを物語っている。つまり貧乏旅行ではなかったということではないか。その他の写真も同様である。庭先で軽く撮ったと思われる写真もあったりして、写真機がたかのつめ家の身近に感じられるのである。



この、母が2歳の時の写真は写真館の椅子のように見えるが、たぶん木製の高級なベビーサークルだ。着物も粗末なものではない。
たかのつめ家は大家族だったようで、母には兄が二人以上、姉も二人はいたようだ。下に弟が二人いるから、少なくとも7人兄弟だった。兄たちの写真は軍服姿で将校クラスの服装である。そんな点を線でつなげると裕福だっ家族像が見えてくる。母の話は概ね事実だったということになろう。
こうしたことが分かってから、僕は母の生地、それは僕のサライでもあるわけだが、その地を無性に訪ねてみたくなった。数年前から大分の母の出生地へ行ってみたいと言い続けてきたのだった。


この連休、その願いがようやく叶った。
2泊3日。走行距離はなんと1896km。僕も頑張ったが妻も頑張ってくれた。娘たちは、よく耐えてくれた。だれよりも頑張ったのは、ポンコツのノアだったと思う。故障もせずによく走ってくれました。

愛知・三重・滋賀・京都・大阪・兵庫・岡山・広島・山口・福岡の10の都府県を走り抜け大分に到達。特に往路は夜中に発ちトイレ休憩以外はノンストップの深夜特急。所要時間13時間30分。
わが家は貧乏故に、旅行は不可避的に車での遠距離移動になる。そもそも旅は簡単なものではなく、知恵と体力を使ってこそ得るものも大きいと思っているからこのスタイルは平気なのだが、気力は盛んでも、情けないことに年々体力は衰える一方。今回の長丁場はさすがに応えた。



母の生地は開発の波が近くまで押し寄せて来ていたものの未だ田舎のままだった。ご先祖様の墓碑はいつも手入れされているようで掃除が行き届き清潔に保たれていた。気持ちがとても安らぎ、小雨の中なのに去りがたく、ぐずぐずと周辺を歩いた。



母がこの地のどの辺りに住んでいたのか、母が話していた屋敷はどの辺りこにあったのか、今もここに住んでいるに違いないはずの遠戚はどの家なのかなどの一切が不明で、それが少し心残りだったが、母や祖父がこの地を離れてから90年の時の流れと風化があるわけで、今更探ってみても詮無いこと。サライの空の下に末裔の一人として家族と共に立てたことで充分。それだけで充分だと僕は思った。



※ この文章は2011年5月に書いたものです。

花見とカラオケ  




花見とカラオケ




願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃

桜の季節になると、この和歌を思い出す。自分もこうありたいと思う。
あるいはまた、

サクラ吹雪の サライの空へ 流れてゆく白い雲に 胸が震えた

と、「サライ」の歌詞が思い浮かぶ。

毎年恒例の花見。車で15分ほどのその場所は海のそばの小山の中腹にある。寺なのだが後ろに前方後円墳があり境内に神社もあるという不思議なところだ。
穴場なのである。花見に最適の場所なのになぜか花見客が少ない。いつも散見する程度なのである。花見客が誰もいないと寂しいが、だからといって多すぎるのは鬱陶しい。
たかのつめ家には「芋の子を洗うような海水浴と花火大会と花見に行ってはならぬ」という家訓があるのだ。

ちらほら散見できる程度がなんとなく落ち着くわけで、ここはそういう場所なのだ。
小山の中腹なので眺望もきく。眼下には田園が広がり小学校の校舎があり、その川沿いの桜並木も薄墨をひいたような花霞。さらにその先には陽光に眩しい海が広がっている。のどかで開放感があって、とてもいいのである。


今年は次女の友だちのエリママ母子も誘った。保育園・小・中・高校まで一緒。徳島まで阿波踊りに行くなど、長年の付き合いがある。
揚げ物だらけの弁当だが、偏食エリちゃんと僕が呼んでいる次女の友だちの好みに合わせたからだ。エリちゃんは野菜が嫌いでトマトが大の苦手で、その他、嫌いなモノだらけの娘なのだ。エリママは40歳を過ぎてようやく刺身が食べられるようになったというから、偏食親子なのである。ちなみに母子家庭である。年に1度は海外旅行に行っている。
小学生3年生の頃、わが家で食卓を囲んでいるときに海外旅行の話になり、エリちゃんが、次のように言ったことがある。
「ママはね、外国人が好きなの」と。
それ、誤解されやすい発言だぞと思ったが、小学生にその説明をするのは厄介なので、
黙ってエリちゃん唐揚げの上にプチトマトを乗せてやった。



野菜が苦手で魚が苦手な母子のために、揚げ物三昧にした。味付けを変えてモモ・胸・手羽元の三種類。春巻き、蓮根の挟み揚げ。写真に写っていないが、保温鍋に入れてロールキャベツも持参した。

午後になって暖かい風の中に冷たい風が混ざり始めた。雨が近いようだ。
誰がいうとはなしにカラオケに行くかということになった。 たかのつめ家としては3年ぶり、このメンバーでは7年ぶりだ。
偏食母子は歌が上手なのである。特に偏食エリちゃんは上手い。小柄な身体なのに声量がすごくてやたら大きな声が出る。狭いカラオケBOX内だと耳を塞いで丁度というほどの音量で歌う。演劇部ということもあって、歌い方が舞台的なのだ。



僕は5曲歌った。全国1位が3曲、2位が1曲、4位が1曲だった。
「フレディもしくは三教街-ロシア租界にて」をカラオケで歌うのは初めてで、うろ覚えだったこともあり全国4位だった。
この歌を日本で一番うまく歌うのは楽曲を作ったさだまさし、ではなく別府葉子さんだと思っていて、カヴァとはこういうことをいうのだとも思っていて、だから僕も挑戦してみたのだが、それは掌で天を隠そうとするような思い上がった行為だったようで、妻が「ボロボロね♪」と、僕の熱唱を切って捨ててくれた。
長女は、下手なくせに長い歌を歌ってくれていう思いを込めて、「7分ね」と、ポツリと言った。

