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Old Saltの日々雑感

日々雑感的に思うところを小さなウソと大きな誇張でデフォルメして掲載中!

アジアコーヒ  




アジアコーヒ



アジアコーヒは、半世紀以上前に京阪神エリアで一世を風靡した喫茶チェーン店のことである。
スターバックスやドトールの元祖と言っても過言ではない。だってね、アメリカのスターバックの1971年、日本のドトールの1980年に対し、アジアコーヒは1960年頃なんだから。

二つほど余談を書いておくと、1960年当時の大阪新世界には串カツ店と寿司店が林立していて、串カツの肉はほぼ犬猫メインだった。というのも、新世界界隈で野良猫や野良犬の姿を見ることが無かったからだ。火のないところに煙が立たずというが、残飯が出る繁華街にノラ猫や野良犬がいないはずがないではないか。それを象徴的するように、新世界のジャンジャン横町入り口に三味線屋があった。大阪で最もデンジャラス(今はつまらぬ飲食街になり果てている)な場末の歓楽街に不似合いな三味線屋。ご存じのように三味線の胴の皮は猫の皮。三軒隣が串かつの「八重勝」、その隣が「てんぐ」、スープが冷めない距離ならぬ、剥いだ皮がまだ暖かい距離だと思わない?
今は両店とも串かつの名店になり行列が絶えなくなっているが、いるも言っていいるように、行列の長さに反比例して味は激落ちしている。
ソースの二度漬け禁止だって?馬鹿じゃないか。二度漬けを不衛生というなら真っ黒になったエプロンや煮染めたような雑巾は、あれは何なんだ。
今の、味が劇落ちした新世界の串カツ店の名誉のために書いて置くが、現在の新世界にはちゃんと野良猫や野良犬がいます。天王寺動物園から逃げ出したノラライオンやノラキリンもたまに見かけますね。

この頃、串カツ屋と双璧だったのが寿司店。10円寿司といい、三貫乗った一皿が10円と、超格安だった。新世界界隈にノラマグロやノラ蛸がいなかったのは、マグロや蛸は陸で生活できないからで、10円寿司屋がネタにしたわけではありません、ねんのため。ま、ネタにしても問題はありませんが・・・。
この10円寿司の格安商法が後の回転寿司を生んだ。回転寿司の元祖「元禄寿司」のオーナー白石さんが高騰する人件費の軽減目的で開発したのが回転テーブルなのである。
いま思えば、僕の隣でイカとカッパ巻きを食べていたオッチャンが白石さんだった、のかも知れない。

二つ目の余談は、ドトールの関西の一号店は心斎橋にオープンし、この頃、企画会社を経営していた僕は、雑誌の仕事で取材をしてことがあるのだ。タダでコーヒーとケーキをご馳走になった。もちろん、雑誌にはいい提灯記事を書きましたさ。
ということで、コーヒーブレイクはオシマイ。

冒頭のアジアコーヒの暖簾は昔のものにほぼ沿ったデザインなのだが、少しだけ違う。昔の暖簾は下部に「神戸ー大阪ー京都」と印刷されていた。つまり、白地に赤の日本を中心にした地球のイラストを挟み左にアジア、右にコーヒ、その下に、神戸ー大阪ー京都とシンメトリーに印刷されていたわけである。

大阪人は珈琲をコーヒーではなくコーヒという。聡明な読者なら暖簾の話から、なぜそう言うようになったのかの謎が解けたはずだ。そう、アジアコーヒの影響なのである。
暖簾を作ろうとして、地球のイラストを挟んで左にアジア、右にコーヒーにしたところ、「ー」がバランスを悪くし邪魔だったのだ。まだコーヒーを珈琲と漢字で書いていた時代だったから、コーヒーがコーヒでもいいじゃないかと、暖簾屋のオヤジは思ったのだ。で、コーヒになった。大抵のモノゴトは、いい加減な始まりなのである。

当時の日本は、「銀巴里」に代表されるシャンソン喫茶、「ACB(アシベ)」「メグ」「灯」のようなジャズやロックの音楽演奏、ファニーズのボーカルだった沢田研二が出ていた「ナンバ一番」などのジャズ喫茶、「ともしび」などの歌声喫茶、ロック喫茶、ロカビリー喫茶、ゴーゴー喫茶、そしてカテゴリーがよくわからない純喫茶、後年だとノーパン喫茶などなど、多数の業態の喫茶店が花開くわけだが、こうした特化の魁がアジアコーヒだったのだ。
大阪に現在のような喫茶店があまり無い時代に誕生した10円寿司並のコーヒーチェーン店。コーヒが確か1杯15円。トースト付きのモーニングが20円。ゆで卵が付いて30円だったと思う。



当時小学生だった僕は、週に2、3日はアジアコーヒでモーニングを食べ学校へ行った。家業が飛田遊郭の寿司屋だったので夜が遅く朝飯を作って貰えなかったからだ。だから週に何日かはアジアコーヒ、他の日は昨日の残りのネタで自分で寿司を握り朝食にした。

アジアコーヒは最盛期で140店舗ほどあったから関西人は誰もがアジアコーヒを飲んだといっていい。だからコーヒで定着した。
以上が、大阪人がコーヒーをコーヒと言うようになったタカノツメ先生の学説である。眉唾だと思う方は、学を外したただの説と思っていただいてもよろしい。



後のことだが、アジアコーヒ以外に、大衆喫茶「玉一」というのもチェーン展開した。大衆喫茶という表現が笑える。○に玉一の図案(後でいうログマーク)も和風すぎて、大衆酒場や大衆浴場、大衆食堂の延長上の喫茶店かというイメージである。コーヒーだけでなく紅茶やレモンスカッシュなどの飲み物、カレーやオムライスや焼きそばなどの食べ物も大衆価格で売っていたからだと思う。



3つ目の余談だが、写真のマックの所に、かつて「玉一」があった。場所は大阪環状線寺田町駅前のガード下。当時僕は駅から徒歩5分ほどの所にあった2K風呂無しのアパートに住んでいて、よく玉一を利用した。ちなみにアパートからやはり徒歩5分ぐらいのところに小田実の家があって、ベ平連関係で交流があり何度か泊めてもらったことがある。
僕のアパートと小田実のアパートの中間ぐらいの所に銭湯があって同居していた彼女と通ったものだ。だから知っているのさ、石鹸はがタカタ鳴ることを・・・。

1970年のいつのことだったか、ベ平連運動も終息し挫折感の中にあった僕は見えない未来にため息をつき日々を過ごしていて、ある日の朝に玉一でコーヒーのモーニングセットを食べながら道路を挟んだ向かいにあるパチンコ店の開店を待っていたときに、店内に流れていた有線のビートルズの歌に、なぜか涙した。
その時は曲名を知らなかったのだが、レット・イット・ビーだったのである。
だからなのだろう、今もこの歌を聞くと、青春の蹉跌や当時の駅界隈の風景を懐かしく思い出す。

