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Old Saltの日々雑感

日々雑感的に思うところを小さなウソと大きな誇張でデフォルメして掲載中!

파이팅!  




파이팅!


韓国語の勉強に必死で、このところまったくブログを顧みていなかった。
その講座も先週で5回目が終わり残すは3回。道半ばを過ぎ落ち着いてきたかというと、まったく逆で、回を重ねるにつれ内容が難しくなって行くため、これまで以上に追い込まれている。

もう40年も前になるでだろうか。
司馬遼太郎の「街道を行く」モンゴル編に触発され、モンゴルに行きたいと切望していた時期があった。当時の日本では、モンゴルではなく蒙古、知っているのはジンギスカンとお尻の青アザの蒙古斑ぐらいのもの。モンゴル関連の情報集めをしても何もない状態だった。唯一見つけたのがモンゴル語教本の「モンゴール語四週間(小沢重男著)」だった。
著者の小沢重男氏はモンゴル研究の第一人者的存在(後に知る)だったのだが、その専門家ですらМонгол (モンゴル)をモンゴールと表記していた。
後にネイティブなモンゴル人から学んで知るが、Монголはモンゴールとは読めないのである。
そんな教本で独学でモンゴル語の始めたのだが、生のモンゴル語を一度も聴いたことがなく、今と違い音声が入ったCDなどの付録もないから、書かれている発音記号を頼りに発音してみても、合っているのかさえ分からない状態だった。

突然話が飛ぶが、当時の日本人は韓国に強い差別意識があった。その頃世間の顰蹙を買った農協主催のツアーがあった。名所旧跡観光は名ばかりで実際は買春ツアー。顰蹙を買っても止めなかったのは韓国を見下す差別感があったからに他ならない。両班(ヤンバン:朝鮮王国時代の貴族)が奴婢(ヌヒ:最下層の人々)を見下すのと同じ視点だったからだ。だから何が悪い?という感覚なのだ。
現在、日韓友好の大きな障壁の一つに慰安婦問題があり、強制連行された慰安婦がいたこが事実であるにかかわらず慰安婦などいなかったと否定する議員や国民が多く存在するのは、彼らの中に今も韓国を見下す意識があるからだ。

農協主催の団体ツアーは男だけでなく農村の主婦を対象にしたものもあった。当時は男だけでなくオバサンたちも朝鮮人に対する差別意識を持っていたから、金浦空港に降り立ったとたん、空港内に漂うキムチの臭いにノックダウンされ、目も口も耳も閉ざし、つまり、韓国の衣食住を楽しむことも理解することもなく、臭い国という悪印象だけを抱き帰国したのである。

時代が変わってもオジサンの意識は変わらず、せいぜい韓国からフィリピンやフィリピンパブに目先が変わった程度だが、オバサンは変わった。
例えば今回のトラベル韓国語講習仲間のオバサンたちはキムチを肴にビールを飲みつつ韓ドラ鑑賞し、チヂミをつまみながらK-POPなのである。昭和のオバサンたちにはクサイ臭いでしかなかったキムチが、平成のオバサンには美味しい匂いになった。
臭い(におい)が匂いへ。この価値・感覚の変化がもたらす意味は大きい。以外と気づく人が少ないが、匂いは大きな差別要因だからである。

受講仲間の中には、今年になってすでに2回も韓国へ行った人やK-POPを追ってこれまで17回も韓国へ行った人もいて、平成のオバサンたちはすごくアグレッシブだ。好きこそものの上手なれの好例というか、このお二人、けっこう韓国語ができる。
ただ思うに、K-POPを追って17回はすごいが、若い娘の場合は追っかけだが、オバサンの場合はストーカーじゃないの? なんてことは口が裂けても言えません。

日韓の溝を大きく埋めたのは政府ではなく韓ドラやK-popファンのオバサマたちであると断言できる。それは多くの日本人の意識を変えただけでなく韓国人の日本に対する意識も大きく変えた。近くて遠かった韓国を近くて近い国に、多くの韓国人にとって近くて遠かった日本に対する意識を近くて近い日本に変えたのは、まぎれもなく日本のオバサマたちなのである。
친구여(友よ) めざせ今年3度目の韓国!
친구여 めざせ18回目のストーカー!

ま、とにかく、大相撲のモンゴル人の活躍や韓ドラやK-POPの人気ぶりを見るたびに今昔の感に打たれます。

話を戻そう。
40年前、東京外国語大学が大学生を対象に夏休みを利用した少数民族語学講座を開催したことがあった。その中にモンゴル語講座があり、しかも教室は大阪。当時大阪の千里ニュータウンに住んでいた僕には千載一遇のチャンスだった。
ただ残念なことに募集は現役の大学生のみ。この機会を逃すと二度とモンゴル語を学ぶことはできないと思い、東京外大へ思いの丈を綴った長文の手紙を書き送ったところ熱意が伝わり例外を認められ受講できたのである。
届いた受講案内を見て、講習期間は夏休みの40日間だと知る。毎日9時から5時まで。なるほどこれは大学生でないと無理だ。社会人は仕事を辞めなければ受講できない。2月に会社を辞め、厳寒の奈良県の山奥で地質調査の肉体労働をして3ヶ月分ほどの生活予備資金を貯め夏を待った。

その1年後に8年間身を焦がし続けたモンゴルの地に立つわけだが、その詳細は今回の話とは関係がないので割愛する。が、一つだけ。
当時のモンゴルはソ連に次ぐ世界で2番目に古い共産国家で、観光旅行はむろんのこと、今のように誰もが簡単に行ける国ではなく、登山隊や学術調査、技術提供、交換留学生といった公的立場で少数の日本人がモンゴルに入った程度で、個人の観光や私的目的でビザが下りることは無かった。その壁を僕が破り、戦後、個人でモンゴルに入った最初の日本人になった。これは自慢しても許されると思う。

今でこそヨボセヨとかキムチジュセヨと言っている僕だが、元は蒼き狼(チンギスハーン)の末裔なのだ。だからモンゴルでは誰に教わることもなく馬にもラクダにも乗れた。馬に乗れる日本人は多くてもラクダに乗れる日本人は少ないはずだ。
お世話になっていたゲル(円形テント)のラクダ飼いの親父に「お前は立派なテメーチン(ラクダ飼)になれる。娘と結婚してここに住め」と言われたこともある。結婚していたら僕は今も彼の地に住んでいたわけだが、当時の僕は面食いだったため、どう妥協しても娘さんが僕の好みには合わなかったのだ。僕はまだ若く、女性の魅力は容姿だけではないということを知らなかったのだ。男ってバカですね♪

40日間毎日9時から5時まで現役の大学生と肩を並べての授業はとても辛かった。初めてモンゴル人を見た感動、初めてネイティブなモンゴル語を耳にした感動の余韻は2日間ほどでキレイさっぱり消え、後は地獄の毎日になった。
向上心の強いデキル学生ばかりだったので彼・彼女たちはスイスイと前へ進むのに、僕は帰宅後夜中まで復習と予習を懸命にやっても最後方をついて行くのがやっと。寸暇を惜しんで通学の電車の中でも単語暗記をしてもも「次は○○~」と降車駅のアナウンスが耳に入ったとたんに覚えたはずの単語が消えてしまう毎日だった。
とても情けなかったとです。ヒロシです。

それでも約300時間の集中授業は伊達ではなかった。先生が、モンゴルでは知らないモンゴル人はいないと言われ誰からも、「棈松バクシ!(あべまつ先生)」と慕われた大阪外大の棈松源一教授だったのも幸いした。司馬遼太郎さんは大阪外大モンゴル語科卒で、学生時代、この棈松先生から学んでいるのだ。その棈松先生から僕も学べたわけで、最後尾でついて行くのが必死の僕でも片言のモンゴル語は話せるようになった。そしてモンゴル行きも実現させたのだが、だがである。当時の授業での自分を思い返すと、その体たらくぶりが今でも情けなくてなしかたがないのだ。

その情けなかった思いを40年後の今、再び味わっている。当時と違い週一の90分だし美人のオバサマ(注:そうでないオバサマも混じる)たちの中の紅一点ならぬ緑一点なので環境はよろしい。妻がいうにはハーレムみたい♪らしいが、それは甘~い、甘すぎる。
めんどりの群の中に放り込まれた一羽のおんどりと言った方が正鵠を射ている。

受講して痛感したのは記憶力の衰えだ。集中力の低下も。韓国なら3歳の子供でも言える一から十、「私はペ・ヨンジュンです」といったことすらまとも言えない。なぜかとういと、僕が3歳だったのは遠い遠い昔のことだから。
大人には雑念がある。なので、「そういえばペ・ヨンジュンは去年結婚したよね。奥さんはパク・スジンだった?」「パク・スジンは僕の彼女は九尾狐(내 여자진구눈 구미호)に出てなかったっけ」「あのドラマは面白かった」「パク・スジンは日本語がぺらぺらなのがすごい」などと、雑念が頭の中を駆け巡りあちこち脱線し、九尾の九は구(ク)で、固有名詞だと아홉(アホプ) といった学習に身が入らないものだから覚えられず、毎回教室で冷や汗を流し続けている。

1回目の授業が終わったときに、こうした会話教室に向いていないことを自覚した。右耳は鼓膜が無く、頼りの左耳が加齢による軽度の難聴。それを失念していたのだ。先生の話がちゃんと聞こえていないではないか。
日本語の会話でも「えっ?」と聞き返すことが多い左耳が、「えっ?」無しで韓国語が聴き取れるはずがない。先生が教本の文を言い復唱するように言われても耳コピができていないからしゃべれない。
だから家で他の生徒以上に予習や復習をしなくてはならないのだが、復習を始めると上述したようなペ・ヨンジュンの嫁は誰?的に思考が転々。肝心の勉強が前に進まないのである。しかも、心優しい受講仲間が韓ドラを全60話分も貸してくれたりするものだから、ますます勉強が手につかない。

そのような現状なのだが、僕が韓国語の勉強を投げ出すことはない。なぜなら「生涯・韓国語」を座右の銘に置いたから。
僕は突発性間質性肺炎という難病持ち。この病気の平均寿命は5年半、長くても8年なのに、よほどこの病気に好かれているのか罹患して今年で10年目なのにまだ生きている。医師がいうには珍しい例だそうで、「アナタの場合は寿命はあと何年ではなく、毎日が更新と思って生きてください」とのことなのである。つまり明日高熱を出してダウンしても何の不思議もない。だから「生涯・韓国語」といっても何十年もということではないから、気楽な座右の銘なのだ。

トラベル韓国語講座で得た最大の成果はたくさんのガールフレンドができたことだと思っている。LINE友だちが両手に花なのだ。もとい、両手にうば桜というべきか。
誤解がないように書いておくが、姥桜は年老いて萎びた花という意味ではない。“若さの盛りを過ぎても、なお美しさが残っている女性”のことをいう。 実際、何か趣味に打ち込んでいる女性は、僕の目には例外なく美しく可愛く見える。

トラベル韓国語講座の最後尾を追走する僕なので偉そうなことは言えないが、あえて言わせていただくと、講座自体は食い足らない内容だ。
祖父をハラボシ、祖母をハラモニ、妹から見た姉はオンニ、弟から見た姉はヌネなどはどうでもいい。韓国に親兄弟はいないし、韓国に旅行したとしても使う言葉の優先順位は低いと思うから。
講座名が「初歩の韓国語講座」や「初級韓国語講座」ならいい。だが「トラベル韓国語」がタイトルだ。しかもわずか8回、72時間でしかない。短期間の講座を少しでも効果あるものにするにはタイトルに即したシラバスでありカリキュラムであるべきだが、近所の韓国人のオバサンに場当たり的に教えてもらっているという感じが否めない。