次回は、内藤やす子の「 想い出ぼろぼろ」を忘れずに歌おうと思った。




卒業式  




卒業式




3月1日は長女の卒業式でした。
写真は浜名湖。左が長女で右が次女。中央のヨットは妻です。風が無いので娘たちを曳航して浜へ戻った時の写真だったような・・・。
小四と小二だった姉妹も18歳と16歳。妻も早や32歳。
まったくもって、光陰矢の如しです。



僕は、感無量なのである。

試験が終わり・・・  




試験が終わり・・・


長女のセンター試験が終わりました。
第一志望のハーバード大学は得点不足で断念しました。第二志望の京都大学もしくは東京大学、第三志望の大阪大学の判定チェックは後回しにし、第四志望から見ることにしました。
あれです、年末ジャンボ方式。一等から下一桁へ向かうか、下一桁から上の等級を目指すかというあの方式。ま、方式というほど大層なことではござざいませんが・・・。

ちなみにアナタは上から方式か下から方式か、どちらでございましょう。
僕は下からです。6等ダメ、5等がダメ、4等がダメ、3等がダメ、2等もダメ。よし!残るは1等だけだぁ♪方式です。で、毎年、あれ?あれれ?なのでございます。でもこの方式は外れてもショックが少ないのでございます。

上から方式のときもありました。一等はダメ、2等もダメ、3等も(以下略)、えっ、下一桁だけ?この方式、運がどんどん離れていくようで、下一桁に辿り着いたときには、もう運は尽きたいう感じがしません?「あ~あ」と深いため息が出たりしません?正月早々からこんなのはイヤでしょ。

もう長く年末ジャンボの一等に当たっておりません。というか、一度も一等に当たったことはありません。18年前に長女が生まれた年に5万円が当たって以来、外れ続きです。
原因は分かっております。妻が元旦に洗濯をするからです。

全ての事始めは1月2日からと日本国では決まっております。八百万(やおよろず)の神々が出雲大社の総会で、元旦は全ての行事および業務を全休にすると満場一致で決められました。
日本の神々の総氏神様は天照大神です。つまりわれわれ日本人は、好むと好まざるとにかかわらず、誰一人例外なく、天照大神の氏子なのでございます。クリスチャンのアナタもモルモン教のアナタも鰯の頭しか信じないというアナタも例外ではございません。思想信条や信仰に関係なく、まず始めに氏神の子、氏子ありきなのです。と、神社通の高校一年生の次女がそう申しておりました。

全国にあまたの高校生がいようとも、「高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以て・・・」と祝詞(のりと)を暗誦(あんしゃう)できる高校生はめったにおりません。中学の卒業旅行に神学の教授を訪ねて國學院へ行く子など、他におりましょうか。
大学入試の受験科目が祝詞だけなら、ハーバード大学だって合格するでしょう。ま、神頼みではありますが・・・。

ここまで書けばもうお分かりでしょう。われわれ氏子にとって、元旦の初詣は無意味なのです。輪番制の休日当番の神様以外は、家でお屠蘇を飲みながら箱根駅伝を見ていらっしゃるから。つまり勤務先にいらっしゃいません。しかも、少数の休日当番の神様がどの神社の神様かはセキュリティーのこともあり秘密なのです。そのようなわけなので、やんごとなき理由で神頼みがしたいということなら、2日目以降がよろしいのです。

元旦に汚れ物を洗う。神々が最も嫌がる行為です。そのことを知っている僕は、ゲンが悪くなるから洗濯はダメと言うのですが妻は聞く耳を持ちません。妻が元旦に洗濯しなかったのは18年前に長女の出産で入院していた時だけ。そう5万円が当たった年です。それ以降、一度の例外もなく元旦に洗濯なのです。
元旦に洗濯?2014年ジャンボ宝クジ担当理事の神様は、そんな無礼なヤツは下一桁で十分、ちゅうわけです。なので、はい。今年も外れました。

妻よ、来年こそ、元旦に洗濯するのはやめようぜ。


センター試験の話が脱線してしまいました。
第四志望校から見るというところでしたね。第四志望校は東京学芸大でした。結果は指一本でかろうじてぶら下がっているような判定。二次の小論文で400点以上取れば合格するかもというランク。もう調べるまでもなく第二・第三志望校はダメでございます。指一本のぶら下がりでも東京学芸大を受験しますが、500点満点の小論文で400点以上取るのは厳しいのでたぶん無理かと。

でも長女はあっけらかんとしております。同級生たちは私学の入試で右往左往だとか。そんな中、娘だけは悠然としております。
「私は気楽でいい♪」と余裕のよっちゃんなのです。(本名芳恵)
なぜなら私立を受けないから。正しく書くと受験できないから。タカノツメ家は貧乏なので私立に進学させる余裕がありません。寮のある国公立が条件なのです。京大や阪大や学芸大を志望したのは自身の学力が高いからではなく寮のある国公立だからなのでした。学芸大の寮費は月額4300円ですもんね。これなら払えます。
万一学芸大に受かったら、最初の3年間は学校に行かず昼も夜もバイトしなさいと言ってあります。3年留年し、貯めたその金で4年目から学校に行けと・・・。

経済的に余裕があれば私立に行くこともできたでしょうに、そんな不満を一言も口にださないというか、最初から私立を選択肢に入れていないところが娘の良いところなのです。本人は気づいていないようですが、孝行娘なのであります。
妻は寮に入れなかったらどうしようとか、布団をどうしょうとか、料理がまったく作れない娘なので餓死しないかと心配しまくっておりますが、妻よ、そんなことは、合格してから思案しようよ。


さて。
長々と氏子の話に時間を費やしたのは、昨日、お伊勢さんに初詣だったからです。今年で10年連続10回目です。
毎年わが家の初詣は2度あります。一度目は徒歩20秒ほどの村の神社。夜中にパジャマの上に防寒具というズボラな恰好で参拝します。前述しましたように、神様はたぶん、留守だろうと思ってのことです。ですから参拝よりも厄年会の青年たちが用意したおでんやぜんざいや甘酒やお土産が目的の初詣なのです。