旅にしあれば(2)  




旅にしあれば(2)


3年前に、20年ぶりに訪れた北京は大きく様変わりしていた。
東京砂漠といったりするが、都会を不毛の砂漠と形容するなら、今の北京はその最たるものといえた。およそ潤いというものがなく、埃とガスで曇った空の下に、殺伐とした無秩序でこけら脅しのように林立する建築群と埃まみれの高級外車が道や歩道を占拠する、昔日の面影がまったく消え失せた品格のない都市に成り下がっていたからである。

日中友好条約が締結されたのは1972年。僕が北京を訪れたのはその4~5年後だったので、初めて北京の土を踏んだのは37~38年ほど前になるが、当時の北京は大きな建物が少なく、下町の風情と喧噪と人々の体温を感じさせる潤いのある清潔な町だった。

3年前、僕たち家族は観光旅行で北京にいて、八達嶺(万里の長城)へ行くべく地下鉄を乗り継いで北京西駅へ向かったのだが、北京西駅に着いて驚かされた。30数年前の北京西駅の姿は欠片も残っておらず巨大なターミナルになっていた。地下鉄から西駅への道程や西駅の構造が大阪梅田の阪急駅構内や阪急三番街と酷似していたのである。



32~33年前の何度目かの北京の極寒の2月の夜。僕は田舎の寂れた終着駅のような駅の改札口で、寒さに耐えながら到着する列車を待っていた。写真は北京南駅だが当時の北京西駅もこんな駅舎で南駅よりも老朽化し煤けており、平屋造りの木造駅舎の軒下に裸電球が灯るだけの小さな駅だった。人の姿もまばらで駅前は街灯もなく真っ暗。本当にこの駅が呼和浩特(フフホト:内蒙古自治区)からの長距離列車が着く終着駅なのか、僕は駅を間違っているのではないかと思いつつ、会いたいと切望していた人の到着を待った。

本来のプランでは僕が空路フフホトに飛び、そこで出迎えてもらうことになっていたのだが、中国旅行社発行の航空券が間違っていて、北京に到着した日にフフホト便が飛んでいなかった。
すでに何度目かの北京だったので旅慣れていると過信していた僕は、普段は慎重なくせに、この時に限りフフホトの連絡先を持たずに来てしまっていた。僕は、北京駅で路頭に迷った。気を静め、まずは宿を確保しようと思った。2月の北京。空港で夜を明かすには寒すぎる。

頑強な共産主義国だった当時の中国は、外国人の個人旅行者は入国すら難しい時代で、ホテルを確保するのも簡単ではなかった。思案した末、外国人の宿泊が可能な国際級のホテルならと思い、空港タクシーで北京飯店に行き交渉し部屋を確保したのだった。
次はフフホトの連絡先の入手方法である。フフホトの連絡先を知っているとすれば、その人の実家である。
国際電話どころか市外電話すらままななら北京。鎖国的な状況の中で国際電話がかけられるのか。ホテルのフロントに相談したところ、北京駅前にある中央電信電話局なら市外電話がかけられるから、もしかすれば外国にもかけられるかも知れないと教えられ電話局に行った。

市外電話を申し込む列に並びそして日本への国際電話を申し込んだ。会話がまったく成り立っていないから受け付けられたかどうか不明のまま、安くない料金を前払いし番号札を貰い待った。不安のまま待った。2時間以上も待っただろうか、呼び出しがあり指定された電話ブースに行き受話器を取ると、ひどい雑音の中から途切れ途切れではあったが先方の声が聞こえたのである。
日本と電話がつながったことの安堵感。そのことを思い出すと今も身体が痺れる。

実家の人に手短に事情を説明し、フフホトの連絡先を聞き出した。そしてホテルに戻り、今度はホテルの交換にフフホトへ市外電話を申し込んだ。交換手の英語は中国語訛りがひどくまったく言葉が聞き取れない。何度もフフホトの電話番号を告げ市外電話の申し込みであることを伝えようとした。電話局同様、こちらの意図が通じたかどうか不明のまま、一度受話器を置き待つこと40分。ようやく電話が鳴り受話器をとると「サインバイノー」とモンゴル語が聞こえる。本人ではない。尋ねると寮の管理人だそうで、本人は空港に僕を迎えに行っているという。管理人に北京飯店の電話番号と部屋番号を伝え電話を切った。あとは先方から連絡が入るかどうかだ。
2時間後に電話が鳴り、懐かしい声が、やはり雑音に混じり途切れ途切れに聞こえた。
「明日の列車で北京まで迎えに行くから。夜の8時に北京西駅に迎えに来て」と言われたのである。

8時5分に列車は到着した。改札口の薄明かりの中から彼女は現れた。Gパンに厚手のフィールド調査用コートとスニーカーとデイバック。内蒙古自治区で遊牧に関するフィールド調査をしている格好そのままの姿だった。
汽車の排煙で汚れた顔は真っ黒。僕を見つけマスクを顎まで下げ笑顔で片手を上げて合図してくれたが、長旅で憔悴しているのが明らかに見て取れた。フフホトから北京西駅まで10時間。急なことだったので寝台席が取れず3等硬座で来たという。かなり厳しい列車の旅だったと思う。
僕に列車でフフホトまで来させる方法もあったと思うが、電話連絡すら簡単ではなかったし、外国人は制約があり簡単に地方へは行けない。切符を買うのも簡単では無い。僕に来させるよりも自分が北京に迎えに行く方が確実で早いと考えたのである。

北京空港で途方に暮れた僕は、紆余曲折・右往左往の末、北京西駅の駅舎の薄暗い電灯の下でようやく、妻(前妻)と会えたのである。

(つづく)





エポックメーキング  





エポックメーキング


前回書いた「題名のない番組」の放送が始まったのは1964年秋。
「題名のない・・・」と聞くと、ほとんどの人は「題名のない音楽会」の方を思い出すと思う。「題名のない番組」は1969年春までの約4年半の短命に終わるが、「題名のない音楽会」は半世紀経った今も続いている。
あまりにも長く続いているので、「題名のない音楽会」の初代の司会者で番組名の名付け親が楽壇に旋風を巻き起こした黛俊郎という音楽家だったことを、今の世代はあまり知らないのではないかと思う。

「題名のない音楽会」は、そのタイトルの奇抜さと番組内容のユニークさで世間の話題をさらったのだが、その放送が始まったのが「題名のない番組」と同じ1964年からなのである。正確には1964年8月から。つまり、「題なし」よりも「音楽会」の方が先に誕生した。
ということは、「題名のない番組」はパクリだということだ。タイトルを堂々とパクっちゃったのだ。パクると言うと聞こえが悪いのでパロディ。
パロディは本来、先行作品に対する批評的な意味を込めた模倣といった意味だが、「題なし」に関しては「面白いから真似ちゃいました」であって「音楽会」に対して批判的だったわけではない。むしろ感服したから真似たのだと思う。