仁川国際空港に降り立った所からスタートし、明洞や仁寺洞や広蔵市場などを巡りながら母音や子音、基本的な数字や単語を学び、買物や交通などの例でその使い方を学び、冬のソナタの舞台になった春川辺りで講座の最終回にする。そして、「次は一歩ディープな韓国(中級編)を楽しみましょう、파이팅!(ファイト)」
トラベル韓国語なのだから、僕ならそんな内容にする。今のやり方だと一歩一歩階段を上っている感覚がない。散らかった部屋の今日はここ、明日はそこ、次はあそこと片付けているようなもので、8回でどこまで片付くの?という感じなのだ。トラベル韓国語講座の最終回のイメージができない。
このような疑問はは2回目あたりで感じていた。続けても大した成果は期待できないと思った。で、目線を姥桜たちに向けたのである。彼女たちと友だちになろうと思ったのだ。

地球上に70億の人がいても生涯に出会える人の数は知れている。歳を重ねると人との縁をよく意識する。せっかく出会ったのだから大切にしたいと思うようになる。
どうせ出会うなら、若さの盛りを過ぎてもなお美しさが残っている姥桜よりも、若さの盛りが過ぎていない美しい人の方がいいが、相手だって渡辺謙のような僕よりも福山雅治の方がいいと思っているはずだから贅沢はいえない。

そこで、LINEをやりましょうと呼びかけた。せっかつ出来た縁だし、習い事は継続が全て。一人では頓挫しがちでも仲間がいると励みになる。韓国語や韓ドラやグルメだけでなく、色々と情報交換できる。それが継続のエネルギーになる。そう思ったのである。

LINEの提案に快く応じてくれた姥桜が現在5人。みなさん素敵な女性たちだ。
せっかくできた縁、出会である。講習が終わったあとも交友活を続けていきたいと思っている。


湯船に浸かる幸せ  




湯船に浸かる幸せ


ちょっと文化について語ってみたい。
とはいっても、「文化とは極めて土着性の強いものだから国際的文化などは存在しない」といった形而上学的なことではなく、形而下というか俗なというか、気楽なというか、そんな文化の話である。

まずは文化包丁。
思い切った名称であると思う。なぜ文化包丁というのかというと、これは諸説あるのだ。そもそも、学術的に調査された研究テーマでも諸説紛々なのだから、巷の八っつあん、熊さん的レベルだと人の数の分だけ説があると思っておけば間違いない。

文化包丁の場合、「研がなくていい包丁」だったから。研がなくていい包丁は便利・新しいわけで、文化の定義に合致していたのである。文明の利器だから文化包丁ではなく文明包丁だろうと思った人もいるかも知れない。もう一歩先読みしましょうね。文明の利器が文化生活を豊かにしたのさ。だから文化包丁。なによりも文明包丁ではしっくりしない。文化の香りがしないと・・・。

その文化包丁、今は三徳包丁と名を変えた。通常、ネーミング変更は元の名を超えることが条件になるから、文化よりも三徳の方が上位ということになる。僕は三徳よりも文化の方が懐が深いと思うのだが、庶民の多くは、よく分からない名称よりも具体的かつ現世利益的名称の方を有難がる傾向が強いので三徳が上位になったと思われる。

三徳、この三が絶妙なのである。一石二鳥や一挙両得などはなんだかとても得をしたような感じがするが、これは一と二を足せば三になるからである。鼎の軽重というが、軽重を問う鼎が3本だから含蓄が深いのであって、10本も20本もあれば軽重などどうでもいいやとなってしまう。早起きは三文の得の三文は金銭を超えた有りがたい得をイメージさせるし、水前寺清子の一日一歩三日で三歩♪の歌が国民的流行歌になったのも、三日で三歩という庶民にはとても計算が易しい足し算であるだけでなく、得した気分になれる三が2つも使われていたからなのだ。野球の場合、打率が3割3分3厘と聞くとすごい名選手のように思えるが、4割2分1厘と聞くと、まだ40試合しか消化していないもんねーとか、たまたまだよねーと思ってしまうものだ。
かように、3という数字は摩訶不思議なオーラを発しているのである。

ということで、三徳は文化を越えた名称だったので、この場合のネーミング変更は間違いではなかったということになる。
ただ思うのだが、有名料理人の○某や△某が個人宅で主婦に三徳包丁で食材を切ったりしながら料理を教えている様はなんとも似合わなくて、いくら文化や三徳が便利で新しくても、料理の質の高さは望めないのかもと思ったりするのである。
もし小粋な料理屋のカウンター席で料理を食べていたとして、目の前の、糊がパリッと効いた割烹着の板さんが三徳包丁で刺身や刺身のツマを切っていて、「お客さん。この包丁、モリブデンで錆びませんねん。横に穴があいてるでしょ。胡瓜を切っても張り付かないいのですよ。先日ね、テレビショッピングで買いましてん。洗濯バサミがオマケで貰えて、えらい得した気分ですわ♪」などと言われたら、勘定を何万円請求されたとしても、僕は1500円しか払わない。

文化鍋。
これは鍋の上辺が鍔のような形状になっていて汁の煮こぼれがしない鍋のことだ。確かに吹きこぼれないが汁が鍔のところでジュージューと煩いし、乾いた汁が焼かれてこびりつき洗っても取れにくいのである。ということで、あまり文化的な鍋ではないと僕は思っている。

文化会館。
全国どこにでもある。そのものズバリの直球名の○○町文化会館のことである。「市民や町民や区民の営みの全てが文化」という位置づけなのだろう。何でもOKの多目的ホールということだが、広く浅いから奥行きのない文化といえるかも知れない。
全国どこに行っても同じ名前のホームセンターやファミレス、タイヤ屋やカーショップ、町金の店舗が並ぶ現象の元は、何でも有りの広く浅い文化会館の文化が、換言すれば、クリエイティブ能力が欠如した県や市町村の役人が生み出した文化のせいなのである。自治体の民営化こそが急がれると僕は思っているのだが・・・。
東京には文化放送という名の放送局があるが、自社の事業を“文化”と豪語する自信は大したものだと思う。思うけれども、内容は文化会館的に広く浅いだけという気がしないでもない。

文化人。
変な人種である。知識人も変だ。文化人ですねー、知識人ですねーと言われて喜んでいるとしたら、その人はアホか泥酔しているかのどちらだ。だって、ネオン街の路地裏で「社長ぅ!先生!いい子いるよー♪」と言われているのと同じだもの。



文化住宅。これが一番奥が深い。
この住宅の認識は東西でかなり異なるようなのだ。ほとんどの文化が西日本から生まれている中で、文化住宅に関しては関東生まれなのである。写真のような大正モダン的な洋風の住宅のことを文化住宅と言った。



嵐を呼ぶ男では国分正一(石原裕次郎)が丘の上の洋風住宅に居候し、ドラマーになる練習をしていて、家主のプロモーターの美弥子(北原三枝・後の裕次郎の妻)と陽のあたるダイニングで朝のコーヒーを飲んでいたアレ、アレこそが文化住宅だったのである。
その正一が母と弟の三人で住んでいた木造アパート。小さな流しのある2間造り。風呂無しトイレ共同で、これが映画全盛時代の庶民の住宅だった。

関西で文化住宅の名称が使われるようになったのは戦後からだが、東京の大正モダン的な洒落た住宅ではなく、木造モルタル平屋もしくは2階建ての集合住宅のことを文化住宅とか文化アパートと言った。名前こそ文化がつくが、関東の大正モダン的な洒落た洋風住宅とは雲泥の差があったのである。
同じ文化住宅でも建物がこうも違うと、東京では吉永小百合が「そんなことをおっしゃたら、お母様に言いつけますことよ」なんて話すわけで、関西だと「おっさんオッサンこれなんぼ。わてホンマによう言わんわ」とガラッパチぽくなるのである。

おでんのことを関東煮といったように、住宅も関東で使われていた文化住宅という名称に便乗したのだと思う。関西では「関東」や「東京」と付けておくとなんとなくモダンな味付けになったのである。今の全国津々浦々に「銀座」があるのと同じだ。
いずれにせよ、戦後まもない頃の都会の住人はほとんどが風呂無し、トイレ共同のアパートか長屋に住んでいたわけで、集合住宅とはいえ、各戸にトイレやキッチンのある住居での生活はかなり文化的だったのだ。



関西の文化住宅はご覧のような間取り。今でいうハイツである。ハイツはプレハブだが文化住宅は木造モルタル造り。各戸にキッチンとトイレがあることが文化的生活だったのだ。今のハイツはザインも機能も良くなり昔の文化住宅の面影は無くなったが、唯一、遮音性の悪さだけは文化遺産として今も継承しているようである。

各戸にキッチンとトイレがある文化的生活に慣れると次に欲しいのは風呂だ。
寒い冬の夜に赤い手拭いマフラーにして小さな石鹸をカタカタ鳴らし銭湯に通う生活も毎日となると歌詞を口ずさむ気にもならないわけで、銭湯まで徒歩5分以内の文化住宅は家賃が高かったぐらいなのである。だから、内風呂が欲しいと誰もが思った。



そのニーズに応えたのが上の写真なのだ。これはコラージュ写真ではなく、本物の写真。その名を「ホクサン バスオール」と言った。
タタミ半畳ほどのスペースのプラ製の容器の中に一回り小さな浴槽があるだけの風呂なのである。これだと大掛かりな工事を必要とせずベランダにポンと置けば使えたのだ。



湯は外の給湯器から溜めた。昔の給湯器は給湯能力が低く、冬は50度程度の湯を浴槽に7分目目ぐらいまで溜めるのに2時間ぐらいかかった。50度は入浴には熱過ぎる温度だが2時間もかかるから冷めるのだ。湯が中々溜まらないだけでなく、洗い場がなく浴槽の上に蓋をしてその上に乗って身体を洗わなければならなかったから身体を洗うのが面倒ということで、浴槽に湯を溜めて使ったのは最初の数回で、それ以降はシャワーとして使っている人の方が多かったと思う。
僕はこの風呂すらない文化住宅に住んでいたので、時々、友人の超文化的生活を覗き、このバスに何度か入ったが、このモダンな文化はイカンと思ったものだった。

このようにホクサン・バスオールは浴槽の上で身体を洗うという訳の分からない風呂だったが、これこそ、風呂をバスと洋風に呼んだ走りだったのである。
ベランダの無い文化住宅に住んでいた件の新婚の友人は狭い台所の横にこれを置いていた。脱衣スペースが無いので、友人の嫁が風呂に入る時は僕たちはバスに背を向けて見ないようにしたのだった。けれども浴槽に浸かる、身体を洗う、再度浸かるためにビニールのカーテンを開けて外へ出なければならないわけで、その都度「あっち向いてホイ」と言われた。ジャンケンの“あっち向いてホイ”のルーツは、この文化的行動にあったということを知っている人は、今は少ない。
何かの拍子で、友人の嫁が素っ裸で浴槽の上に板を敷いている後姿をちょっと盗み見してしまったことがあって、そのモダーンな尻の大きさに圧倒された記憶は今も鮮明に残っている。サザンがデビューする5年ぐらい前の話である。

お正月  








とっても地味ですが・・・  




とっても地味ですが・・・


みゅーというハンドルネームの方が時々僕のブログを覗いてくれています。
大阪在住の方で『ミュージアムに行きました。』というブログを開設されています。プロフィールには「オッサンがゆるーく綴る、主に関西の博物館・美術館・資料館などの訪問記」とあります。
関西人が他称ではなく自称で「オッサン」といった場合の年齢幅は30~80歳と広いです。つまり年齢不詳。だから“みゅー”さんがどの程度のオッサン度かは不明ですが、妙齢の女性には強い興味を持ちますがオッサンには何の興味もあありませんから、みゅーさんのオッサン度は僕にはまあ、どうもいいです。