村の神社の氏子ではありませんからわが家の氏神神社ではなく崇敬神社です。
ちょっと、この説明をしておきましょう。神社には総氏神神社・氏神神社・崇敬神社の3タイプがあります。日本人は全て天照大神の氏子というのを違う例でいえば日本国民のようなものでしょうか。総氏神のが祀られて伊勢神宮が総氏神。これを日本国とすれば国民は全て天照大神なす。総氏神様の天照大神が祀られている伊勢神宮が日本国なら、われわれはその日本国民(氏子)です。各地の神社の氏神様は都道府県で氏子は県民や府民です。崇敬神社は東京都民が山梨県に表敬訪問したといった感じになります。

もしアナタが町内にある神社の氏子なら、詣でるその神社はアナタの氏神神社になります。もしアナタが町内の神社の氏子でないなら、詣でたその神社は崇敬神社になります。ご理解いただけましたか。
旅行や観光先で詣でた神社は、アナタにとっては崇敬神社になるわけですね。唯一の例外が伊勢神宮。総氏神なので、みーんな氏子なのです。
神棚を祀っている人はご存じでしょう。お札が複数枚ある場合は、一番上が天照大神、次が氏神神社のお札、一番下に崇敬神社の順にお札を重ねて祀ります。並列して祀る場合は中央が天照大神、向かって右が氏神神社、左が崇敬神社になります。

また神社の拝殿は南向きに建てられています。近くの神社を思い出してください。南向きでしょ。家の中に神棚を設ける場合も南向きか東向きです。
唯一、鹿島神社の拝殿だけが西向きに建てられていて諏訪神社の方を向いているのだそうです。その理由は、鹿島神社の天津系の建ミカズチノ神が出雲系建ミナカタノ神と相撲を取って出雲が破れて出雲系の神々の国を譲りうんぬん、出雲の拝礼は二拝四拍だが諏訪大社は伊勢と同じ二拝二拍でうんぬんと、2階にいる次女から内線電話で次から次へ、スラスラと説明が続くのですが、僕には神様の歴史が頭の中でスムーズに繋がらずチンプンカンプンで、かろうじて、神代の昔に天津系(アマテラスやアメノウズメなど)と国津系(スサノオやオオクニヌシなど)があり、後に和合融和され今にいたったこと、その仲を取り持ったのがサルタヒコ(猿田彦神社は伊勢市宇治)だったということぐらいしか理解できませんでした。ふぅ。


昨日(25日:土曜日)そんな伊勢神宮に初詣でした。
昨年、20年に一度の式年遷宮がありました。拝殿を始め何もかもが新しくなりましたので今年は遷宮後初めての新年、まさに初詣の年なのです。氏子のみなさーん、あなた、アナタですよー。
今年はぜひ、お伊勢さんに行きましょうねー。

伊勢神宮の内宮(ないくう)へは五十鈴川に架かった宇治橋を渡ります。橋の手前と渡った所に神明鳥居という大鳥居があります。内の鳥居をくぐり鳥居を少し歩くとまた鳥居があります。第一の鳥居です。この鳥居をくぐり、細い小川に架かった長さ3メートル足らずの火除け橋を渡るといよいよ参道です。ここからが神の領域。空気が凛とした涼しいものに変わります。劇的に変わります。周りの森や樹齢数百年の檜の中を歩くからそう思うのではなく、本当に漂う空気が変わります。

今回、「あっ、空気が変わった」と思ったその時に、妻も「変わったね」と言ったのでした。健常者の妻も「気」が変わったのを感じたのです。
もしかしたら妻も身体のどこかが少し不調だったのかも知れません。だから気の変化が分かったといえるかも。そして変わったことを感じたことで、その不調が癒えたと、僕はそう思っているのです。神の領域の“気”に気づいた人だけが、抱えている疾患や気の悩みが癒されるといえるのかも知れません。大勢の参拝者がいるにもかかわらず、その俗世の気を瞬時に変えるパワーが伊勢神宮の森にはあるのです。

突発性間質性肺炎と診断された9年前、息絶え絶えの状態で第一の鳥居をくぐり、歩くのも辛い状態で拝殿へ向かった僕は、歩を進める毎に呼吸が楽になり神宮の森の気が機能を失ったはずの肺を通って全身に浸透するのを体験したのでした。身体の中に奇跡が起こった瞬間でした。すごい驚きでした。そのことがなければ、平均寿命5年半、仲良く付き合っても8年が限度と言われているこの難病の限度を超え今も生きていることはなかったと思っています。今年も空気が変わったことに気づきました。これはつまり、今年1年は大丈夫ということだと思っています。

氏子のみなさーん、あなた、アナタですよー。
今年はぜひ、お伊勢さんに行きましょう。
きっと癒されますからぁ~♪



審査員賞  




審査委員賞




色紙は長女が名古屋の某造形デザイン学校のコンテストの漫画部門に応募し審査委員賞に選ばれた副賞として頂いたものです。
ご存じの方はご存じでしょう。色紙に描かれている絵は南方仁と橘咲。漫画も良かったですがドラマも秀逸でした。大沢たかおの南方仁、綾瀬はるかの橘咲はベストマッチでした。あれがもし堺雅人が南方仁で壇蜜が橘咲なら原作とは無縁の、「倍返しだ!」みたいな派閥争いドラマになっていたに違いありません。キャストと脚本家が原作の魅力を左右するっちゅうことですね。

村上もとかといえば、六三四の剣、あるいは龍-RON-でしょうか。龍-RON-は日本だけでなく上海も舞台にしたスケールの大きな作品でとても面白かった記憶があります。絵のタッチは上村一夫と似ているところがあって、それも好みだった。