似たようなものに「カヴァー」がある。音楽のカヴァー。YouTubeには「誰それの歌をカヴァーしてみました楽曲」が山ほどアップされている。カヴァーは補うや覆うといった意味だが、カヴァー曲の98%は元歌を補うどころか、耳をカヴァーしたくなるものばかり。
と、つい脱線してしまったので本線へ。

関西は反権力志向が強いのでパロディを生みやすい土壌で、過去様々なパロディを生んでいる。
1970年3月に大阪吹田で日本万国博覧会が開催されたが、前年の69年夏、大阪城公園を借り切って「反戦のための万国博覧会」が開催されている。企画発案は僕と仲間たち。手作りの博覧会だったのだが、多くの出展があり「ばんぱく」人気沸騰の中、「ハンパク」もかなり話題になった。最終日に大阪城公園から御堂筋を通り難波までの反戦デモを行ったのだが、参加者は5万人にもなり、御堂筋を埋め尽くす大蛇のようなデモ隊の先頭が難波に着いても最後尾はまだ大阪城公園の中という、おそらくだが、日本のデモ史上最長のデモになった。

以上かいつまんで書いてみたが、1964年は「題名のない音楽会」や「題名のない番組」などのユニークな番組が生まれた年であり、東京オリンピックが開催された年であり、新幹線が開通した年でもあった。歴史上のエポックメーキングな年だったのである。

幸せなら 手をたたこう
幸せなら 手をたたこう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 手をたたこう


この歌をご存じの方が多いと思う。いや、ほとんどの人が知っている歌だと思う。
原曲はスペイン民謡だが、編曲し日本語歌詞をつけたのが坂本九が歌った「幸せなら手をたたこう」である。

まだ発展途上国だった日本でオリンピックが開催され新幹線が開通したことで、国民は国や自分の将来に希望を持った。誰もがHappyな気分になった年だったといえようか。

半世紀経って、今、国を挙げてというか、大きなエネルギーを感じるHappyってあるのかなと思う。
で、以下はちょっと無理つなぎ。で、いつものように無断借用。
マリーさん無断拝借してごめんなさい。

ある人のブログに次のような文章があった。

自分のしたいことが見つかったら手を叩こう。
本物の幸せを感じられたら手を叩こう。

今日もHappyな一日を


動画も貼られていたのでそれも拝借。
よし、今日は無理に矢理をつないで、無理矢理にでも、
花粉が舞い散って目がウルウル、鼻がグズグズ、喉がゴロゴロなんだけど、
Happyな一日を過ごすことにしよう!♪


フルスクリーンでどうぞ



ラバッツアをグラッツィエ♪  




ラバッツアをグラッツィエ♪




イタリアのコーヒー、ラバッツア。
“嵐を呼ぶ女”から届けられた。なぜ嵐を呼ぶ女かというと、彼女が乗ると高い確率で海が荒れたから。

遠い遠い昔の、大阪にヨットを係留していたときのこと。彼女がイタリア出張の帰りに買ってきてくれたのがこの豆。その時もこれと同じぐらいたくさんあって、イタリアのどこかのスーパーの袋に無造作に入れたものを「せんせ、お土産!♪」と、手渡されたと記憶している。大阪では先生を“せんせ”と言う。
「ほい・グラッツィエ♪」

その後、東京でも同じ豆を見つけたとかで、東京へ出張のたびにヨットに持ってきてくれた。アルミコーティングの袋に入れられてカチカチに固められた真空パックのコーヒー豆のたぶん走りで、真空パック技術の伝統を持つイタリアならではこそだ。
これ以降、彼女が僕のヨットのコーヒー豆仕入れ担当となるのだが、今思い返してみると、ただの一度も金を払っていないことに気づいた。ごめんなさい。

今でこそヨットでレギュラーコーヒーを飲むのは普通になったが、当時はまだ珍しくて、同じハーバーに舫うスワンやバルティックといった超高級ヨットですらインスタントコーヒーだった。超高級ヨットのオーナーは違いが分かる人たちのはずだから、むろん、飲むのはネスカフェの金ラベル。

揺れるヨットでレギュラーコーヒーを飲むのは簡単だが、淹れるのは簡単ではない。
薄いガラス製のサーバーは割れやすいし滑りやすい。湿らせた布巾を滑り留め代わりに敷きドリッパーを乗せ湯を注ぐ。ちょっとした引き波でも倒れそうになる。腰に力を入れて踏ん張って中腰でバランスをとりながらポットの湯を注ぐ。
狭いキャビンの中はコーヒーの馥よかな香りに満ちるが、その香りに酔う前に、船酔いするクルーも少なくない。コーヒーにかかわらずヨットのキャビンでの料理は船酔いしやすい。そのせいだと思うが、セーリング中に「コーヒーが飲みたいな」というと、「ビールにしません?」とクルーは言ったものだ。今思い返してみると、無茶な要求だったことがわかる。クルーだったみなさん、ごめんなさい。

ポンツーンに舫ってコーヒーを淹れていると風に乗る香りに誘われてやって来る連中も少なくない。N氏もそんな常連の一人だった。早朝の7時ごろに乗り込んで来てハッチを空けて覗きこみ「コーヒーまだ?」と言う。「玉子とトーストも頼む。朝帰りで腹が減ってる」と図々しい。けれどもクルーたちはN氏がお気に入り。「はーい♪」と色良い返事で朝飯を作るのだった。
N氏はバンドフェットというヨットのオーナーで僕よりも3~4歳若い。けれどもキャリアが豊富でずいぶん勉強させていただいた。夜のネオンの海のセーリングでも・・・。
今思い返してみると、僕のヨットにはいつも妙齢の未婚の女性クルーが何人も泊り込んでいたわけで、これって世間でいう外泊ではないか。彼女たちのお父さんお母さん、ごめんなさい。
今日の僕は、あやまってばっか、で・す・よ♪
エンタの神様に出ていた“ですよ。”、どうしているのだろう。

とり急ぎ、彼女にお礼のメールを送った。




Tomoko様

コーヒー豆が届きました。
宅急便の袋を胸に抱え込んですぐ、コーヒー豆だと分かりました。
封を切って取り出して見て、
懐かしくて思わ涙が出そうになりました。
大阪北港に船を舫っていた頃の情景が鮮明に蘇りました。
楽しい日々でした。