ゆるーく綴るとありますが、緩さを超えて、とても地味なブログです。とっても地味。それはミュージアムの日常の姿を紹介しているからだと思います。
われわれが博物館や美術館を自分のブログで取り上げるときは、なにがしかの特別企画展の紹介や、行ってきました!的な記事になります。
『ミュージアムに行きました。』の紹介記事にも多少はそういうものが含まれますが、それが目的というよりも、訪問してみたら特別企画展が開催されていたという感じなのです。
だからあくまでも、「常日頃の姿のミュージアムに行ってみました」なのですね。だから、とっても地味なのです。ミュージアムは館内撮影禁止が多いので、なおのこと地味に拍車をかけていると。僕は逆に、その地味さがいいなあと思っています。

常設展のミュージアムは地元の中にさりげなく生きているという気がしませんか。地元の文化風土の中で息づいているというか。少なくとも、次のようなことは言えると思うのです。
自分が住む町に日本一大きなパチンコ屋があったったとして、それを恥ずかしいとは思っても自慢とは思えませんが、例え小さくてもミュージアムや図書館なら、ちょっとした誇りとして自分の中に存在すると・・・。

137。現在紹介されているミュージアムの数です。動物園や植物園を加えると約150ほどになります。コツコツと巡っていらっしゃるのか、「ヤッホー♪!」と叫びながら走り回っていらっしゃるのかは存じません。オッサンには何の興味もありませんから存じたくありません。
でも、こういうブログを続けていただいていて嬉しいなと思っています。地味ゆえに、かえって地域の文化や季節感を垣間見ることができるような感じがするのです。
これからも、200、300と回を重ねていただきと思うのですね。


エキゾチック・TOCHIGI!♪(総集編)  




エキゾチック・TOCHIGI!♪


久しぶりに栃木在住のチャーシューさんからコメントを頂きました。マリッジスルーなのだそうです。結婚や離婚を経てというのがマリッジスリーの本来の意味ですが、今は、婚期を逃したという意味で使われることの方が多いようです。
チャーシューさんとは10年来の交流がありますが、当時からずーとマリッジスルーでした。マリッジの方が彼女をスルーしているのか、彼女の方がマリッジをスルーしているかによっては、ライフスタイルが大きく異なるわけですが、10年前はマリッジの方がスルー、今は投げやり的に彼女の方がスルーしているのではないかと思うのですね。
人生って長く生きるほどあきらめの境地に深く迷い込むものですもんね。ファイト!

チャーシュー。実は僕が名付け親なのです。以前はokuman2508という、初期のエプソンのプリンターのような名前だったのです。その旧姓時代に彼女がらみで何本か文章を書いています。書くことに気合いが入っていた頃の文章です。
以下はその、エキゾチック・TOCHIGI!♪総集編です。

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かの孫子も「敵を知り己を知らば百戦危うからず」と申しております。
okumanさんは敵でもなければ戦う相手でもなく、かといって恋人でも愛人でもありませんが、「人の世は、おにぎりコロコロどっこいしょ」とローリングストーンズも歌っておりますし、郷ひろみも「出会いは億千万の胸騒ぎ、エキゾチック・TOCHIGI!♪」と申しておりますので、ちょっとご紹介。

ということなので調べてみました。TOCHIGIを。
名産品は干瓢でございました。全国1位でございます。あの巻寿司の中の紐、ロールキャベツの紐は全て栃木産だったのでございます。ちなみに蒟蒻はお隣の群馬に次いで2位。なんと群馬と栃木でワンツーフィニッシュ、蒟蒻で全国を牛耳っておるのでありますねー。

この2つの特産品から、その県民性を推測してみましょう。
2大特産品に共通しているのは、「自らは個性を持たない」ということでございます。独立独歩ではないのです。つまり特色のない県民性。何かに染まって生きていく、そいう県民性なのでありますね。
その「あなたの染められたいわ♪」にも2つございまして、干瓢のように染まり易いタイプと蒟蒻のように「しっかり煮込んでよね!」というタイプです。
いずれにせよ、一度染まると元には戻りませんから、一途な性格の方が多いのではないでしょうか。

自力では個性が発揮できないゆえに競争心が激しいといえるかも知れません。だから無個性な干瓢であっても、なんとか独自路線でメジャーにしたいと努力するのかも知れません。その一つが歌。「かんぴょうの歌」があるのをご存知でした?
作詞はなんとあの、北原白秋というから驚きます。

1.かんぴょう かんぴょう かんぴょう ほしてる
  あのそらこのそら かんぴょうはしろいよ
  かんぴょう かんぴょう かんぴょう ほしてる
  あのひもこのひも かんぴょうはながいよ

2.かんぴょう かんぴょう かんぴょう ほしてる
  サラサラサラサラ かんぴょうはゆれるよ
  かんぴょう かんぴょう かんぴょう ほしてる
  だれだかだれだか かんぴょうをくぐるよ



さすがの詩人白秋も、素材の干瓢には手を焼いたように見受けられます。なんとなく投げやりというかヤケッパチというか、「これでどうよ!」みたいなところがございますね。

焼き餃子も名産品と書こうとしたら「餃子は宇都宮の名産品であって、栃木の名産品でない!!」と激しく怒っている栃木県民のブログを拝見しましたので、なんとなく「なるほどな」と思ったのでした。

あと、栃木の名産品のページに「肛門科 たかのクリニック」というのが載っているのを見てドキッといたしました。たかのクリニックが“たかのつめ”に見えたのでした。
栃木県民はお尻の調子の悪い方が多いのでしょうか・・・。

おっと、忘れてはいけません。イチゴも日本一でした。「栃乙女」という銘柄らしいです。
お相撲さんとふりかけ海苔を合体させたような名前ですね。
もしかして栃木の乙女って皆さん、、、



こんな感じなのでしょうか。

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TOCHIGI続編♪


今日の日記は運動会続編の予定でしたが、急遽、TOCHIGI続編とさせていただきます。



と、申しますのも、これが届いたからでございます。
okuman2508さんから頂戴しました。2508は足利銀行の彼女の口座の暗証番号です。暗証番号に自身の誕生日の日付は使えませんから彼女の誕生日ではございません。彼女の誕生日は9月なのでございますね。
では、残暑厳しい8月25日に乙女心をときめかせるような、「ああ、足利銀行に口座を作りたいワ♪」というような何があったのか。興味あるところでございましょうが、今日は口座の謎を解くことが目的ではございませんので、それはまたの機会とさせていただきます。



それはさておき。
湯葉なのでございます。日光名物なのだそうです。クール宅急便で届きました。
この湯葉、油で揚げてあります。油で揚げてあるけど“生”湯葉なのだそうです。そして、生なので冷凍で送られてきたのです。不思議な国ですねTOCHIGIは。

なぜ湯葉が送られてきたかというと、先日、僕が豚豆を送ったからではないかと思います。目には目を歯には歯を豆には豆をということなのでしょう。その発想の単純さを笑ったりはしませんが、どうせなら日光高原ソーセージとかokuman特製チャーシューというように、豚には豚方面の単純発想で選んでいただきとうございました。

さてこの日光ゆば、説明書にはっきりと「日光生ゆばの料理法」とあります。「料理のしかた」とか「美味しく食べるには♪」といった迂遠で優しい表現ではなく「ゆばの料理法」と直球一直線です。
「中火にかけ煮立ったら弱火で5分煮て、湯を捨てて再度湯をかけて油抜きをする」とあります。つまり、面倒なことに2度も油を抜くのです。湯葉の里京都に長年住んできた僕ですが、冷凍湯葉も、湯葉の油抜き二段活用に出会うのも初めての体験なのでございました。



見てください。ブスリと爪楊枝が突き刺さっております。お隣とチャンバラをやっている方もいらっしゃいますね。質実剛健。エイヤー!でございます。

今回頂戴した油で揚げて冷凍した“生ゆば”は4種類あります。右から「ぜんまい巻・銀杏巻・高野巻・生巻ゆば」のようです。“よう”としたのは、最後のものが「生巻ゆば」なのか「お徳用ゆば」なのかが分からなかったからです。ちなみにokumanさんは“ぜんまい巻”が好きなのだそうです。ぜんまいって左右どっち巻きでしたっけ?

とにかく、明確に見えて明確でないアバウトさが栃木の特色でもあるようなのです。



これがその例です。名物「宇都宮餃子」の説明文なのでありますね。
「ニラや白菜は地元栃木産を厳選」とあります。キャベツはあの嬬恋村産です。すごいこだわりです。明確です。ここまではよろしい。次の行へ参りましょう。

「ニンニクと根生姜は風味を大切にする為に手で丁寧に摩りおろしています。」とあります。

ま、待てい!待たんかーーい!!
流れから行くと、普通はニンニクは青森産で生姜は高知産と続くべきではないのか。どうして出生を問わずに突然、前ぶれも無く摩り下ろしてしまうのだ。それも、この“摩り”は使い果たすのスリではないか。ニンニクや生姜は“擂り”の方ではないのか。
だいたいである。駅前には餃子の像すら有るというではないか。



この像は餃子の皮に包まれたビーナスをイメージして作られたという。
どうイメージしようと自由である。勝手だ。文句を言うという筋合いのものではないのかも知れない。けれども、一度でも餃子の皮に包まれなければなければならなくなったビーナスの運命を考えたことがあるのか?
どうしてビーナスが餃子の皮に包まれて「酢醤油にラー油は多めかしら♪」などと悩まねばならないのだ。ビーは(ビーナスのこと)前世でなにか悪いことでもしたというのか。脚の太さもビーは不満じゃ!
そもそもビーナスと餃子はどんな相関関係にあるのだ。ビーナスは孔子とマリアの間に出来た不義の子だったのか?
謎は謎を呼ぶではないか。疑問は膨らむばかりではないか。

とまあ、そんなことを考えさせられるわけですが、TOCHIGIはそんなお国柄でございますので「油で揚げた冷凍湯葉」もたぶん、地元では何の矛盾も違和感もなく受け入れられているのでありましょう。

ご存知のように僕は正統な湯葉に育まれて今日に至った由緒正しい湯葉おのこ、生麩男爵でございます。そんな僕の感性ではとても理解に苦しむ「油で揚げた冷凍生湯葉」なのでございました。

銀杏巻とぜんまい巻を煮てみました。
2度の油抜きもいたしましたですよー。



油抜きをしてゆっくりと煮たのでふっくらとしたいい出来上がりになりました♪

出汁の味は、最初はレシピ通りに作りました。けれども甘すぎました。砂糖大匙4杯に酒と味醂と小匙半分の塩では味が濃すぎます。これで薄口仕上げらしいので、関東方面の味は濃いということですねー。
煮出汁を作り直りました。昆布とかつお出汁に砂糖小匙2杯と酒と薄口醤油のみで味をつけました。この出汁でゆっくりコトコトと落し蓋をして静かに静かに煮たのでした。



湯葉の味見はまだしておりませんが、出汁の味と記憶にある湯葉の食感からおよその見当はつきます。ある物の味に似ていると思っているのです。
そのある物とは“さえずり”です。鯨の舌。
今や高級おでん種になってしまいましたが、もしかしてその“さえずり”と似た食感ではないかと期待しているのですね。