審査員賞に選ばれたことは娘から聞いていたので知っておりました。この賞、昨年も頂いています。なんと2年連続という快挙。そんな快挙の陰の功労者として父の名を真っ先にあげねばなりません。昨年は〆切り当日に作品が描き上がり、〆切り当日の消印有効だからと娘から託された僕は、息を切らせて郵便局まで走り、窓口に渡して滑り込みセーフだったのでした。なにしろ田舎、郵便ポストの回収は1日1回しかありません。集配の職員が万一風邪や下痢で休んでしまったら消印は翌日になってしまいます。

娘はプロでも有名な作家でもないのに〆切りギリギリに描き上げるから困ったもので、今年も郵便局まで走りました。ところが貼られていた切手が料金不足。もし僕が不足分の30円を払っていなければ今年の賞はなかったのです。むろん、娘に30円を請求するといったケチな父ではありませんから、「足らんかったぞ」と恩着せがましく3度ほど言うにとどめましたさ。

表彰式から帰宅した娘から副賞の色紙を見せられたときは驚きました。今年も魚戸おさむ賞と思っていたら、村上もとか賞だったからです。今年は村上先生も審査員をされたようで、娘の作品を村上先生と魚戸先生のお二人が絶賛され、村上もとか賞になったのだそうです。これは嬉しい。
昨年は魚戸先生から色紙を頂いていました。お褒めの言葉の中には精進すればプロになれるといった応援の言葉もありました。それでも、一度だけならフロックと言えなくもありません。でも2年連続ですからね。しかも魚戸先生は村上先生のアシスタントでした。つまり師匠と弟子。今年は師匠の賞を頂いたわけで、親としては、娘よ大したものだと言ってやりたくなる気持ちは分かっていただけましょう。

思い起こせば15年前、長女2歳次女1歳の春でございました。陽光うららかな和歌山県吉備町の、朽ち果てる一歩手間の家賃3万円の借家の縁側で、娘たちと遊びながら希望に胸を膨らませていたことがございました。一人は漫画家、一人は競艇選手にするのだと。そして父は漫画の印税と競艇選手の賞金で両手に団扇でワハハになるのだと・・・。

その父の夢は小学4年の徒競走で第一コーナーで転び、泣きながらゴールした長女をみて、その鈍くささに「芳恵の競艇選手はないな」と断念させられ、次女は小5の時にメガネ着用でこれも競艇の道が絶たれ無残にも消え去っていたのでした。
でも漫画は生きておりました。両手が無理でも片手でOK♪ロト6のキャリーオーバーの1等4億円が普通の1等2億円になったと思えば何の不満がございましょう。

で、当の本人はというと漫画家を志望しながらも大学入試勉強に明け暮れております。目標は美系の大学と誰もが思いますが違います。スペイン語にするかトルコ語にするか、スワヒリ語にするか、11月のこの時期になっても決めかねている状態。なぜ外国語科なのかは知りません。たぶん本人も知らないと思う。

そもそもは化学者を志望していました。小学校の卒業記念集に将来の夢は科学者になると書いていたぐらいなのです。でも父が「科学は化学の間違いではないか」と指摘した時に娘は唖然と絶句し、化学者の道は消えました。科学や化学に強く、生物の成績はいつも学年1~2番なのに理系に必須の数学と物理が苦手でクラスは文系、やむを得ず語学系を志望したのでしょうが語学系で必須の英語が苦手という、中途半端な娘なのでございます。その英語、昨日居間のテーブルになにげに置いてある紙を見たところ、英語のテスト結果で、なんと100点で学年1位ではありませんか。「おおっ、やったな!」と娘に言うと、友だちも1位だったという。自慢ではありませんが、娘は友だちが少ないです。高校3年間で親友は一人もおりません。友人と呼べる子は2人ほど。その内の一人も100点だったのです。今回のテストは簡単だったと言います。たぶん100点が続出したのです。友人は二人とも成績はいつも娘よりも上です。ということは残る一人もたぶん100点です。うーんと、ということは300人の3年生のうち、250人ぐらいが100点だった可能性があります。だって英語はいつも250番ぐらいですから。
でも99点をとった子は「やったぁ♪」と叫び「なんで学年251番?」と思ったはずで、とても気の毒でございました。

何を書きたいのか分からなくなってきました。娘を褒めたいのか貶したいのか・・・。
娘よ、褒めていいか貶していいか人生の岐路に立つ父だが、漫画家でも化学者でも語学者でもなんでもいいから、一日も早く、父に小遣いをくれる大人になってください。



高校生!  




高校生!




次女の入学式でした。
『芳恵、高校合格おめでとう。このご時世に塾にも通わず自力で志望校に合格したのは立派だと父は思っている。君から「合格したよ」の電話をもらったとき、父は不覚にも涙ぐんでしまったさ。

父から君への伝言はたった二つ。世間に迷惑をかけてもいいから自由に生きなさい。
それと、ガスコンロに火をつけるとき、恐怖でおしっこを漏らすクセを直そうね。』


娘たちよ。上の文章を書いてすでに2年が経ったということだ。姉と同じ高校に入学した正恵も自由な校風を満喫できるような学生生活を送って欲しいと思っている。
進学校なので大学を目指すのだろうが、これから先をどう歩むかは君たちの裁量にまかされている。親が金も口も出すのは高校まで。その先は、口は出しても金は出さない。いや出ない。無い袖は振りたくても振れないもの。

自力で一点突破全面展開。これしかない。君たちの大学進学の道は厳しい。金がかからない大学となると国立しかない。他府県の大学なら格安の学生寮が必須。学費も自分で稼がなくてはならない。勉学以外の条件が色々とつきまとう。これが手枷足枷になるが、得る代償は大きい。親の意見に耳を傾けることなく自由に生きていいのだから。

父はかつて、長女の漫画家としての印税と次女の競艇選手の賞金で左どころか左右に団扇を夢見ていたが、その思いを捨てた。新地のママの長女とチーママの次女の君たちと、店が引けた深夜に夜通しやっているうどん屋でカレーうどんを食べるといったささやかな望みも捨てたから、もう君たちは自由なのだよ。
父は、残る人生を君たちに頼るのではなく、ロト7のキャリーオーバー付きの1等的中に賭けていこうと思う。幾つになっても夢を捨てちゃぁいけないと思うんだ。ああ、欲惚けともいうな。