思い出させてくれて、ありがとう。

たかのつめ



その朝のジャズ  




その朝のジャズ



神田川の歌のように、その友人も三畳一間の部屋に下宿していた。窓の外には神田川の代わりに金網のフェンスがあって、その向こうは京大農学部のグランドだった。
当時大阪に住んでいた僕は、一人で、時には他の友人と連れだって、よくその部屋を訪ねた。
部屋には勉強机と食卓代わりの小さな電気ごたつが置かれていて人が座れる余地の方が少なかったのだが、その狭い空間に多いときには5~6人が座り込み、酒を飲みつつ、マルクスがどうのレーニンがこうのと口角泡を飛ばしていたのだ。そして夜も更け議論に疲れると、連れだって深夜映画館へ行き、唐獅子牡丹のスクリーンに向かって「よっ。健さん!」とか「お竜さん!」などと叫んでいたのである。
この時代の京都は学生運動や市民運動で騒然としていて、その騒然の中に身を置くことが、学生だけでなく若者の流行であり、若いということの証左でもあった。僕たちも当然、流行のアイテムのヘルメットとタオルと軍手を持っていて、時折、戦場へ出向いたものだった。
当時の主戦場は河原町御池の市役所前で、ここで待ちかまえる機動隊と対峙するのだ。攻撃はまず、弱小軍団のデモ隊の方から始まる。道端に転がっている石を投げつけ、一撃で簡単に折れてしまう頼りないゲバ棒で殴りかかるのだ。こちら側の攻撃が一通り終了すると攻撃権は相手に代わる。機動隊の指揮官がさっと指揮棒を頭上にかざすと、鉄鋼脚絆、ジュラルミンの盾を持った戦士たちが突進してくる。まるで武士道の ルールに沿ったような攻防といえようか。どちらの正義が強かったかは説明するまで もないだろう。僕たちの正義はいつも蜘蛛の子を散らすよう霧散した。
シュプレヒコールの文言の一つすら実現できなった正義だが、時代の流れに身を置き社会とコミットできているという実感があった。いつの時代も主役は若者のはずだから、主役を張れたという点では日々を謳歌していたといえようか。

そんなある日、友人から下宿先を変えたとの連絡が入った。
叡山電鉄「岩倉駅」から徒歩10分。田圃のなかにその新築の下宿があった。木造モルタル2階建て。部屋数は20室もあっただろうか。典型的な学生アパートで、週に2度入れる共同風呂と、共同の炊事場とトイレがあった。1階の友人の部屋は6畳一間だったが家具が少なく、新築のせいか僕の目には眩しく広く映り、前の下宿で使っていた机が小さく見えた。家具はなにも増えてはいなかったが、その広い部屋にはオーディオセットが置かれていた。
「なぜまたこんな田舎に」
「いや、少し勉強に身を入れようと思って」
「そうか。しかし腹が減ったよ」
「晩飯はまだか」
「帰りの電車賃しか持ってないよ」
「何もないぞ」
そう言いながら、彼は押入から一人用の電気炊飯器と1合ほどの米をとりだし僕に見せた。
「突然来てしまったからな。悪かったな」と僕。
「ちょっと出かけるか」
そう言って彼は窓を開け、僕たちはその窓から外へ出た。そして近くの畑から茄子を1本と青菜を一握りちぎり取って部屋へ戻った。つまり畑泥棒だ。
「なんで玄関から出ない」
「いやこっそりなので、なんとなく気分はこっちからかなと思って」と彼は笑い、僕も笑った。
炊飯器に米と野菜を入れ醤油を垂らして炊いて、食べ、そして寝た。

翌朝、ちょっと出かけると言い残して彼は部屋を出た。いつまで待っても帰って来る気配がなく、何もすることがない僕は本を読むことで時間を潰した。
夕方になってようやく彼は戻った。金が無いので太秦撮影所に映画のエキストラのバイトに行ってきたのだという。買い物に誘われ僕たちは外へ出た。近くの農協の中に小さな店があって、そこで米と缶詰と酒と菓子を買った。日払いの1日分のバイト料がそれで消えた。
その夜は遅くまで起きていた。何を話したかは覚えていないが、疲れて眠るまで話をした。

次の朝、彼は窓を開け放ちレコードをかけた。
朝の、柔らかい陽射しの中でジョン・コルトレーンのテナーサックスが吠えた。レコー ドがマイルスデイビスに変わりトランペットが耳を射抜いた。再度テナーサックスのソニーロリンズとなり、セロアスモンクとテテのピアノで終わった。
「なぜか朝に合うんだよ」と彼は言った。
このときの僕は、大阪の御堂筋を埋め尽くす5万人のデモ隊を率い、その最前線で長蛇の流れを引っ張った後で、逮捕こそ免れたが疲弊しきっていた。その身体にジャズが沁みた。
「合うね」僕は答えた。
昼前に、駅まで送るという彼と共に部屋を出た。
出町柳までの切符を買った彼は、それを僕に渡し、あとは大丈夫かと言った。
「ありがとう」としか僕は言えなかった。そして、そこで分かれた。

いま、僕の手元には彼が遺した22枚のレコードがある。あの時のものと、その後に彼が買い足したものだ。このレコードと、あの日の最大限の歓待が僕への遺産だ。僕は彼から友人と接する術を学んだ。その後の僕はあちこちを転々としたが、二つの遺産は擦り切れることなく今も僕の中に健在だ。

    僕はぶしょう髭と 髪をのばして  
    学生集会へも 時々出かけた
    就職が決まって 髪を切ってきた時  
    もう若くないさと 君に言い訳したね

『いちご白書をもう一度』がリリースされるのは、5年後のことである。

懐かしさの一歩手前で・・・  




懐かしさの一歩手前で・・・


大阪の天神橋筋商店街は日本で一番長い商店街です。大川の天神橋北詰から真っ直ぐ北へ、淀川の長柄橋南詰まで約2.6kmもあります。

大阪の都心を流れる大川は昔の淀川。現在の長柄橋から大阪湾へ真っ直ぐ流れている部分は開削された人工の川で、正しくは新淀川。
新淀川と大川の分岐点には水量を調整する毛馬の閘門があり、毛馬橋から大川を下ると都島橋、源八橋、桜宮橋、天満橋、天神橋、なにわ橋、大江橋、淀屋橋、肥後橋と橋が続きます。土佐堀橋を過ぎると大川は安治川と名を変えて大阪湾に合流します。
大川は水上物流の交通手段として利用され、土佐堀には雑喉場(ざこば)魚市場、堂島には米市場、天満には青果市場の三大市場がありました。雑魚場は今の中央市場、堂島米市場跡には北浜の証券取引所ができ、天満青物市場は再開発され高層住宅になりましたがその1階に総合市場として今も在ります。