当然のことですが、本日は湯葉を中心とした和食でございます。

okumanさん。
手間のかかる面倒なものを送っていただいて、ありがとうございました。

おかげさまで長い日記が書けました。

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【付録】

知る人はシール


今日は運動会報告の予定でしたが、
朝から鬱陶しい雨なので順延とさせていただきます。

昨日、日記を書いていると、

娘B「お父さん。私たちの運動会の日記、書かないの」
ちち「書かん」
娘B「なんでー」
ちち「湯葉のことを書かないといけないから」
娘B「誰に貰ったんだっけ」
ちち「おくまんさん」
娘A「だれ、それ」
ちち「栃木の人」
娘A「おくまんってどういう意味?」
ちち「知らん」
娘A「キレイな人?」
ちち「知らん。SPで可愛いとか大輪の花とか言ってるけど」
娘A「SPって?」
ちち「セルフ・プロモーション」
娘A「どういう意味」
ちち「誰も言ってくれないから自分で言う・・かな」
娘B「大輪の花ってなぁに」
ちち「お葬式の時なんかで飾ってある大きな花輪があるでしょ。あれ」
娘A「親族一同とか書いてあるやつ?」
ちち「そう。おくまんさんの親族は可愛いと思っているわけだね」
娘B「じゃあ可愛いお姉さんなんだ」
ちち「可愛いとかお姉さんとかはあくまでも自己申告だからね」
娘A「じぶんで決めるという意味?」
ちち「そう。たくさん願望が含まれるものなの」
娘B「じゃあお父さんのハンサムと同じ?」
娘A「脚が長いとかも・・」
ちち「これ娘たち。父を愚弄しておるのか」
娘B「グロウって?」
ちち「父をおちょくっとんのか!!といってるの!!!!」
娘A「それで、おくまんってどういう意味?」
ちち「しらん しらん しらん 知らんいうたらしらん!」

そのokumanさんから雨の中、郵便が届きました。
湯葉を送ったよという手紙の中にシールが同封されてありました。



娘たちにも可愛い名前シールを送っていただいたのですが、本名なので掲載はしませんでした。

頼んでもいないのに、こういうのを勝手に作って遊ぶ人っていいですよねー。そして、わざわざシールにして送りつけてくる図々しさも好ましいではございません?
人生は押しの強さが全てでございますもんね。でも、こんなにも押しが強いのに、未だに独身というから不思議ですねー。
まあとにかく、遊び心のある人は大好きでございます♪

ところで、たかのつめ本舗ファイト!って、これはどういう時に使えばいいのでしょう。唐辛子エキスの滋養強壮ドリンクでも作って壜に貼れということなのでしょうか。それともシップ薬?
なんだか思いつきだけで作ったような気がいたしますね。
豚豆のシールにはさりげなく、けれども中央の一番目立つところに大きく、ご自分の肖像画を貼っていらっしゃいますねー。

では、最後に全員で、

ありがとうございましたー♪






君よ憤怒の河を渡れ  




君よ憤怒の河を渡れ









アナタはどの血が騒ぎます?  




アナタはどの血が騒ぎます?


日本人は色んな血が混ざった雑種民族です。主に騎馬民族・海洋民族・農耕民族の3つの血で構成されていて、そこに狩猟その他の血が混じるわけですが、僕の場合は遊牧騎馬民族と海洋民族の純ハーフなのです。
僕がなぜ遊牧騎馬民族と海洋民族のハーフかというと、定住するようになったのがこの15年ほどなのと、1級海技免許を持っていること、馬にも駱駝にも乗れるからです。つまり、一箇所にじっとしていられない性格なわけで、これは騎馬と海洋の血によるものです。

ちなみに妻は保守王国三河の百姓の娘なので農耕民族の純血種と思われがちですが、ところがどっこいしょ、彼女は海洋民族の末裔なのです。あなただけに妻の出生の秘密を教えて差し上げますが、実は、妻の母が三河湾にアサリを採りに行った時に浜で拾ってきた椰子の実の中から出てきたのが妻なのです。3姉妹の中で妻だけが地黒なのも海洋民族の血の影響なのですね。風貌からフィリピン~ミンダナオ諸島あたりの椰子の実ではないかと思っているのですが・・・。

騎馬民族と海洋民族の最大の特徴は貯蓄をしない、あるいはできないという点です。「貯蓄というのは家畜を貯めると書くけどうちには雑種の猫と犬しかいないわね~♪」というほど、わが家には蓄えというものがありません。人生はケセラセラ、なるようにしかならないワ♪とフラダンスを踊りながら妻は言うので、彼女、ハワイ~フィジーあたりから流れ着いた椰子の実かも知れません。

日記の流れが見えませんね。僕の話がいつも転々とするのも、遊牧騎馬民族と海洋狩猟民族の血の影響によるもので、今日の日記もすでに、何を書こうと思ってPCの電源を入れたのかすら忘却の彼方です。ま、これは血だけでなくボケの相乗効果も出ているわけですが・・・。

脱線ついでに書けば、世の中が安定し発展したのは全て農耕民族のおかげです。モノを蓄えることが出来るようになったからこそ、定住が可能になり計画的なモノ作りもできるようになりました。米や小麦やトウモロコシといった保存のきく食料を持つ農耕民族だからこそ貯蓄が可能なわけで、肉や魚はすぐに腐ってだめでした。計画的な貯蓄のために農耕民族がカレンダーを作りました。星占いは遊牧民族、潮汐は海洋民族から生まれたというのは説明を要しませんね。
そうなのです。農耕民族は足元を見つめて生き、遊牧騎馬民族や海洋民族は遠くに思いを馳せて生きてきたのです。
僕が30歳えた今も夢多き男なのは、ひとえに騎馬と海洋のハーフの血が騒ぐからに他ありません。

脱線ついでに書くと、漢民族と蒙古族との戦いは生業の違いに起因します。モンゴル人たちは遊牧のために草のある所を転々とします。漢民族の領土にも入ってくるわけです。すると漢民族は「すわっ侵略だ!」となるわけです。遊牧民は国境や自分の土地という概念を持ちません。土地には執着が無くて土地の上の草にだけ興味があるのです。ところが漢民族はそれを理解しないのでありますね。農耕の民は囲うということが好きです。土地をコツコツと耕しては囲って「僕ちゃんの」と所有権を主張します。その思想が万里の長城を作ったのでした。

日本人の80%は農耕民族の血の中に若干の北方騎馬民族の血が混ざっていると考えていいでしょう。勤勉であるということ、カレンダーを遵守すること、マイホームを持ちたがること、マネーゲームが好きなことなどは、典型的な農耕民族の血によるものです。北方騎馬民族の血が出ているのは競馬です。馬にも乗れないのに、身の周りに馬が一頭もいないのに、こんなにも馬好きの人間が多いというのはとても不思議なことなのですが、これこそ、北方騎馬民族の血の影響なのです。なにせ、大正時代の日本には数百万頭の馬がいたのです。信じられないでしょうが、これは本当の話です。(もちろん他の話もだいたいは本当ですからね!)

小さな日本にそんなにも馬がいたのに、そんな国の住人なのに、わずか百年を待たずに今はガードレールがないと車も走らせられないほど乗り物に弱い民族に成り下がってしまったのでした。かつては富士山・てんぷら・芸者ガールでしたが、今はガードレール・電信柱・自販機ですもんね。

一番薄いのが海洋民族の血です。これは日本全国くまなく囲っているコンクリートの堤防を見れば一目瞭然でしょう。高い防波堤で津波を御すなんて陳腐な発想はまともな海洋民族はいたしません。シャネルのバッグを持っているからフランス語が話せるとは限らないように、造船が盛んだから海洋民族であるとは限りません。

さてと、
トルクメニスタンという国をご存知でしょうか。中央アジアの西にある遊牧騎馬民族の末裔たちが住む国です。この国が騎馬民族の国であることを象徴しているのが国章です。



この国の国章の中央に描かれているのは馬なのです。この馬がただの馬ではないのです。アハルテケ(Ahalteke)という非常にバランスがとれ気品があり美しく、それでいてタフな馬なのです。そういう馬ならサラブレッドが有名です。サラブ(純)とブレッド(血)の合成語で純血という意味ですが、どのサラブレッドも起源まで血統が辿れるという、その名の通りの純血種なのですが、そのサラブレッド超える、アハルテケ・サラブレッドとでもいうような馬がアハルテケなのです。サラブレッドが250年の歴史しか持たないのに対し、アハルテケは千年以上の歴史を持ちます。サラブレッドは元はアジアの2頭の馬から血統の交配が始まっていますが、その2頭の、さらに先を辿ればアハルテケの血が入っているのではないかといわれているのです。

トルクメニスタンが独立したのは1991年。それまでは旧ソ連邦の一つでした。その時代に工業化や近代化が優先されアハルテケが絶滅の危機に陥ったのでした。けれども、トルクメニア人たちは自分たちの遊牧騎馬民族の血としてこの馬を誇り、命をかけて守ったのでした。
アルハテケは民族の象徴なのですね。だから国章の中央に描かれているのです。人間の手を介して品種改良が繰り返されて今日のサラブレッドの姿があるわけですが、そういう人的行為がほとんどなく、自然体でこんなにも美しい馬が存在しているのです。

トルクメニスタンに行かれることがあれば、なにをさておいてもアハルテケをご覧になることをお勧めします。そして、アハルテケを見て血が騒ぎ涙が出て、消えたはずのお尻のモンゴル斑がポッと色づけば、あなたは間違いなく遊牧騎馬民族の末裔です。だって、モンゴル斑というのは馬の鞍ずれのアザが遺伝子として残ったものなんですからね。
とにかく、あなたの先祖は遠い昔にアハルテケかモンゴル馬かアラブ馬に乗って中央アジアの大地を疾駆していたのです。
どうです。思わず谷村新司の昴を口ずさみたくなったでしょ。

ああ いつの日か 誰かがこの道を~♪


カルタをカタル  




カルタをカタル


『「上毛かるた写真館」補足ブログ』というブログがあります。
キャッチコピーは“群馬の郷土かるた『上毛かるた』にこじつけて、群馬の観光情報などを書いています。”というもの。

文化風習が紹介されているブログが好きなのですが、『「上毛かるた写真館」補足ブログ』もその一つです。日本列島の白地図に47都道府県のチップをはめて完成させよと言われたら、周辺が埋まり最後の方に残った空間に「もしかしてココ?」と試しにはめてみたら合致した、僕にとっての群馬県は、そんな未知なる県の一つです。
だからこそ、知らない土地の文化風習が紹介がされているブログに興味津々、好きなんですね。

上毛は“じょうもう”と読むそうです。音読みなんですね。「毛」がつくとなんとなく訓読みかと思ってしまいます。薄毛をはくもう、逆毛をぎゃくもう、毛足をもうそくとは言わないでしょ。毛細血管をモウサイと、ん?いいますね。
まあとにかく、僕は長く「かみげかるた」と読んでおりました。この程度の知識しか持ち合わせていないからこそ、地方の文化風習を学ばねばならないのです。

上毛はカミツケの国で群馬県、下毛は下野、シモツケで栃木県です。下毛が毛でなく野なのは、シモツケと読まずシモゲと読んでしまい、「どこの毛?」なんて思われちゃうからなんですよ、きっと。
まあとにかく(2度目)、下野国の栃木県もチップをはめにくい県ですね。僕は日光東照宮と干瓢と餃子ぐらしか知りません。

かんぴょう かんぴょう かんぴょう 干してる 
あの空 この空 かんぴょうはしろいよ 
かんぴょう かんぴょう かんぴょう干してる 
あの紐 この紐 かんぴょうは長いよ

「干瓢の歌」作詞はなんと、北原白秋なんです。

宇都宮駅前に「餃子像」があるのをご存じでした?