娘たちよ。父はできるだけ長く大学のキャンパスで遊んでもらいたいと思っている。社会に出れば社会人のレッテルを貼られる。人間はくだらないレッテルを貼られたり貼りたがるものだが、最悪のレッテルが社会人だ。実にくだらないこのレッテルで、不可避的に世間の柵(しがらみ)に縛られる。
社会人になったとしよう。なんと、94%のサラリーマンが会社や上司の悪口を肴に酒を飲んでいるのだ。そして83%のサラリーマンが、自分よりわずか5年ほど勤務年数が長いだけなのに、偉そうに説教を垂れ、仕事だけでなく、家族や生き方まであれこれと指図や意見を言う。工場のラインで人より少しネジを締めるのが早いからといって、プログラムのバグを見つけるのが早いからといって、点滴の針を刺すのが上手いからといって、ちょっとばかり営業成績がいいからといって、たったそれだけのことで、何を偉そうに他人の生活まで踏み込む権利を持つのだと言いたくないか?サラリーマンの94%はそんな連中ばかりなのだ。残る6%に属するには、まずは、できるだけ長く大学のキャンパスで遊ぶことなのだ。学生というレッテルは免罪符だから・・・。

ということで娘たちよ、今夜は何が食べたい?



桜、咲く!  




桜、咲く!


顔を綻ばせ全身に喜びを溢れさせながら小走りに僕の元へやってくる次女の、バックミラーに映る光景を、僕は生涯忘れないと思う。
車に乗り込むなり「合格した」といい「よかったよかった」を連発させた。その喜びの大きさと同じ大きさの不安を抱えて、この数日を過ごしてきたのだろう。その姿を愛しいと思った。
子供は三歳までに一生分の親孝行をするというが、そしてそのことを長女や次女は果たしてくれているが、三歳をとっくに超えた次女は今でも時々、父を幸せな気分にさせてくれる仕草をする。

次女に比べると長女は感情をあまり表に出さない。喜怒哀楽があまり外に出ないから、長所が見えにくいのだが僕は分かっている。父にはとても優しい娘だということを・・・。

長女以上に喜怒哀楽が外に出ないというか、喜怒哀楽中枢神経があるのか疑問に思えるのが妻である。ダイヤの指輪やプラダのバッグをプレゼントしても少しも喜ばない。
少しも喜ばないことを分かっているから、贈ったことはない。

そんな姉と妻とハンサムな父を持つ娘よ、高校合格おめでとう!♪



今日も快晴  




今日も快晴


明日は次女の卒業式。
中学に入学したのがつい昨日のようです。卒業式を了えると待っているのは高校入試。親はホッとして、そして気を揉みます。それは次女も同じなのだろう思います。卒業して入試発表までのモラトリアムな時間。“年寄りはあまりにも多い過去を想って退屈し、若者はあまりにも多い未来の可能性に退屈する”といいますが、娘はどんな思いでモラトリアムな時間を過ごすのでしょうか。

遙か何十年も前のことなのに、今も中学卒業から高校入学までの間の、モラトリアムな時間が忘れられずにいます。学校にも社会に属していない中途半端な時間。心地よいような居心地が悪いような足が地に着かないそわっとした時間。はたしてあの時間は、何に対する猶予だったのだろう。
何にでもなれそうな全能感と、何も成し得ないのではないかと思える絶望感。その狭間で揺れた日々は、それ以後も続き今に至ってます。
あれから何十年も過ぎ、いま僕は、何か成し得たのかと振り返ってみとる、そこにはただ、風が吹いているだけ、って、ボブ・ディランかい!

3年前に、次女の中学入学を記念して作成したスライドを載せてみました。
あっという間に3年経ってしまったんだ。


音楽が流れます



次女の誕生日♪  




次女の誕生日♪


妻がチョコ絶ちをして8ヶ月になる。中三になる次女の高校合格祈願なのだそうだ。

願絶ち。食べ物に限らず、最も好きな何かを絶てば願いが叶うと妻は信じている。見た目は大柄なフィリピーナだか、保守王国三河の、しかも農家の娘だから性格は苔むすほど古風なのである。僕は都会生まれの都会育ちで金粉がキラキラするような前衛的性格だから水と油。どうして喧嘩もせず17年間も夫婦でいられるのか不思議だが、たぶん、僕の忍耐力が強靱だからなのだと思う。

娘のために好きなものを絶つ。母の愛はすごいと思うのだが、ふと気づいたことがある。妻は確かにチョコが好きである。ご飯の上にチョコを乗せチョコ茶漬けで食べたり、チョコを囓りながらココアを飲んだり、チューブ入りのチョコで歯を磨くほどチョコが好きなのだ。先日は名糖のアルファベットチョコを3粒、こっっそり自分の味噌汁に沈ませていたから、中毒と言っていいほどのチョコ好きなのだが、それでもなお、ふと、チョコが一番だったか?と思ったのである。

というのも、僕が知る限り、妻が一番好きなのは栗のはずなのである。一番が栗、2番がチョコ、3番がイチジク、4番がエイリアンの子供のようなシャコだったはずだ。28番目ぐらいに夫、つまり僕がいる。僕はエイリアンの子供よりもずーとランクが下なのだ。

妻と一緒にスーパーへ夕食の買い出しに行くと、空の買い物かごに真っ先に入れるのは夕食の食材でもチョコでもなく天津甘栗の袋なのである。これだけを見てもチョコよりも栗が最上位だとわかるではないか。
最近の例だと、妻が立てたプランで北京へ旅行したのだが天津経由だったのだ。中華航空よりもJALの方が機内食が美味しいでしょというのが理由だが、実は、天津甘栗の本場天津の空の下で天津甘栗を買うのが目的だったのだ。