昔は藩は石高、武家の給与は米、その相場が経済を左右しましたから、堂島の米市場跡に証券取引所ができ、川辺に軒を連ねていた米倉が証券会社に姿を変えと考えれば“なるほど感”があります。
ちなみに「必殺シリーズ」の中村主水クラスの与力で30俵2人扶持程度なので年収換算で90万円ほど。物価は安かったとはいえ“必殺”のバイトを必要としたのでしょう。

もうひとつちなみに、「はぐれ刑事純情派」の安浦刑事は中村主水の分家筋になります。中村主水と安浦刑事って風貌が似ているでしょ。血は争えませんね。
安倍首相の家系が政治畑なら、中村家は警察畑なのです。公務員の中でも警察官の給与は高いので安浦刑事で900万円ほど。恋人(?)のクラブ『さくら』の由美ママの年収は2千万円ほどでしょうか。
ちなみのちなみのちなみに、主題歌の「影法師」を歌っている堀内孝雄は松虫中学の僕の後輩です。アリスの相方だった谷村新司は僕の親友の弟の大学の同級生でした。何が言いたいのかって?大阪は狭いなあと・・・。

天神橋筋商店街のことを書いているのは、別府葉子さんが天神橋筋界隈に住まれていて、その町を離れることを知ったからです。とにかく、引っ越しのことを知り、天神橋筋が懐かしく思い出されたのです。
ただし、別府葉子さんがこの町に住んでいたという確証はありません。これまでの別府さんのブログに散見された日常にまつわる情報片からの推測です。商店街は1丁目から8丁目まで2.6kmもありますから、何丁目辺りかまでは特定できていませんが、必殺シリーズやはぐれ刑事純情派、鬼平犯科帳で推理力を養った僕は、これまでの情報片から犯人の足取り、って別府葉子は犯人なの?何の?
とにかく、推理を働かせると、犯人、じゃなかった別府葉子さんは天神橋筋商店街の2丁目近辺にお住まいだったのではと思っているのです。

僕は長く3丁目を東に入った松が枝町で企画会社を経営していたので、同じ町ですれ違っていたともいえます。ね、大阪は狭いじゃないですか。
ま、すれ違いといっても住んだ時代がオーバーラップしていないので、太秦撮影所近くの食堂で高倉の健さんが天丼を食べ、その同じ丼で天丼を食べた客といった、関係がありそうで何の関係も無い程度のことで、これを縁いうなら、なんだって縁になっちゃうようなすれ違いですね。

別府葉子さんが天神橋筋界隈に住まれた期間は10年から長くて15年ぐらいだと思うので住み始めは1999年~2004年頃から。僕が会社を整理し大阪の町を離れたのが1996年。完璧にすれ違っておりますね。
でもですね。天神橋筋2丁目には「甚六」というお好み焼き屋があり足繁く通っておりました。今も有るのかどうか、「ナショナル」という洋食屋もあって、この店のランチもよく食べたものです。
「甚六」は美味しい店なのでグルメ(のはず)の別府葉子さんも食べている可能性があり、ならば、僕が座っていた椅子に座り、僕が使ったコテでお好み焼きを食べたかも知れないわけです。健さんの丼程度の出来事ですが・・・。

9月27日の土曜日、久しぶりにJR天満駅から南森町まで、天神橋筋商店街を歩いてきました。
20年も歩き慣れた町なので隅の隅まで熟知していますから実に懐かしかったです。
大川の都島橋そばの「さざなみプラザ」という公団住宅に住んでいた頃は、妻は生まれたばかりの長女を胸に抱き天満市場に毎日のように買い物に行っていました。

さくら ひらひら 舞い降りて落ちて 揺れる 想いのたけを 抱きしめた
君と 春に 願いし あの夢は 今も見えているよ さくら舞い散る

都島から桜宮、天満までは桜の名所。春はいつも桜がはらはらと舞っていた思い出があります。
その妻も今は彼岸に、って、まだ生きてましたね。

天神橋筋商店街の2丁目から4丁目にかけての東側は別名クリエーター村といい、多くのデザイナーやコピーライター、カメラマンたちが事務所を持ち住んでいるところで、これは今も変わっていないのではないかと思います。もう一カ所、西区の靱公園周辺にもクリエ-ターやアーティストが多く住んでいます。企画会社はデストリビューター的な存在なので幾人ものクリエータ-やアーティストたちと仕事をしたものでした。
この町を離れて20年。当時の彼・彼女たちはいまどうしているのだろうと思うと、歩いていて懐かしさもひとしおでした。

次回は、親友の弟との思い出話を。




アジアのビーチパラソル  




アジアのビーチパラソル


アジアコーヒに関連し、思いつくままに書き進めてみたいと思う。
母子家庭だった僕は、母子二人の家庭すら知らず、3歳ぐらいの時から転々と預けられて育った。薄暮の彼方の記憶で曖昧だが、二度、孤児院にも預けられたはずだ。親が実存するのに孤児院なのと思うかも知れないが、僕の記憶違いではない。たぶん母は自分が親であることを隠し道端に置き去りにされていたとか適当な理由をつけ預けたのだと思う。必要は発明の母。無い知恵を絞って孤児院に預けるほど切羽詰まっていたということなのだろう。
そして孤児院は、そんな母の嘘を看破しながらも、素知らぬふりをして預かってくれたのだと思う。人が人に優しい時代だったのだ。電車やバスにシルバーシートが無くても年寄りは席に座れたし、子供は万人共通の子供でもあったから、道端で遊ぶ子供たちは決して孤独ではなく、住民の目で守られていたから連れ去りなどの事件はほとんど起きなかった。当然、白杖者を蹴倒したり盲導犬を刺すなどもあり得なかった。三丁目の夕日的に単に風景としての昭和レトロを懐かしむより、かつて現存した人が人に優しかった時代が、神話化や都市伝説化しつつあることの方に強い危機感を持たねばならないのだが、美しい日本を履き違えている安倍の政治や、誰も彼もスマホに魅入って顔を上げて世間を見ない市民に望んでも詮ないことと言えようか。

見知らぬ他人に預けられる生活は小学3年の春の、広島の山奥に預けられるまで続いた。そこは学校まで徒歩で2時間も歩かねばならないところで、学校前の幅20mほどの川に沿って遡行し、幅1mほどのせせらぎになるほどの山奥の小さな集落だった。この集落でのことや、預けられる経緯はそれだけで2本分ぐらいの記事になるので割愛する。

5月に預けられ、7月に大阪へ連れ戻された時に環境が一変していたことを知る。それまでのジプシーのような生活が終わっていたのである。
母が再婚したのだ。相手は飛田遊郭で店を構えていた寿司屋の店主。二人の出会いの詳細は省くが、飛田遊郭という場所、子供を手元に置いては仕事ができなかった母の仕事、その客と書いておくので、あとは読者が勝手に想像していただければいいと思う。ちなみに母は面長の相当な美人であった。
入籍はしていないので内縁関係ということになるが、僕に父ができ定住の家(アパートの一室だが)ができたのだった。