「上毛かるた」は昭和22年、西暦だと1947年。戦後の混乱期に県下の子供に群馬県の名物、歴史などを教えるために作られたとあります。郷土カルタですね。現在でも冬になると、小学生を中心に子供の居住地域ごとにカルタ大会が行われ、県大会も開催されているそうです。これはある種、古くからの教育手法を踏襲したものといえましょう。

「上毛かるた」とはどんなカルタ(※読みやすいようにカタカナにしています)なのかは「上毛かるた写真館」に展示されています。絵も面白く郷土色豊かなカルタなのですが転載不可なので載せることができません。興味のある方は直接上毛かるた写真館へどうぞ。



今回は「上毛かるた」を紹介しようというものではありません。『「上毛かるた写真館」補足ブログ』管理人のトカ太さんが、ご自分の上毛カルタを整理していて気づいたことを書いた日記についてです。
ブログに載せている画像は転載不可ではなさそうなので、百聞は一見にしかず、何枚か借用して、トカ太さんが何に気づいたか説明いたしましょう。



“歴史に名高い新田義貞”の「れ」札なのですが、左端をご覧ください。中段に黄色い何かがあります。トカ太さんはこれに気づきピンとくるものがあったそうです。



そして“そろいの支度で八木節音頭”の「そ」札を見つけます。



ほら絵が繋がってますね。「れ」の黄色は「そ」の花笠の一部だったのです。裁断がズレていたわけですね。
トカ太さんは「昔は裁断技術も未熟だったんですね」と書いていますが、それは群馬県民の郷土愛というもの。たぶんこのカルタを印刷した地元の印刷会社の裁断技術が未熟だったのです。だって当時の日本銀行券の裁断はズレてませんでしたもの♪

気になったのは“裁断技術も未熟”の「も」です。裁断技術だけでなく他にも未熟なものがあるということだと思うのですが、その「も」が何であるか書かれていません。どんな「も」なのでしょう。気になりますねー。





「れ」と「そ」が繋がることに気づいた彼は、当然、他の札が気になってしかたありません。大掃除の片付け中にもかかわらず札を繋げる作業に没頭し始めます。止めたくても止めることができません。その気持ち、すごく分かります。とにかく一段落というかある程度の決着を見るまでは、こういう作業は止められないものなのです。オトコとはそういう生き物なのです。
裁断のズレの発見は、世紀(群馬県内限定)の新発見です。昭和22年の初版から再版を重ねて来た今の今まで、誰一人ズレに気づいた群馬県民はいなかったのです。こっそりアナタだけにお教えしますが、本当は気づいている人もいました。でも「まあいいじゃない」と看過されてきたのです。

まあとにかく(3度目)、ノーベル賞こそ無理でも、群馬県民賞カルタの部大賞に匹敵する大発見と申せます。



「え」の“縁起ダルマの少林山”の少林山がどこにあるかや、「つ」の“鶴舞う形の群馬県”は、鶴よりもエイが泳いでいるように見えるといった感想はさておき、誰しもズレた札を繋ぎ合わせて完成させたいと思います。現物の札を持たない僕は、手に汗してトカ太さんの歴史的発見の学術的検証作業を見守ったのです。

ところが作業は思うように進みません。これは当然のことです。史実の検証作業は簡単に解決してはなりません。歴史に埋もれた難問を掘り返してこそ意味があるのです。そういう決まりです。どこかでつまずいてこそ面白い。その壁を突破してこそ達成感が味わえるのです。
彼は掃除中であることを忘れてというか、掃除を箒じゃなかった放棄して、この作業に没頭するのですが、作業は当初思っていたようには進みません。もう時間切れ、これが怪魚を釣り上げる最後の一投といったTV的手法を使おうとしたその時、あることに思い至るのです。初心に戻ろう、初歩の初歩に。最初の一歩、イロハのイから・・・。そう思ったその時、カルタの特性に気づいたのです。

彼はカルタを「あいうえお」順に繋げて試行錯誤を繰り返していたのです。アホですねー♪
「郷土かるた」は「いろはカルタ」に由来しています。「上毛かるた」が群馬県内の子供に群馬県の名物、歴史などを教えるために作られたように、「いろはカルタ」もまた、47文字の手習いの手本として近代まで伝わってきたのでした。覚えやすいように歌にした文字の順番の一番目が「い」2番目が「ろ」3番目が「は」だったので、いろは。
花札は「松」から始まりカルタは「い」から始まる。札業界の常識ではございませんか。

色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず (んor 京)

※京(ケイ)はキャキュキョを覚えるため

すべての仮名を重複させずに使って作られています。七五調なんですね。初歩の初歩のことを「ものごとのイロハ」なんて言い方をしますが、この「い・ろ・は」からきています。

いろは順に並べれば裁断ズレの札が合致するはずですが、あいうえお教育で大人になったトカ太さんは迂闊にもその事を見逃してしまっていたのです。それを、苦しみ抜いて続けた検証作業の途中で、フトしたきっかけでイロハ順に気づきます。どういうフトだったのかは知りません。別に知りたいとも思いません。
気づいてからは面白いように札が繋がるではありませんか。
あたり前なんだけど・・・。

もやもやしていたものがパッと晴れる快感と喜びにトカ太さんは身を震わせたのでした。年末の忙しいときに・・・。

そして学術的資料にするために写真を撮り、本来の業務、年末大掃除に戻ったのでした。めでたしめでたし。
って、正月は明日からなんですけどね。

4度目のまあとにかく。
上毛カルタがとても面白いと思った理由の一つに絵の素朴さがあります。稚拙と言ってもいいような絵も含まれていますから、もしかすると、このカルタの原画を小学生に描かせたのかも知れません。読み札の台詞も県民に一般募集して決めたのかも知れない。
昭和22年に小学生だった子供たちは今は70歳ぐらいです。上毛かるたで孫と遊びながら「この絵な、じっちゃんが描いたんだぞ」と言っていたりするかも知れません。だとすれば、官製のお仕着せではなく県民総出で完成させた、まさに、郷土カルタと申せましょう。だからこそ、版を重ね今も守り継がれていると言えましょうか。

昭和22年初版のカルタが版を重ねても裁断ズレのままなのは、現在も裁断技術が未熟のままなのではなく、初版で刷ったカルタを撮影して印刷原版を作ったものと推測できます。その時に印刷関係者がカルタのズレに気づかなかったのだと。

もう一つあります。1枚目の読み札の中央の“力あわせる170万”の「ち」札。170万って何のことと思いますが、昭和22年の群馬県民数なのです。新田義貞は不変ですが、人口は年と共に変わっていきます。だから平成24年の「ち」札は“力あわせる200万”に変更されています。時代に対応して変化しているのですよ、群馬の郷土カルタは。おそらくこの読み札だけが毎年変えられているのでしょう。「上毛カルタ」は過去の民芸品ではなく、今も群馬で生き続けているカルタなのです。いいでしょう、こういう地方文化と風習。♪

以上、上毛の国のお話でした。

下野の国(栃木)のお話はコチラです。

謎解き関連はコチラね♪

コーヒー、それともワルツにする?  




コーヒー、それともワルツにする?




どこの国旗か答えられる人は少ないと思う。
オーストリアである。



ではどこがオーストリアか。これも答えられる人は少ないはずである。
オーストラリアは生まれては消える新興国ではない。国名を頻繁に変える激動の国でもない。その歴史は古い。人口800万人の小さな国なのに世界文化遺産が7つもある。日本ではよく知られた国名の1つだと思う。でも国名は知っていても、国旗すら知らない人がほとんどなのである。

そのオーストリアが最近、日本語の国名表記をオーストリア共和国からオーストリー共和国に変えた。オーストリア大使館はオーストリー大使館である。
変更の理由はとても簡単なのである。
「悲しいほど、オーストラリアと間違われるから(大使談)」らしい。

ま、確かにそうで、僕も子供の頃はよく間違った。紛らわしいと思った。
ウインナーコーヒーがあってウインナーソーセージがあって、モーツアルトがウインナーコーヒーを飲みながらウインナーソーセージを食べつつ楽譜を書いていても、カンガルーやコアラに負けちゃうのである。

ウインナーコーヒーはコーヒーにウインナーが浮かんでいると思っている人が今も多いが、そういうのを出す喫茶店は名古屋にしかない。ウインナーワルツはウインナーソーセージを食べながらダンスを踊ることと思っている人がいると思うが、それはその通りなのである。
オーストラリアとオーストリアを一字間違えたために東大や京大を落ちたヤツもいただろうし、クイズタイムショックで10問正解できなかったヤツもいたはずなのである。
このような現状を目にすると、オーストリア大使館の歴代日本大使及びスタッフの皆さんが呼称をなんとかしたいと思い続けていたのも頷ける。

言葉はオーストリア語である。ドイツ語でしょと言う人がいるかも知れないが、オーストリア語なのである。正確にはドイツ語系オーストリア語。
日本だと関西語・東北語・沖縄語などがこれに該当する。そう、弁ではなく語なのである。ネイティブな東北弁を理解できる日本人が何人いる?沖縄で地元局のラジオを聞いてごらん。聞き取れるのはカタカナ英語ぐらいなのだ。関西弁なんて言われちゃってますが、関東方面に野武士しかいなかった平安の昔から関西は都であり、都で使われた言葉は公用語なわけで、天子様やお公家たちが「もうかりまっか」「ぼちぼちでんな」と宮廷で会話していたのである。仁徳天皇が民の竈から煙が出ていないのに気づき「みんなご飯たべてへんんとちやう?」とお付きの官僚に言ったのである。お付きは「そうでんな。こらあきまへんな」「なんとかせなあかんね」「さいですな。パッとサイデリア。」なあんて言っていたのである。

A「あれ、ちゃうちゃうちゃう?」
B「ちゃうちゃう、ちゃうちゃうちゃう。」
A「え?!、ちゃうちゃうちゃう?」
B「ちゃうちゃう、ちゃうちゃうちゃうちゃう」

この会話を関西人は瞬時に理解するが他地方の人には外国語であると思うから、関西弁ではなく関西語なのである。
ちなみに意味は次のようになる。

A「あれ、チャウチャウ(犬の種類)じゃない?」
B「違う違う、チャウチャウじゃないよ」
A「え?!、チャウチャウじゃない?」
B「違う違う、チャウチャウじゃないない」

「~ちゃうんちゃう?」は、違うんじゃない?
「~ちゃうんちゃうん?」は、違うんじゃないの?
この使い分けが難しいのである。

オーストリアからオーストリー。はたして日本人の中に定着するだろうか。セレブ&芸能関係者は末尾に無いはずの「チ」を付けてしまうのではあるまいか。つまりオーストリッチ。オーストリッチはダチョウの革製品のことだから、やはりオーストラリアの呪縛から逃れられない。

日本人になかなか正しく認知してもらえないオーストリアだが、オーストリアシンパが結構いるのである。そういう人たちは「俺たち(私たち)はオーストリア通だからオーストリーなんて言い方は素人臭くでいやだ」なんて思っているらしいのである。
そんな連中は、日本ではモーツアルトよりもナニワのモーツァルト、キダ・タロー大先生の方がよっぽど有名なのにナニワのモーツアルトをバカにしたり、ウインナーコーヒーの正しい飲み方にうるさかったり、ウインナーソーセージにお多福トンカツソースをつけて食べるとバカにするのである。

そういう自称オーストリア通の方々はオーストリーではなく、Republik Österreich だからエスターライヒと呼び始めたのである。カルチェでいいのにカルティエというのと同じだ。
エスターライヒ、なんとなく通っぽい呼称である。1度や2度はオーストラリアの旅行体験がないと使うことが許されないような感じである。ウイーンのどこそこの角のタバコ屋に白い犬が居てね、なんてローカルな情報が話せないとエスターライヒと言ってはいけないような敷居の高さを感じる。