実際の天津はというと、天津空港から北京へ向かう道路は工業団地と荒涼とした造成地が延々と続き、見渡す限り1本の栗の木どころか雑木林もなかった。送迎の運転手に尋ねてみたら、天津には栗はないという。日本人は誰もが天津甘栗天津甘栗というのが不思議でならないとも言った。
東京に空がないといったのは光太郎の妻の智恵子だったが、そんな運転手の説明を聞いてもリエコ(妻の名)はまったく動じなかったのだ。

天津に栗の木は無かったが天津空港の免税店には栗が山ほど積まれていた。それを買い漁る妻を放っておいて僕と娘たちは国内線の売店に市場調査に行ってみたのだが、そこには天津甘栗は一粒もなかった。天津甘栗は日本人だけのブランドなのである。たぶん製造元は日本で、JALで空輸され天津空港の免税店に並べられれているのだ。

そういう調査報告も妻は馬耳東風とし、“本場の天津甘栗”をそれこそ山ほど買い込んだのである。妻は登山家ではないのでエベレストやマッキンリーには興味はない。が、モンブランは身悶えするほど好きなのである。モンブランの麓でモンブランを食べたいわ♪とうっとりするのだ。僕は内心、モンブランの頂上でモンブランを食べながら凍死しろと思っているが、それを言うと、こっちの身が凍る思いをさせられるから口には出さない。
余談だが、僕も登山家ではないが、キリマンジャロは好きだ。コーヒーね。身悶えはしませんが・・・。

話が長くなってしまったが、以上のように、一番好きなのはチョコではなく栗のはずだから、2番目に好きなものを絶っても願掛けになるのかと思うのだが、馬耳東風の妻は聞く耳をもたないし、12月のこの時期になってチョコから栗に変えても入試には手遅れだろうから、栗には触れずに妻のチュコ絶ちの満願成就を優しく見守ろうと思っている。

妻の中途半端な願掛けが気になるということは、願掛けの効能を僕も気にしているというとだろうか。ならば僕もまた妻を介した神頼みをしているわけで、夫婦して、次女の実力に期待するよりも、実力以外の奇跡が起こることを期待しているわけで、もうちょっとは次女の実力を信頼してやらねばと反省しきりなのである。

その次女、昨日が15歳の誕生日でした。
おめでとう。


大賞を射止める  




大賞を射止める


長女が高校生・中学生クリエーターコンテストの漫画部門で「魚戸おさむ賞」を受賞した。
この賞はグランプリに次ぐ大賞なのである。大賞と断定したのは、後述するが、魚戸先生自ら大賞と言っておられるからだ。もう一つ、娘にとって内なる大賞だと僕が思っているからでもある。その理由も後述する。



長女の受賞に先立って、中三の次女も某服飾デザイン学校のコンテストで優秀賞を貰っている。グランプリ1点と優秀賞5点の計6点の中の1点に選ばれた。上の写真は次女が受賞したデザインを服飾学校の生徒が作品化したものだ。中森明菜に着せたら「起きろ起きろ!」とDESIREを歌い出しそうな気がするでしょ。

姉妹が立て続けに賞を貰ったわけで、こういう現象をトンビがタカを生むといったりするが、僕のハンドル名はタカノツメ。つまりタカがタカを生んだにすぎないのである。こんな姉妹を産んだのは妻だが、協力した僕は立派な父親だと思うのである。

漫画家の魚戸おさむをご存じだろうか。20年以上も前になるだろうか、ビッグコミックオリジナルで『家栽の人』という漫画を連載されていた方だ。
※家裁(家庭裁判所)の「裁」ではなく栽培の「栽」です。なぜ「家栽」かは漫画を読めば分かる。



この写真を見て、「ああ!」と思い出されたはずだ。超メジャーな漫画家ではないが意外と世に知られた漫画家だ。かつて僕がいい漫画家だと思った一人だ。娘が賞を貰ったから言っているのではなく『家栽の人』が非常に好きな作品だったからだ。ビックコミックは売れっ子漫画家が軒を連ねる漫画雑誌だが、その中で魚戸さんの作品は一服の清涼剤というか、穏やかな気持ちにさせてくれる存在だった。

実は、表彰会場に出向くまで、「魚戸おさむ賞」が、その魚戸さんだとは気づいていなかった。漫画はしっかり覚えているのに作者の名前を覚えていなかったのだ。会場で知って驚き、娘に「これは大した賞やよ」と告げたのである。800数十点の中から唯一点、ご本人に選んでいただいたわけで、とても名誉なことだと思ったからだ。

http://blog-imgs-55.fc2.com/b/l/o/blogtakanotume/yoshie2.jpg" alt="">


「大した賞やよ」、つまり大賞なわけだが、娘にとって内なる大賞なのは副賞で頂いた直筆の色紙にある。この色紙が半端ではなかった。娘が自分の受賞作を持って立っているイラストが描かれているが、娘そっくりなのだ。髪型が・・・。ふっくらさも・・・。
顔は、顔は似てない・・・。

左上に「一生漫画を描き続けてください!」とある。
これだけなら普通の色紙と大きな違いはない。漫画家なのだからイラストを描き添えるのは普通、当然といえる。けれどもこの色紙は違うのだ。魚戸さんの思いがこもっているのである。



娘が持っている受賞作の写真だ。娘も僕もコピーして貼ったと思ったのである。ところが違った。描いてくださったのだ。



これが実際の受賞作。見事にそっくりである。かなりの時間を割いて描いていただいたに違いないのだ。
これには驚くだけでなく、ここまでやってくださったという感動を覚えた。驚きはまだあって、色紙の裏にもメッセージが書かれていたのである。



「コンテストの大賞(?)おめでとうございます。
この色紙で今日の芳恵さんのイラストを軽く模写して感じました。センスの良さを。
このセンスをぜひ伸ばして、漫画界で活躍してほしいと切に思いました。マジで。
センスは持って生まれたものと、みがいてさらに光るものがあるので精進あるのみ!!
期待しています」