その、義父のことを少し書いておこう。
義父は福井から大阪に出てきて洋食店で修行を積み、すし屋を開業する前まではキャバレーの料理長をしていたそうである。今でこそキャバレーは廃れてしまい、有ったとしても名ばかりだが、本来のキャバレーはダンスや歌、コメディショーなどの舞台があるナイトクラブだったのだ。建物も大規模で数百人以上のホステスが働いていた。そして、多くの料理人が本格的な料理を提供していたのである。義父はその料理長だったわけだから腕が良かったということだ。

僕は一度もキャバクラに行ったことがないので想像の域を出ないが、フランス語のキャバレー(cabaret)と、英語のクラブ(club)の合成語のキャバクラに、昔のキャバレーの雰囲気もクラブの高級感もないと思うのだがどうだろう。もっとも、キャバクラ嬢たちはフランス人形とアメリカのバービーちゃんを混ぜたような感じだから、そこが名前の由来なのかも知れない。

あの力道山が客と喧嘩をして刺され体脂肪と筋肉の厚さが災いして手術ができずに死亡したのがキャバレーなら、一世を風靡した清純コンビの吉永小百合の相方の浜田光男が酔って酒瓶で客を殴るという、清純スターらしからぬ振る舞をして銀幕から消えていったのもキャバレーである。

ライザ・ミネリの「キャバレー」はいい映画だったが、あの華やかさが昔の日本のキャバレーにもあって、その舞台から多くの歌手や芸人が誕生したものだ。
キャバレーは日本の映画にもよく登場し、裕次郎がドラムを叩いて嵐を呼んだのがキャバレー、小林旭がギターを背に馬に乗って港町で歌っていたのもキャバレーだ。港町や炭鉱の町のキャバレーにはいつも宍戸錠がいて、チッチッチと言いながらピストルを乱射するのだ。その騒ぎを聞いて奥の事務所から葉巻を咥えた金子信夫が・・・。

余談になるが、馬に乗った小林旭が出没する炭鉱や港町のキャバレーの舞台でセクシーに踊っていたダンサーが白木マリで、後の必殺仕置き人中村主水の嫁、中村りつ、その人である。
ついでに書いておくと、中村主水が姑や嫁に頭が上がらなかったのは、姑の名が「せん」嫁の名が「りつ」、つまり、戦慄だったからだ。ま、余談です。



当時の邦画は封切り3本立てで大人55円子供30円だった。今のような1本立てというようなケチな映画館など皆無だった。
すし屋の2階のアパートの隣が飛田劇場という映画館で、部屋の窓を開けると下が映画館の裏の敷地。そこへわざと野球のボールを投げ入れ、「ボールが飛び込んだ。取らせて」と言ってはタダで映画を見たものだ。本邦初、総天然色シネマスコープ映画「鳳城の花嫁」も「嵐を呼ぶ男」など裕次郎シリーズも全部タダで観た。

西成区山王町といえばじゃりン子チエの世界だから、子供は悪知恵を働かせることに長けていて、僕もそんな一人だったから、映画だけでなく南海球場の野球もよくタダで観た。
当時の南海球場の外野はフェンスを張り巡らせただけのお粗なもので、しかもフェンスの所々に穴が開いていた。その穴から中へ潜り込もうというのは誰もが考えること。猛者は金網をよじ登って入ろうとした。
だが、同じ事を球場側も考える。要所要所に監視員を立たせ目を光らせさせたからコトは容易ではなく、監視員の目を盗んで盗んで忍び込もうとして失敗する子供があとを立たなかった。だが、僕はいつもすんなりと中へ入った。秘術をもっていたのである。

穴に潜り込むとき、ふつうは頭から入る。誰もがそう思い込む。監視員もそう思っている。その思い込みを逆手に取り、尻の方からエビガニの後ずさりのように中に入る振りをするのだ。すると監視員が「ボク、そこから外へ出たらあかん」と・・・。
この手法で、堂々と中へ入ったのである。

あるときの南海=巨人戦の、野村が捕手、バッター川上の時に、川上が打ったファールボールを一塁側の観覧席にいた僕が素手でキャッチしたことがある。周りの大人たちから拍手喝采で、人生初の晴れ舞台であった。
まるで、フィールド・オブ・ドリームスのようでしょ。って、ぜんぜん違うか!

話を戻そう。
義父はそういう経験を持つ料理人だったたので舌はとても確かだったが、店は小さかった。おそらく独立して間もない頃だったのだろう。
店は木造モルタル2階建て下駄履きアパートの一階の角で、義父の店の隣もその隣もスタンドという名の一杯飲み屋で、スタンド千代とかスタンドお多福といった名前だったと思う。

昔の遊郭には広さが2畳や3畳ほど飲み屋が沢山あって、年齢不詳ママがえげつなく商売をしていたのである。どうえげつないかというと、カウンター下には常時一升瓶が2本置いてあって、1本の方は水で薄めてあるのだ。そして客が酔ってくるとそっちの瓶の酒を出すのである。残りの1本は本物の酒だが、特級のラベルの中身は二級、二級の中身は三級酒だったのである。カウンターだけの店の奥にはたいてい2畳ほどの小部屋があって、適当に客をピックアップしては座布団を尻に敷いて春を売っていたりもしたのだ。いや、千代さんもオタフクさんも充分なオバサンだったから、売っていたのは春ではなくて晩秋といえようか。

ま、じゃりんこチエの大人版の世界と思っていただければいい。ちなみにじゃりんこチエのはるき悦巳は店からそう遠くないところの出身だ。これもついでに書いておくと、アリスの堀内孝雄、水泳の寺川綾、ラップのSHINGO☆西成は僕が通った松虫中学の後輩である。だからどうしたと言われたら、どうしよう?どうすればいい?
とにかく、飛田遊郭がある西成区山王町はすぐ隣が釜ヶ崎ということもあって、大阪ではこれ以上はないというデンジャラスな土地柄だったのである。

義父にはよく外食に連れて行って貰っている。カクテルグラスのような銀食器に乗ったアイスクリームを食べたのも父に連れられてだった。ポークジュクセルという豚のステーキにオムレツを巻いたような料理(ピカタではない)もそうだ。これは僕が復元してわが家の定番メニューになっていて家族に好評。娘が受け継ぐはずである。