僕はエスターライヒという言い方はあまり好きでない。いかにもドイツ語っぽくて、小さな国だけにドイツの属国のようなイメージがしてしまう。ライヒは帝国という意味もあるわけで、かつてのナチスにオーストリアが右に習えしたことも思い出される。実際にオーストリアでもネオナチが増加の一途らしいのである。

間違われても勘違いされても、オーストリアでいいように思うのだけれども・・・。


伊勢女と出雲ガール  




伊勢女と出雲ガール


神社ブームらしい。特に若い女性に人気があるとか。お伊勢さん(伊勢神宮)に詣でる女性を伊勢女(いせじょ)、出雲大社に詣でる女性を出雲ガールというそうな。靖国は男子系(オッサンを男子と言っていいものかどうか)で、詣でる人をヤッサンといい保守系政治家に多いという。

靖国神社のことを少し。
この神社と伊勢神宮や出雲大社や諏訪大社と一緒にしてはなりません。
靖国神社は明治天皇の命で明治2年に招魂社という名で建立され、明治14年に靖国神社と改名され今に至っています。戊辰戦争で死んでいった人々を弔うのが目的で建立されたのですが、あくまでも天皇側の人々を祀っています。したがって反天皇側の西郷隆盛は祀られていないのですね。戊辰戦争だけでなく日露戦争や日清戦争の兵士も祀られています。天皇のために死んでいった英霊だからです。第二次世界大戦の戦没者が祀られているのは天皇制下での戦没者だったからです。拡大解釈すれば、天皇だけでなく日本国のために犠牲になったと言えますから、英霊として祀ることに大きな問題はありません。
けれども政治家たちが靖国に参拝すると中国や韓国が異常に反応します。参拝した政治家は「日本のために死んでいった人を弔って何が悪い」と言うわけですが、実は、悪いのです。

先述したように靖国神社は天皇のために死んでいった人々を祀っているのであって、第二次大戦の戦没者だけを祀っているのではありません。ところが靖国祭のこの時期と8月15日の終戦記念日に詣でています。終戦記念日とというなら日露戦争や日清戦争の終戦記念日も詣でなければなりません。日本の国のため犠牲になったというなら、明治の昔からの英霊を弔うべきなのに、第二次大戦の終戦記念日だけ詣でています。これはおかしい。
もっと重要なのは、国際裁判で戦争の責任を問われA級戦犯とされた軍人が祀られている点です。天皇を傀儡にして軍国主義、軍国政治を行い無謀な侵略戦争を仕掛け横暴の限りを尽くしたわけで、それは全て高級幹部たちの独断でなされています。近隣アジア諸国の犠牲者は数百万人にのぼります。どんな小さな国にも民族自決権があります。一方的に蹂躙される謂われはないのです。戦後60年以上になりますが、被害を受けた国々の恨みつらみはまだまだ癒えるはずがないのです。

少尉以上の将校には幹部としての何らかの戦争責任があります。佐官以上の高級幹部に至っては怖い物知らずの絶大な権力を持っていたのです。国際裁判で諸外国からその責任を問われA級戦犯として処刑された軍人を靖国に祀るのは異常なのです。
一兵卒は戦争の犠牲者です。有無を言わせない上意下達の構造の中で人間として扱われれずに使い捨て的に戦争に借り出され無為な犠牲になっています。いわば被害者。その被害者と加害者の高級幹部が一緒に祀られることの異常さに気づかねばなりません。自分の家族を殺した殺人犯と家族が同じ墓の中で弔えますか。
靖国からA級戦犯を除くか、A級戦犯専用神社を作り線引きをはっきりすべきなのです。そうでないと、英霊の鎮魂だけでなく、隣国の鎮魂も、いつまでたってもできません。


話を伊勢女と出雲ガールの戻しましょう。
伊勢女の場合は伊勢神宮をパワースポットと捉えているのに対し、出雲ガールは縁結びが主たる目的。その違いがガールという軽さに現れているのかも知れません。昔から独身女性は小金持ちですからね、やりたいこと、欲しいことに金に糸目はつけません。だからなのか、東京~出雲間に直通の寝台特急「サンライズ出雲」は独身女性たちに超人気で満席状態なのだそうです。

今は無くなりましたが、以前は大阪~出雲を走る「出雲」という特急列車がありました。「サンライズ出雲」は東海道線~山陽本線~伯備線(中国地方縦断)~山陰本線で出雲ですが、「出雲」は福知山線から山陰本線経由でした。日本海側を走る列車は特急日本海もそうですが、風情がございました。

伊勢神宮も出雲大社も今年は遷宮の年。伊勢神宮の遷宮は20年に一度ですが出雲大社は60年に一度。今年は60年に一度の同じ年の遷宮なのです。
遷宮というのは宮を移し替えること。社殿の全てが建て替えられます。伊勢神宮の場合、使用する檜は1万2千本になります。8年前の山口祭から準備が始まるという、長期間かけた行事なのです。
まさに神代の昔から連綿と続いているわけで、すごい行事だなとつくづく思います。
タカノツメ家は毎年お伊勢参りをしていて、わが家のいい慣習になっています。

皆さんもぜひ一度は伊勢神宮へ。お伊勢さんは、期待を裏切りませんよー。


鉄板焼きのブルース  




鉄板焼きのブルース



若手芸人の中で割とお気に入りなのは犬井ヒロシだった。彼の関西弁は若者系大阪弁の雰囲気があって懐かしく心地良かった。今はサバンナの高橋で出ているが、にやついた笑顔で誰彼なしに媚びを売るスタイルなのだが嫌みが無く好きだ。犬井ヒロシの時代は「自由だぁ!」と歌ったが、「・・・ is freedom」も古風でいいと思ったものだ。

もしあなたが自由という言葉を使う時、libertyと freedom のどちらを使うだろうか。
僕たちの世代の若い頃は“自由”の定義や理想郷を求めて試行錯誤したものなのだ。自由を求めて機動隊と対峙したのも、今では汚らしいとしか思えないヒッピースタイルもその一つだ。
犬井ヒロシの歌うブルースは、その歌詞の軽いアイロニーという点でいうと、40年前の街頭フォークが原型なのである。
そうなのだ。僕たちはもう少し塩胡椒をきかせて受験生のブルースや栄ちゃんのバラードや友よや風に吹かれてや山谷ブルースや、その他色々と自由を探す歌を歌ったのだった。

様々な規範や制約の中でどう自由に生きて行くか、どこまで自由でいられるかは、個、パーソナルの永遠の課題だと思う。特に“個”は若者にとっては不可避的な重要課題だと思うのだが、今の若者はは個人主義のスケールが小さすぎると感じてならない。
個もやがて対(つい)になり家族となる。個の自由と対の自由と家族の自由と世間とのギャップのなかで世渡りして行かなければならなくなる。そんな中を、上手に、ストレスを最小に抑えて舵取りをして行くには思想や哲学が必要になる。

その、思想や哲学を関東風に沈思黙考すると重たくていけないわけで、アリストテレスもソクラテスもニーチェもヘーゲルもサルトルも夏目漱石も三島由紀夫も開高健も末席のタカノツメも、みんな意外に軽い性格なのである。つまりは日常の軽さの中に思想や哲学があるわけで、だからこそ、おでんを竹輪から食べるかコンニャクから食べるかは、自由だぁ!とブルースされると、笑いの深淵に思想と哲学を見てしまうのである。
だってそうでしょう。竹輪にかぶりつく彼女に下品な卑猥さを感じるか好ましく思うかは自由だし、箸を滑らせて隣の女性の膝まで転がったコンニャクを契機に話を弾ませて結婚まで行き着くか、謝罪しただけで終えるかも自由なのである。つまりそこには、思想と哲学を合混ぜにしたファジー理論が存在するのである。

コンニャク is freedom 、、、だ!

じゃあ何がブルースの歌心かというと、「竹輪の穴から向うを見ても等倍なのでちょっとブルースだな」といったココロのことである。

若かった頃のこと。喫茶店で駄弁っていたとき、友人のHが「喫茶店で話すのは悪くないが時間の制約があっていかん。24時間自由に出入りできるサロンが欲しい」と言ったことがあって、その要望に応えるべく、当時東大阪の司馬遼太郎氏の近くの文化住宅に住んでいた僕は、大阪の阿倍野駅すぐ近くのアパートの2kの部屋に引っ越したのである。そしてそこを24時間開放したサロンとした。24時間開放なので常時住人の僕が居ては鬱陶しいだろうと思い2日に1度しか帰宅しないタクシー運転手に転職した。今振り返れば無茶苦茶な行動だったが、若さとはそういうものだと思う。

阿倍野にあったKというアパートは今はない。とっくに地上げされて大型テナントビルに変わっている。
そのアパートは木造モルタル2階建てトイレ共同。風呂はない。廊下を挟んで向かい合わせに部屋が並び、その部屋数が70室という大型アパートだった。
東京住まいの文学者の高橋某氏が朝日ジャーナルの取材で部屋を訪れたときに、「これが有名な大阪の文化住宅ですか」と言ったのだった。
「いや、これはだたのアパートで、文化住宅は主に寝屋川の方に密集して生えています。というのはですね、あっち(寝屋川)方面は大阪市内から鬼門の方角でしかも湿地なので普通の人は住まず、主に商売に失敗したり曰く因縁のある連中が逃げて行く先で、そうした事情から消防車の入れない文化住宅のメッカになったのです。なんなら案内しましょうか」と申し上げたら、「うーん。学術的にはものすごく面白そうだけれども、今回の取材と目的が違うし今夜の最終のコダマで帰らないといけないのです」と、当時まだ大学の准教授だった彼は言ったのだった。

このアパートは1フロア35室もあるのにとても静かで、毎日夜通し人の出入りのある僕たちの部屋に誰一人文句をつけてくる住人はいなかったのだった。他の住人との付き合いが無かったので確かなことはいえないが、チンピラやくざや場末の飲み屋の姉ちゃん、飲食店の従業員、日雇いアンコたちが住んでいたと思う。
そんな中に1階にCという似顔絵描きが住んでいて、この男とはよく部屋を出入りした。無精ひげを生やしハンチングを被ったいかにも画家でっせという格好で、あまりにも胡散臭いところがちょっとブルースで、風呂嫌いな彼は汗臭い体臭を振りまきながら駅前の歩道で似顔絵を描いて生計を立てていたのだった。このCがイーゼルを立てていた場所から西へ坂道を少し下ったところのカウンターだけの小さな喫茶店でバイトをしていたのが後に憂歌団を結成する木村秀勝と内田貫太郎。まだ19 歳ぐらいでブルースギターを弾き始めた頃だった。憂歌とはブルースのことだ。洋酒のボトルネックにタコ糸を巻きコンロで焼いて切り演奏用のスライドバーを作る方法などを教わった。まだスライドバーなど市販されていない時代のことだ。
この時代の大阪はブルースの街で、上田正樹がその筆頭だったのだ。木村や内田の腕はまだ今一だったが鼻っ柱が強くて喧嘩早く、毎日のように誰彼無しに喧嘩を吹っかけていたのである。今は穏やかな雰囲気で歌や演奏をしているがあれは仮面。内なるしぶとさを持つ。サバンナの高橋も同じだと思っている。