素敵なメッセージでしょ。3行目の訂正部分には「しまった、書きまちがえちゃった」みたいな暖かさを感じるはずだ。
色紙に書かれた「一生漫画を描き続けてください!」が決して社交辞令ではないことが分かる。



表彰状なのだが、ここにもメッセージが添えてあった。

「まず一見した際に、色の使い方が僕のツボでした。
サラッと薄い色使いですが、軽いペンタッチに合っていて手慣れた感じを受けました。
描いたもの1つ1つに“想い”があると思いますが、その思いがもう少し伝わる色づかいもあっても良かったかと思います。
たぶん、ほぼ全ての色が何かと何かを混ぜ合わせ“自分の色”にしているところにも好感が持てます。絵をしめるためにどこか一点だけ朱色を入れてやるといいですよ。
このセンスで、コマを割って漫画を描けばプロデビューは近いと思います。イケテル作家になってください。期待しています。」


娘にとって最上級の応援メッセージだと僕は思った。
プロはたぶん、プロになれるなどと軽々には言わない。娘は、そんなプロからプロになれると言われたわけで、その意中は嬉しさで一杯ではないかと思う。
まさに娘にとって、なにものにも勝る“内なる大賞”の「魚戸おさむ賞」である。


ここまで書いてきてフト思ったのだが、熱いメッセージを頂いたのは、他にも理由があるのかも知れない。
受賞作のタイトルは「ひきこもりたまご」だった。そのタイトルからイメージし、魚戸さんは作者(娘)はひきこもり美少女と思ったのかも知れない。(注:美は僕の修飾)

魚戸さんの画風は優しい。特に、子供への目線が優しい人である。作品の中にいつも爽やかな風が吹いているような感じがある。
魚戸さんは村上もとか氏のアシスタントをされていたようだ。村上もとかといえば僕の世代なら『六三四の剣』や『龍-RON-』である。そしてあの『JIN-仁-』がある。
余談になるが、漫画が映画化やTVドラマ化されるケースは少なくないが漫画を超える作品は少ない。『JIN-仁-』は数少ない成功例だと僕は思っている。『家栽の人』もTVドラマ化されたが漫画の良さを超えていない。
上海や香港の混沌を不舞台にしていた『龍-RON-』ですら爽やかな感じがあった。魚戸さんのタッチは村上もとか氏に似たものがあるように思える。師匠と弟子なんだなと思うのである。

そんな魚戸さんだから、娘をひきこもりの少女と思ったのかも知れないのだ。けれども皆さんご存じのように娘は普通です。イラストのようにぽっちゃり度の高い校2です。陸の上ではドン臭いが、海の上なら風の無いところに風を吹かせるヨット乗りでもあります。ひきこもりは事実だがPCに向かってペンタブレットで絵を描く時間が長いからで、これは2歳の時からの習慣なのである。

娘が1歳の時に企画会社を畳み和歌山に移住しラーメン屋を開業。狭い厨房にレンタルのベビーサークルを置きその中に放って置いたときから絵を描き始めた。線画とでもいうのか、マッチ棒に手足を付けたような1cmにも満たない大きさの絵をA4用紙に何百、何千とコツコツ描き続け、決してぐずらず泣きもせずという親孝行さだった。そのマッチ棒絵は幾百通りもの姿形があって動的で表情すら感じられ、天才か?と思ったこともあったのだ。
いま思えばマッチ棒線画は人体模型をいじっているようなものだから、この時に絵の基礎ができたのではないかと思っている。

魚戸さんは娘の作品を一目見て「サラッと薄い色使いですが、軽いペンタッチに合っていて手慣れた感じを受けました」と評してくれたわけだが、2歳から描いているのだから手慣れているといえばそうだし、サラッと描くのも得意。魚戸さんはたった1点の作品をみただけで見事に娘を看破していると思ったのだった。

「ひきこもりたまご」。この絵を描いた娘の心情は測れないが、タマゴはインキュベーター(保育器)だから、自分の未来のためにインキュベートしている真っ最中の絵だと思いたい。精進の時期なのである。

この記事を読むとは思えないけど娘よ、

天才も、20歳過ぎればタダの人やで・・・。

先生の言葉を励みにし、孵化できるよう、しっかりインキュベートしなさい。


大きくなって  





大きくなって




『うめ』でございます。ブログ2度目の登場です。画像をクリックすると大きなサイズになります。
初めてブログデビューしたのは今年の5月でした。野良だったので確かなことは不明ですが生後2ヶ月ぐらいではなかったでしょうか。3.3kgだった体重が5ヶ月後の今は14kg、恐ろしい成長ぶりです。この娘はいったいどういう雑種なのでしょう。
犬のことはよく分かりませんので、どこまで大きくなるのか興味津々の一方で、体力負けして日々の散歩が辛くなってきております。
外で飼っていますが、年中リードで繋がれているのは嫌だろうなと思い、240cm×150cmのフェンスを自作し、普段はその中に放しています。

今日は久しぶりの室内です。台風が来るので避難させました。サークルの上に軒があり雨対策もしてあるので少々の雨は問題ないのですが、台風のような強風と横殴りの雨には耐えられません。可哀想なので室内に入れました。嬉しいみたいです。
ハート柄のパンスが可愛いでしょ。急ごしらえの生理パンツなのです。妻がソファーのアチコチについている血を発見しウメの生理に気づいたのでした。娘の小学生時代のパンツの尻尾部分に穴を開け人間用の生理ナプキンを貼り付けたものですが、いい出来映えでウメも気に入っておりました。ほんと?
それにしても生後7ヶ月ほどで生理とは。犬ってそういうものなのでしょうか。

ウメは自分の名前が気に入らないのか「うめ!」と呼んでも返事をしません。尻尾を振って駆け寄ってくることもありません。ご飯をやるときだけ尻尾を振り勝手にお手をします。ご先祖はパブロフの犬だったんでしょう。