そんな義父に、一番最初に連れて行かれたのがコーヒー店だったのである。写真の左端にチラリと写っているのがその店で、場所は飛田遊郭そばの今池という交差点の角。その道路を西へ渡ると釜ヶ崎、日雇い労務者の町である。昔のこの交差点には信号も横断歩道もなかったのだが、人が渡り始めると100%場所だった。というのも、もし万一人でも跳ねようものなら10分ほどで車が解体され消えてしまうからなのだ。開高健の日本三文オペラに登場する鉄を食べるアパッチ族は桜ノ宮の砲兵工廠跡が舞台だが、アパッチ族顔負けの世界が釜ヶ崎界隈にもあったのである。釜ヶ崎は、菊田一夫作の「がめつい奴」の映画の舞台で、映画を見た誰もがヤバイ町と思っていて、事実なんでもありの危ない町だったので、ここを通るクルマは戦々恐々だったのだ。

この映画のロケの時の僕は中学生で、釜ヶ崎の日払い家賃のアパートの3畳一間に住んでいて、ロケを間近で見学し、まだ若かった森重久弥に声をかけらて二言三言話した記憶がある。20年前の世界リゾート博で、80歳を超えていた森重久弥が愛艇の「ふじやま丸」から降りるのをそっとサポートしたディレクターが、あの時の中学生だった僕で、人生ってほんと、ローリングストーンです。

優れた料理人だった義父は飛田のヤクザの組の若頭も兼務していたのだった。なんだかドラマのような感じだが本当なのである。ヤクザと言っても博打と遊郭の用心棒でシノギを立てている正統派(ヤクザに正統もくそもないが)で、麻薬などには無縁の、のどかな組の(変な表現)の若頭だった。
そんな関係で、僕は小学生の頃から賭場に出入りしていて、たまには盆をひい(親を勤める)たりしたのである。そんな話も散りばめながら書いていくと、ますます混沌の西成界隈の度合いを深めていくことになりますが、寿司屋の2階の話がいつの間にか釜ヶ崎の日払いアパート住まいになっているのは、左手の小指が消えていたから博打でなにか失態をやらかし店を手放したからである。



これがその店。屋号は『伊吹』昔からこの屋号だったかどうかの記憶はない。初めて連れていかれたのは夕方だったと思う。一歩店内に足を踏み入れて異国に来たと僕は思った。



狭い店なのだ。半分に切ったチンチン電車の車両のような店内。幅があまりにも狭いためにテーブルは小さく、壁に直に交互に打ちつけてある。椅子も背もたれのない固定の丸椅子。テーブルも椅子も当時のままである。

この店には灰皿がない。足元に捨てるのである。タバコの灰や吸殻を足元に捨てる小洒落たスタンディングBARがあるが、『伊吹』半世紀以上も前からこのスタイルだった。ここが異国なのは、小洒落たBARの客は帰る家や故郷を持つが、『伊吹』の客はペペル・モコのような、帰れない故郷を引きずっている連中ばかりだからだ。



この店で僕は生まれて初めてコーヒーの香りを嗅いだ。深く焙煎された香りのコーヒーとミルクと煙草の煙に小学生が酔った。うっとりとしたのである。角砂糖を見たのも初めてだった。ストロングなコーヒーにミルクと角砂糖。この世にこんなにも美味しいものがあったのかと思った最初の体験がこの店のコーヒーだった。

たかがコーヒーで大袈裟なと言うなかれ。日本のレギュラーコーヒーの歴史はそれほど古くないのである。京都イノダで1940年、神戸萩原ですら創業は1928年なのである。僕がレギュラーコーヒーを飲んだ頃は、世間ではネッスルのコーヒー豆と大豆などの豆をブレンドしたインスタントコーヒーがコーヒーだと思われていた時代で、しかもそんなインスタントコーヒーですら、ようやく普及し始めた頃なのだ。この頃の平均的な日本の新興住宅は敷地20坪ほどの4Kほど(Dはもっと後)の建売で、玄関を入ったすぐの左右のどちらかに“応接間”という名の洋間があったのだ。そこに応接セットとヤマハの電機オルガンを置くのが庶民の夢、そういう時代だったのだ。

 もしも私が 家を建てたなら
 小さな家を 建てたでしょう
 大きな窓と 小さなドアと
 部屋には古い 暖炉があるのよ
 真赤なバラと 白いパンジー
 子犬の横には あなた あなた
 あなたがいて欲しい
 それが私の夢だったのよ
 いとしいあなたは 今どこに

と歌いながら、瑕や規格外の二級品のマイセンやボーンチャイナやノリタケのカップ&ソーサーでコーヒーを飲んだのである。ネスカフェカフェのインスタントを・・・。
この歌、1973年リリースだから、70年代でもまだプチブルはインスタントコーヒーだったのだ。これが当時のお洒落で先端のトレンド。
まともなレギュラーコーヒーを飲んだこともなくインスタントを本物と思い込んだフェイクな生活だったわけだが、彼らは本物に気づくことなく老いて今日に至る。飾るばかりで中身がなくモンプチな夢しか持たない今の日本の子供たちは、そんな親に育てられたわけだから、当然の結果といえようか。

そのようなわけで僕は貴重な体験をしたのだが、大人になり当時を振り返ってみて、店も客もすごかったということに思いが至ったのである。
『伊吹』のコーヒーは1杯50円だったと記憶しているのだが、この頃のアンコ(日雇い労務者)の日給は350円~450円だったのである。時給の間違いではないからね。彼らは350円の日給から50円を割いて本物のコーヒーを飲んでいたのである。
ベンハーやサウンド・オブ・ミュージックなどの総天然色70ミリシネマスコープ大画面の洋画の大人料金が100円、子供80円の時代の50円。小さな建売の応接間でインスタントのコーヒーもどきを飲む連中と、地下足袋姿の連中が飲むレギュラーコーヒー。どちらが自分の五感を充足させているかである。どちらが足が地に着いた生活か・・。(これをネタに小説を書いて見事落選しました)

まあそれにしても、人生はドラマである。『いぶき』のコーヒーはまるで萩原コーヒーのように深くて濃くて豊かな香りと書けば、聡明な読者の中にはハタッと膝を打ち、もしかしたらと思うはずだ。

そうなのです。萩原珈琲の創業者萩原三代治と『いぶき』の創業者伊吹徳之助とは親友だったのである。詳細は省くが、彼らは神戸の新開地であることがきっかけで知り合い意気投合。この時、すでに三代治は珈琲焙煎を生業としていて、徳之助はその三代治のコーヒーを飲んで感動するのである。そして焙煎方法を学びます。
飛田遊郭『とくまつ』の三男坊だった徳之助は、実家から今池そばの小さな土地を譲り受け、趣味でコーヒー店を開業する。1934年のことである。伊吹のコーヒーの風味が萩原に似ているのは、あたり前田のクラッカーといえよう。