と、まあ、ブルースつながりの話が出てきたが、ある日のこと、タクシーで街を流していた営業途中に部屋に立ち寄ってみると18、19才ぐらいの外人がいたのだった。そばに居たやつに誰?と尋ねると、大阪駅前の陸橋にもたれて所在無さげにしているから連れて来たという。
半分ヒッピーのようなアメリカ人のそいつはギターケースを持っていたので、何か弾いてくれと言うと、オーソドックスなボブディラン風のブルースを弾き語ったのである。歌詞ははっきりとは覚えていないのだが、「俺たちは放浪者 一緒にさまよい 一緒に眠った ある日誰かが死んじゃった・・」みたいな歌詞で、妙に心に沁みたのだった。

せっかくだからメシを食わせてやることにし「やはり定番のスキヤキか」ということになったのだが、肝心のすき焼き鍋がない。鉄板なら用意できると僕が言ったことから焼肉をふるまうことになった。皆で金を出し合おうという段になって分かったのだが、誰も金を持っていないのだ。
「タカさん、タクシーの売り上げがあるでしょ」と言うから、「あほ、業務上横領やないか」といいつつも、今夜の客のチップを期待して千円だけ出したのである。むろん千円では豪華焼肉パーティーは出来ない。居合わせたBが「パチンコで増やす。俺に任せろ」と、その千円を持って出かけたのである。この時代のパチンコはデジタルではなくアナログの羽物だから腕がモノをいう。なんとBは8千円に増やして凱旋してきたのだった。こういうのを火事場のクソ力と言うのではないか・・・違うな。

部屋の真ん中に台所からコンロを引っ張ってきて僕が用意した鉄板を乗せ焼肉パーティーが始まった。僕はその光景を優しい眼差しで眺めていた。誰かが「タカさん、どうして食べないんですか。美味いですよ♪」と声をかけてくれたが、「いまちょっと歯の調子が悪いから」と手をつけなかったのだった。
「それにしてもこの鉄板、微妙に溝があって、脂がそこに落ちて肉がさっぱりと上手に焼けるなぁ♪」と、みんな感心しきり。

そう、その鉄板がミソなのである。いやクソというべきか。その鉄板はアパートのトイレの汲み取り口の蓋だったのである。それを外して、タワシでクソのカケラも残さないように可能な限り丁寧に洗ったものなのだ。しかもコンロで熱消毒されているから何の問題も無い。だから、焼肉に箸を出すか出さないかは、

・・・自由だぁ!♪

なんやけどぉ、
ココロではわかっているのに、身体が言うことをきけへんねん。
ヤケクソのブルースやねん。
焼肉 is freedom 焼肉 is freedom ♪

でもぉ、安モンの肉を焼く時は、汲み取り口の鉄板よりも、下水道の格子の蓋の方が美味しく焼けてええで!♪


コーヒー、それともワルツにする?  





コーヒー、それともワルツにする?





どこの国旗か答えられる人は少ないと思う。
オーストリアだ。



ではどこがオーストリアか。これも答えられる人は少ないはずである。
オーストラリアは生まれては消える新興国ではない。国名を頻繁に変える激動の国でもない。その歴史は古い。人口800万人の小さな国なのに世界文化遺産が7つもある。日本ではよく知られた国名の1つだと思う。でも国名は知っていても、国旗すら知らない人がほとんどではないだろうか。

そのオーストリアが最近、日本語の国名表記をオーストリア共和国からオーストリー共和国に変えた。オーストリア大使館はオーストリー大使館である。
変更の理由はとても簡単なのである。
「悲しいほど、オーストラリアと間違われるから」(大使談)らしい。

ま、確かにそうで、僕も子供の頃はよく間違った。紛らわしいと思った。
ウインナーコーヒーがあってウインナーソーセージがあって、モーツアルトがウインナーコーヒーを飲みながらウインナーソーセージを食べつつ楽譜を書いていても、カンガルーやコアラに負けちゃうのである。

ウインナーコーヒーはコーヒーにウインナーが浮かんでいると思っている人が今も多いが、そういうのを出す喫茶店は名古屋にしかない。
ウインナーワルツはウインナーソーセージを食べながらダンスを踊ることと思っている人がいると思うが、それはその通りなのである。
オーストラリアとオーストリアを一字間違えたために東大や京大を落ちたヤツもいただろうし、クイズタイムショックで10問正解できなかったヤツもいたはずなのである。
このような現状を目にすると、在日オーストリア大使館の歴代大使及びスタッフの皆さんが呼称をなんとかしたいと願い続けていたのも頷ける。

言葉はオーストリア語である。ドイツ語でしょと言う人がいるかも知れないが、オーストリア語なのである。正確にはドイツ語系オーストリア語。
日本だと関西語・東北語・沖縄語などがこれに該当する。そう、弁ではなく語なのである。ネイティブな東北弁を理解できる日本人が何人いる?日本人が理解できない日本語は弁ではなく語なのである。

オーストリアからオーストリー。はたして日本人の中に定着するだろうか。セレブ&芸能関係者は末尾に無いはずの「チ」を付けてしまうのではあるまいか。つまりオーストリッチ。オーストリッチはダチョウの革製品のことだから、やはりオーストラリアの呪縛から逃れられない。

日本人になかなか正しく認知してもらえないオーストリアだが、オーストリアシンパが結構いるのである。そういう人たちは「俺たち(私たち)はオーストリア通だからオーストリーなんて言い方は素人臭くでいやだ」なんて思っているらしい。
そんな連中は、日本ではモーツアルトよりもナニワのモーツァルト、キダ・タロー大先生の方がよっぽど有名なのにナニワのモーツアルトをバカにしたり、ウインナーコーヒーの正しい飲み方にうるさかったり、ウインナーソーセージにお多福お好み焼きソースをつけて食べるとバカにするのである。

そういう自称オーストリア通の方々はオーストリーではなく、Republik Österreich だからエスターライヒと呼び始めたのである。カルチェでいいのにカルティエというのと同じだな・・。
エスターライヒ、なんとなく通っぽい呼称である。1度や2度はオーストラリアの旅行体験がないと使う権利がないような感じである。ウイーンのどこそこの角のタバコ屋に白い犬が居てね、なんてローカルな情報が話せないとエスターライヒと言ってはいけないような敷居の高さを感じる。
僕はエスターライヒという言い方はあまり好きでない。いかにもドイツ語っぽくて、小さな国だけにドイツの属国のようなイメージがしてしまう。ライヒは帝国という意味もあるわけで、かつてのナチスにオーストリアが翻弄されたことも思い出される。実際にいま、ドイツだけでなくオーストリアでもネオナチが増加の一途らしいのである。

間違われても勘違いされても、オーストリアでいいように思うのだけれども・・・。





踊らなくっちゃ!♪  





踊らなくっちゃ!♪




阿波踊り真っ最中だ。
古い新聞で恐縮だが、写真は2004年8月15日の徳島新聞朝刊。一面8段ぶち抜きで阿波踊りの写真が踊る。地元紙だから当然と思うかも知れないが、当然ではないのだ。
なぜなら、2004年8月15日の全国紙の一面トップは各紙とも谷亮子の金メダル記事だったからだ。オリンピック2大会連続金メダルの偉業に国民が酔っていたそのとき、徳島県民だけは阿波踊りに酔っていたのである。

徳島県民は阿波踊りの4日間はテレビを見ない。踊りに忙殺されているから新聞の一面をチラッと見る程度だ。チラ見するのは徳島のシェア80%を誇る徳島新聞だから、県民の80%は柔らちゃんの金メダルを知らないのだ。オリンピック2大会連続金メダルの偉業よりも阿波踊りなのだ。今年も同じだ。なでしこや火の鳥の銀を知らない。ボルトって誰じゃ!なのである。
ロンドンオリンピック開催中のツイッターのつぶやき回数は1億5千万回に達したが、国際ツイッター協会日本支部の調べによると、徳島県民のつぶやき回数は23件だけであった。
そんな阿波踊りに僕は延べ20回ほど参加しているのだが、何度参加しても飽きることがなく、あの熱い祭囃子(ぞめき)の中に身を置きたいと恋い焦がれて身を捩りながら、今、この文章を書いている。

阿波踊り一色の真夏の徳島の町は、人々の良質な歓気が重厚な質量を持って町を覆い尽くす。心地良く酔えるのだ。
阿波踊りの踊り子は例外なく美しい。阿波の女たちは幸せだと思う。何万何十万もの男たちの熱い視線を連日連夜浴び続けるから、その視線に磨かれて美しくなるからである。女たちよ、容姿に自信が有ろうと無かろうと、踊らにゃ損々なのだ。
当然のこととして踊り子たちは男たちの熱い視線を意識している。全身に浴びる熱い視線でエクスタシーに酔い痴れる。その姿態や表情が男たちの熱い視線をさらに熱くするというリプル現象を起こす。ぞめきの中の果てしなき陶酔の渦。触れ合わずして男も女も愛の交歓を繰り返し続けるのである。

阿波踊りでは踊るグループのことを「連」と呼ぶが、その数は千を超える。メイン会場は市内に数カ所設置される有料の演舞場だが、道路は全て交通規制されるので町全体が踊り場になる。商店街はむろんこと、路地や公園、デパートの中まで躍り込む。演舞場で見る踊りもいいが、桟敷から客として見るよりも、商店街や路地を練り歩く踊りや輪踊りの方が踊り子との一体感が味わえて僕は好きだ。

阿波踊りヨットレースというのがある。大阪に住んだ頃は毎年このレースに参戦し、表彰式後にヨット連を繰り出し踊ったものだった。愛知の西三河へ移り住んで12年。この間で阿波踊りに行ったのは3回にすぎない。ヨットで数日かけてたどり着く徳島よりも、車で10時間の徳島の方がマインド・グラフィック的に遠いからである。元大阪人なのでイラチな性格。行列が苦手でスーパーのレジの列ですら我慢できないのに、交通渋滞という名の大行列は我慢の域を超え過ぎている。しかも宿がとれない。ヨットなら手足を伸ばしての船中泊ができるが家族4人で車中泊は辛い。3回にすぎないと書いたが、3回もと言えるかもしれない。

はたして、4回目があるのかどうか・・・。

阿波踊りに興味がある方に(1) 
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阿波踊りに興味がある方に(2)


こんな「連」もあります




夏も近づく  



夏も近づく

先日、長女を学校へ送って行った時のこと、通りがかったスーパーの駐車場が早朝にもかかわらず自転車で集まったジャージ姿の中学生で溢れていて、道路も中学生の長蛇の列で時ならぬ交通渋滞を起こしていました。これは毎年恒例の光景で、西尾市の中学生は5月のこの時期の3日間、校学外学習として茶摘みにかり出されるのです。

あまり知られていませんが、わが町(元一色町は昨年合併された)西尾市は抹茶日本一の町で、有名菓子メーカーや飲料メーカーの抹茶チョコや抹茶アイス、抹茶ラテなどのほとんどに西尾産の抹茶が使われています。むろん普通のお茶もあります。ありますが新茶でもあまり美味しくないのです。妻の姉の嫁ぎ先のお茶屋の茶葉だからかも知れませんが・・・。

ついでに書いておきますと、西尾市に一軒だけ「抹茶うどん」を食べさせる店があります。「茶そば」があるのだから「茶うどん」があっても不思議ではありません。「茶うどん」ではなく「抹茶うどん」としたのは「茶うどん」では不味そうな感じがしたからなのでしょう。

その「抹茶うどん」ですが、まっちゃまっちゃ不味いのです。
幹線道路沿いにあるその店は周りが田圃ばかりなので客に選択肢がなく、やむをえず昼食時には満席になるという店なのです。客は、ランチセットは食べても間違っても抹茶うどんを注文することはありません。たまーに注文する客がいると、味噌煮込みうどんセットなどを食べている客が、味噌がついた口を二ヤリと歪め、「一見(いちげん)客やな」と声を出さずに薄笑うのです。やむをえず常連になった常連客は、抹茶うどんの不味さを知っているわけですね。
では他のメニューはどうかというと、抹茶うどんほどではありませんが、かなり不味いです。ということは「抹茶うどん」は、かなりかなり不味いということですね。