わが家にはポンズという7歳の猫がおります。ウメと同じ色目というか白と茶の猫です。ポンズは名前を呼ぶと「にやぁ」と返事をします。2階で寝ていても名前を呼ぶと返事をします。「おいで」と呼ぶと来ます。外で自由に遊んでいます。100mほど遠くにいても見えている所なら名前を呼ぶと猫のくせに脱兎のごとく帰ってきます。100m以上離れているときや所在不明のときは小鉢をスプーンでチンチン鳴らしてやると5分以内に必ず帰ってきます。ウメよりもよほど犬っぽい猫なのです。ご先祖様はパブロフの猫だったに違いありません。

以下はウメがデビューした時の日記です。

5月11日に家族が増えました。この歳になっての子ですから、いかに厚顔な僕とはいえ公表するかどうか少し悩みました。でもお目出度いことなので皆様に喜んでいただきたいし、お祝いも頂かなければなりませんので公表させていただくことにしました。

たかのつめ家は女ばかりなので、今回は男の子と思っていたのですが、女の子でした。
でも天からの授かりもの、何の不満もございません。

名前は『うめ』と申します。なんと古風なと思われるでしょうが、文句あるの?

「お隣のうめ婆ちゃんね」と言われるほど長生きして欲しいという親の願いが込められています。だってね、いくら我が子が可愛いからといって樹愛里(じゅえり)や輝魅蝶(あげは)結愛(りぼん)紗音瑠(しゃねる) 奏日亜(そふぃあ)茶彩羅(てぃあら)なんて名前が付けられます? アホちゃう?

命名にあたって色々と調べてみたのです。すると上のような名がずらり。空を(スカイ)と呼ばせるのは僕は呼びたくないけどいいとしましょう。でも楽気(らっきー)はないんじゃないの。どういう人生を期待しているの。

礼加。レタスと読むらしいです。加は加えるだからプラスの足す。だからレ・タスということなのでしょう。加減乗除の足し算と引き算しかできない親なんですね。この名前、百歩譲ったとしても、自分の娘の名にレタスというのは理解できません。娘が台所でお手伝いができる年頃になって「れたすぅ、野菜室の中のレタス取って!」と母親は言いたくてつけたのかな。かっわいぃ♪
けどお、そんなお遊び、2~3回で飽きるで。

夏偉樹はナイキと読みます。靴かぃ!
美羅乃(ミラノ)はイタリア好きなのかも知れませんが、
美惟羅(みいら)はないでしょ。名前の意味がわからん。
燃志はモヤシと読むそうですが、命名した時点で志が燃え尽きてません?
理在(りある)。あんたのアタマの中がリアルとほど遠い。
大也(ダイヤ)&主人(モンド)。双子なんだそうですが、二人が別々の人生を歩むと光りませんね。
ミライでいいと思うのに未来(ふゅ~ちゃ)らしい。あちゃぁ~。

20~25年ぐらい前でしょうか、美樹家(ミキハウス)が流行った頃は自分の子供を動く人形、着せ替え人形と勘違いしている親がたくさんいました。その子たちが今まで生きてこれたのは生命力の強さでも生活の知恵を持っていたからでもなく、高度に発達した医療とバカ親のインキュベート(保育器)の中で育ったからに他ありません。そうして大人になった子が、自分の子に“光宙”なんて名を付けるのですね。これ、何て読むかを今日のクイズといたしましょう。

こういう名前が氾濫すると、学校の先生に同情したくなります。都会は姓で呼ぶことが多いですが、田舎は下の名で呼ぶことが普通です。同じ姓があまりにも多いからです。ちなみにわが家の場合、お向かいさん以外は周辺全部が、三矢姓なのです。何百軒も三矢。下の名前で呼ばなければ判別がつきません。
で、教室で「ふゅ~ちゃ君!」なんて言っているわけです。樹愛里(じゅえり)や輝魅蝶(あげは)結愛(りぼん)紗音瑠(しゃねる) 奏日亜(そふぃあ)茶彩羅(てぃあら)なんて呼んでいるうちに、心ある教師は「キャバクラかい!」と胸の内で毒づくようになり、心ない教師は指名している気分になって「シャネルちゃん♪」なんて猫なで声で呼んでしまうわけです。

そういうことがないように、わが家の三女の名は『うめ』になりました。



可愛いでしょ。

普通のノラです。生後2ヶ月ぐらいでしょうか。農道で轢きそうになるという衝撃的な出会いだったので、これも縁と連れ帰ってきました。警戒心が強く数日間はまったく慣れませんでしたが、ノラが野良で生きていくために警戒心は不可欠。1週間経って少し慣れてきて、ようやく子犬らしい振る舞いを見せるようになりました。

新家族、ポンズ同様、よろしくお願いいたします。


※ “光宙”は(ピカチュー)でした。 こんな感じの大人になるのかな。




台風と記念スライド  





台風と記念スライド

台風4号が18日21時現在、沖縄を通過中。予想進路のままだと明日夕方にはわが家の真上を通過するようです。

次女は水曜日朝に通過してくれと祈っております。いうまでも学校が休みなるからです。

妻も水曜日朝に通過してくれと祈っておりました。台風のため給食が休み。休校なら弁当を作らなくて済みからです。

長女は我関せずといった感じです。台風でなくても雨なら車で送迎だからです。

僕は、当然、19日夕方に到達し足早の去ってくれと祈っております。長女を送迎しなくていいし、洗濯物は干せるしって、主婦かい! 主夫じゃ!

早いもので、次女ももう中学3年生。高校入試に向けて勉強中なのです。志望校に受かるかどうかは微妙なところ。現状のままではまず無理なので勉強しなさいと言ってますが、姿勢が適当なんですね、次女は。妻が教えている塾に週2度通っていますが、教えてくださっているのはオーナーの塾長先生。次女の未来は塾長次第なのです。
もし塾長先生がこの日記を読んでいたら、プレッシャーですねー♪

小学校を卒業した時も、もう中学生かと思ったものでした。卒業記念のスライドを作りましたが、あれからもう3年。ほんとに月日の経つのは早いです。

その時のスライドを載せておきます。(音楽が流れます)





▲Page top