僕はこの店に5度ほど行きました。最初の時に抹茶うどんを食べ、その不味さにまっちゃおになり2度と来たくないと思ったのでした。2度と行きたくない店なのになぜ5度も行ったのかというと、義父が周辺の田を十数枚管理していてその田植えの手伝をした時に連れられて行ったからです。もちろん抹茶うどん以外のものを注文しましたさ。

そういう店なので皆さん、西尾に来た時に、うっかりして抹茶うどんを食べないように注意しましょう。

川沿いに広がる茶畑は各中学の色とりどりのジャージの花盛りなのですが、かくも茶農家は忙しい時期なのです。あります。まともな食事を作る時間が惜しいほど忙しいと義姉も言っておりました。時間があればまともな料理が作れるのと聞こうとしましたが、忙しさで殺気だっていたので聞けませんでした。


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こういう商品を何と呼べばいいのだろう。“お茶漬けの素”でいいのだろうか。それとも“お茶漬け振りかけ”なのか。
老舗の永谷園だと「お茶漬け海苔」や「梅茶漬け」や「鮭茶漬け」となっていて、“素”や“振りかけ”は付いていない。他のメーカーの商品も「○○茶漬け」である。どうやらこの手の商品を業界では単に「茶漬け」と呼ぶようだ。
その茶漬け、実に様々なものがある。定番の梅や鮭はむろん、昆布・時雨・わさび・鯛・うなぎ・焼肉カルビ・キリン・ぞう・フォアグラ・納豆・鮒寿司・ハンバーグ・キャビアなどなど・・・。
とにかく、茶漬けと付けると何となく美味しそうに思えるから不思議だ。逆に言えば、命名が楽なのが茶漬け製品といえようか。

ところがである。
写真の「茶漬け」は、命名がとても難しいぞと思えるのである。なぜなら右肩のキャッチコピーに「お茶屋のおやじがトコトンこだわった」とあるからだ。つまりお茶屋が作った「茶漬け」なのである。
梅屋でもなければ鮭屋でもフォアグラ屋でもなく、お茶屋なのだから、あえて名付けると「茶茶漬け」になってしまうのだ。

だから、静岡の太田幹久さん(製造者)は悩んだのだ。すごく困ったのだ。お茶屋だから“風味豊かな海苔茶漬け”とは意地でも書けない。紀州梅や黒海のチョウザメとも書けない。なにしろウリは静岡のお茶なのである。

太田幹久さんは長年、悔しい思いをしてきたのだ。というのは、茶摘みの時期はとても忙しいから、つい永谷園の鮭茶漬けなどで簡単に食事を済ませてしまっていたのである。世間の茶漬けは、茶よりも他の具やトッピングが主役であることに忸怩たる思いをしていたのだ。
茶漬けを食べながら、このままではデコラティブに着飾った成金女をセレブというような茶漬けが主流になってしまうと危惧したのだ。それもこれも、海苔の佃煮屋(永谷園)に先駆けされたせいである。

やはり、お茶屋が作ってこそ「茶漬け」である。だからトコトンこだわったのである。トコトンこだわってついに納得の逸品が完成したのである。
さて、完成した納得の逸品を前にして、とても困ってしまったのだ。

「名前をどうすればええずら」

梅や鮭は使えない。第一、梅や鮭は入っていない。入っているのは粉末緑茶・白ごま・青のり・小麦粉・伯方の塩・甘味料(甘草)・調味料だけである。

エネルギーのほとんどは最初に書かれている粉末緑茶に注がれたのは言うまでもあるまい。○○屋の親父というのは得てしてそういうものだ。僕の友人の海苔屋の親父は海苔に満足してしまって、極上の海苔にもかかわらずパッケージはスーパーで売られている三流海苔と似たようなデザインなのである。海苔完成の段階で自己完結しちゃってるわけですね。それでも商売が成り立っているのは女将の力なのである。

おそらくだが、太田幹久さんも同類なのだ。
「名前をどう付けたらいいか分からんだに(遠州弁)」と頭を抱えたのだ。そして、「ええい、面倒だ。とにかく一番だ。一番の茶漬けだ!」ということで、「一番茶漬け」に“し茶った”のである。



どうだ、ちょっと不気味ではないか。
こういうのでダイエット振りかけというのが有ったが、それとかなり似ている。主役はあくまでも「茶」だと主張しているのが簡潔に良く分かる。まるで抹茶の振りかけのように見えるが、見えるだけではないぞ。そのものズバリ、抹茶の振りかけである。



まるで深泥ケ池(京都上賀茂)のような深緑の茶漬けではないか。浮いているのは白ごまなのだが、まるで水草のように見えて風流でさえある。味は・・・とても濃い。
思わず、
「結構なお手前で」と言ってしまいそうであった。
思わず、
「茶菓子はどこ?」と言ってしまいそうな濃さなのであった。

おそらく、太田幹久さんは舌が茶慣れし過ぎていて、少々の濃さでは満足できなくなっていたのである。その舌がトコトンこだわったために、米粒がキャベツの毛虫のような色に染まるほど濃い「茶漬け」になってしまったに違いない。

この茶漬け、朝「一番」に食べると眠気が吹っ飛びます。



節 分  



節 分

明日は節分。巻き寿司を作ろうと思っている。
世間では巻き寿司のことを海苔巻きと言ったりしているが間違いだ。 寿司を巻いてあるから巻き寿司であって、海苔巻きの場合、中身が寿司とは限らない。こういう適当な使い方が訳の分からんライフスタイルを生み出す。例えばスマホ。スマートフォン。携帯電話の一種。電話機能だけでいいではないか。メールやネット検索は電波関連だから目をつぶれと言えばつぶってやってもいい。けれどもゲームをしたり音楽を聴いたり映像を見たりキャッシュカードの代わりに使ったり簡易トイレシャワー機能を付けたりするのはいかがなものかと思う。

先日インド料理屋で、指の先から3センチはみ出したデコラティブな爪先で携帯のあの小さなキーを目にも止まらぬ速度でバババババと、友人と会話しながらブラインドタッチでメールを打っているのを目撃し、感嘆を通り越して深い感動すら覚えたのだった。10年前には存在しない技ではあるまいか。その光景をみていて、会社のPCのキーボードも携帯サイズにすれば彼女たちの仕事の能率も向上するのではないかと思ったりした。

さて巻き寿司なのだが、わが家は海苔に困ったことがない。友人に海苔屋の社長がいて、いつも大量の海苔を届けてくれるからだ。わが家には常時三帖(じょう・全型の海苔10枚で一帖)以上のストックがある。全型以外に焼き海苔の三分の一タイプや味付け海苔、刻み海苔、振りかけ海苔など各種のストックがある。全て山善糟谷海苔店五代目糟谷富蔵謹製。
彼が扱う生海苔はこだわりの一級品なので、その加工品は最上級の創作物で風味豊かで香り立つ美味い海苔なのだ。そんな海苔が常時数十枚も有るというのはうれしい限りなのだが、ご飯控えめタニタ食の身としては葛藤にさいなまれる毎日なのだ。

全型サイズの海苔の使い道は、巻き寿司もしくは海苔巻きであろう。半分に切って手巻き寿司という方法もある。いずれにせよこれらの使い方はハレの使い方であろう。日常のケで巻き寿司や手巻き寿司はあまり作らないのではないだろうか。わが家も同様。月に何度も巻き寿司を作ることはないし、三分の一サイズや味付け海苔や刻み海苔や振りかけ海苔まであるのだから、全型海苔を自分で加工してして使う必要もない。消費が進まない。ではどうするのか。

僕には、全型海苔のケの食べ方がある。まず海苔を冷凍庫から取り出す。冷凍庫に入れてあるのは風味を損なわさないためだ。
まず1枚取り出して、コンロで強火の遠火で裏表を2回、最後に表を1回さっとあぶる。これで風味が立ってパリッとする。その海苔を裏面を上にして掌の上に乗せる。そして海苔の中央に茶碗一杯半の量の熱々のご飯を盛る。盛ったご飯の中央に人差し指で穴を開ける。この時、ご飯粒が指に着くからという気持ちは分かるし、いくら自分が食べるからと言って、人差し指を舐めて穴を開けるなんてことはやめよう。開けた穴に漬けや梅干し、佃煮、鮭やちりめんじゃこなどなど、冷蔵庫残り物を適当入れるのだ。そしてご飯の上から醤油を軽く一回しかけて、海苔を団子状に丸める。爆弾という。これが美味いのだ。山善糟谷海苔店五代目糟谷富蔵作全型サイズ海苔の最上級の食べ方はコレではないかと僕は密かに思っているのだ。具が無いときはご飯だけの醤油の回しかけでもよし。これがケの食べ方。

ハレの食べ方の巻き寿司は関西風になる。関西の巻き寿司に欠かさせないは高野豆腐と干瓢だ。高野豆腐と干瓢と軽く湯がいた三つ葉。卵焼きは入れない。代わりに伊達巻きが入る。魚のおぼろも入れない、彩りはいいが食べる時にポロポロこぼれて食べにくい。むろん胡瓜も入れない。胡瓜は他の具材や寿司飯の塩気を吸って水分を出すからベタベタの寿司飯になる。作ってすぐに食べるならいいが作り置きの場合は入れない方が賢明だ。

冷凍庫から山善糟谷海苔店五代目糟谷富蔵作全型サイズ海苔を取り出しコンロであぶるまでは同じ道程。次に海苔を巻き寿司用のスノコの上に乗せる。最近はTVの料理番組の影響か、スノコの上にラップを乗せてから巻く人が増えているが、あれも間違いだ。そもそもTVに登場する主婦料理人の料理の作り方は信用ならない。キッチンバサミで野菜や魚や肉を切るだけでなく、なんでもかでもレンジでチンする。したり顔で野菜を茹でると栄養分が損なわれるからと講釈をたれているが、一つまみの塩を入れてさっと野菜を茹でて冷水にさらすと鮮やかな緑の色止めになるだけでなく、もう一つ、野菜のアク抜きにもなっているのである。野菜には強いアクある。アクは毒素。栄養分が少し減っても、アクをある程度は抜いてやらなければ料理の味を損ねるだけでなく身体にも良くない。吹き出物やアレルギー、アトピーなどの原因にもなりかねないのだ。野菜を茹でるのは殺菌効果もある。茹でるという行程は、生活の中から生まれてきた手法なのだから馬鹿にしてはならない。なんとか鍋を使った蒸し野菜料理が流行っているが、自分や自分の子供の身体に毒素が堆積しアトピーアレルギーになるリスクが高いことを知っておくべきだ。

海苔を火であぶるとパリッとする。パリッとした海苔で巻き物を作ろうとすると破れたり折れたりする。それを承知していても寿司職人は巻き寿司を作る時は海苔を火であぶる。香りを立たせたいからである。そんなパリッとした海苔をラップを敷いたスノコの上に乗せ巻物を作るとどうなるか。巻けない。寿司職人はスノコを濡らし、水分をフキンで拭き取った上に海苔を置く。これで海苔に適度な湿り気を与えているのである。香りも損なわず破れない。そういう風にして巻いた関西風巻き寿司は、口の中にふっと三つ葉の香りが広がりとても美味しいのである。

糟谷海苔店。せっかく極上の海苔を作っているのだから、『海苔屋が作った恵方巻き』を作って売ればいいのにと思うのだが・・・。




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