現在の『いぶき』のオーナーは伊吹徳子、徳之助の娘である。小川珈琲の次男と結婚したのだが焙煎方法の違いに納得ができずに離婚し旧姓に戻り店を継いだ。萩原珈琲現社長の萩原孝治郎とは幼い頃は「孝ちゃん」「とっこ」と呼び合う親しい間柄だったのである。

というような、今日の嘘っぽい物語はどこまでが真実なのでしょうか。
出演いただいた関係者の皆様。ウソばっかり書いてごめんなさい。


萩原珈琲の詳細はコチラです。ぜひご一読ください。

アジアコーヒ  




アジアコーヒ




純喫茶の次はアジアコーヒについて。
アジアコーヒは、半世紀前に京阪神エリアで一世を風靡した喫茶チェーン店だった。スターバックスやドトールの元祖と言っても過言ではない。だってね、アメリカのスターバックの1971年、日本のドトールの1980年に対し、アジアコーヒは1960年頃なんだから。

二つほど余談を書いておくと、1960年当時の大阪新世界には串カツ店と寿司店が林立していて、串カツの肉はほぼ犬猫メインだった。というのも、新世界界隈で野良猫や野良犬の姿を見ることが無かったからである。火のないところに煙が立たずというが、残飯が出る繁華街にノラ猫や野良犬がいないはずがないではないか。その象徴的な店が、新世界のジャンジャン横町の入り口の5軒目に三味線屋があったことだ。大阪で最もデンジャラス(今はつまらぬ場末の飲食街になり果てている)な場末の歓楽街に不似合いな三味線屋。ご存じのように三味線の胴の皮は猫の皮。三軒隣が「八重勝」、その隣が「てんぐ」、スープが冷めない距離ならぬ、剥いだ皮がまだ暖かい距離である。
今の、味が劇落ちした新世界の串カツ店の名誉のために書いて置くが、現在の新世界にはちゃんと野良猫や野良犬がいます。天王寺動物園から逃げ出したノラライオンやノラキリンもたまに見かけますね。

この頃、串カツ屋と双璧だったのが寿司店。10円寿司といい、三貫乗った一皿が10円と、超格安だった。新世界界隈にノラマグロやノラ蛸がいなかったのは、マグロや蛸は陸で生活できないからで、10円寿司屋がネタにしたわけではありません。ねんのため。ま、ネタにしても問題はありませんが・・・。
この10円寿司の格安商法が後の回転寿司を生んだ。回転寿司の元祖「元禄寿司」のオーナーが高騰する人件費の軽減目的で開発したのが回転テーブルなのである。
いま思えば、僕の隣でイカとカッパ巻きを食べていたオッチャンが元禄寿司の白石さんだった、のかも知れない。

二つ目の余談は、ドトールの関西の一号店は心斎橋にオープンし、この頃、企画会社を経営していた僕は、雑誌の仕事で取材をしてことがあるのだ。タダでコーヒーとケーキをご馳走になった。もちろん、雑誌にはいい提灯記事を書きましたさ。
ということで、コーヒーブレイクはオシマイ。

冒頭のアジアコーヒの暖簾は昔のものにほぼ沿ったデザインだが、少しだけ違う。暖簾の下部に「神戸ー大阪ー京都」と印刷されていた。
白地に赤の日本を中心にした地球のイラストを挟み左にアジア、右にコーヒ、その下に、神戸ー大阪ー京都と、シンメトリーに印刷されていたわけである。

大阪人はコーヒーではなくコーヒという。聡明な読者なら、なぜそう言うようになったのかの謎が解けたはずだ。アジアコーヒの影響なのである。
暖簾を作ろうとして、地球のイラストを挟んで左にアジア、右にコーヒーにしたところ、「ー」がバランスを悪くし邪魔だったのだ。まだコーヒーを珈琲と漢字で書いていた時代だったから、コーヒーがコーヒでもいいじゃないかと、暖簾屋のオヤジは思ったのだ。で、コーヒになった。モノゴトの大抵は、いい加減な始まりなのである。

当時の日本は、「銀巴里」に代表されるシャンソン喫茶、「ACB」「メグ」「灯」のようなジャズやロックの音楽演奏、ファニーズのボーカルだった沢田研二が出ていた「ナンバ一番」などのジャズ喫茶、「ともしび」などの歌声喫茶、ロック喫茶、ロカビリー喫茶、ゴーゴー喫茶、そしてカテゴリーがよくわからない純喫茶、後年だとノーパン喫茶などなど、多数の業態の喫茶店が花開くわけだが、こうした特化の魁がアジアコーヒだったのだ。
大阪に現在のような喫茶店があまり無い時代に誕生した10円寿司並のコーヒーチェーン店。コーヒが確か1杯15円。トースト付きのモーニングが20円。ゆで卵が付いて30円だったと思うが、この記憶は確かではない。



当時小学生だった僕は、週に2、3日はアジアコーヒでモーニングを食べ学校へ行った。飛田遊郭の寿司屋だったので夜が遅く朝飯を作って貰えなかったからだ。だから週に何日かはアジアコーヒ、他の日は昨日の残りのネタで自分で寿司を握り朝食にした。

アジアコーヒは最盛期で140店舗ほどあったらしいから誰もがアジアコーヒを飲んだから、いつしか珈琲がコーヒで定着した。
以上が、大阪人がコーヒーをコーヒと言うようになったタカノツメ先生の学説である。眉唾だと思う方は、学を外したただの説と思っていただいてもよろしい。



後のことだが、アジアコーヒ以外に、大衆喫茶「玉一」というのもチェーン展開した。なんとなくだが大衆喫茶という表現が笑える。○に玉一の図案(後でいうログマーク)も和風すぎて、大衆酒場や大衆浴場、大衆食堂の延長上の喫茶店かというイメージである。
コーヒーだけでなく紅茶やレモンスカッシュなどの飲み物、カレーやオムライスや焼きそばなどの食べ物も大衆価格で売っていたからだと思う。



3つ目の余談だが、写真のマックの所に、かつて「玉一」があった。場所は大阪環状線寺田町駅前のガード下。当時僕は駅から徒歩5分ほどの所のアパートに住んでいて、よく玉一を利用した。ちなみにアパートからやはり徒歩5分ぐらいのところに小田実の家があって、ベ平連関係で交流があり何度か泊めてもらったことがある。
1970年のいつのことだったか、ベ平連運動も終息し挫折感の中にあった僕は見えない未来にため息をつき日々を過ごしていて、ある日の朝に玉一でコーヒーのモーニングセットを食べながら道路を挟んだ向かいにあるパチンコ店の開店を待っていたときに、店内に流されていたビートルズの歌に、なぜか涙した。
その時は曲名を知らなかったのだが、レット・イット・ビーだったのである。
だからなのだろう、今もこの歌を聞くと、青春の蹉跌や当時の駅界隈の風景を懐かしく思い出す。



バーボンストリート  




バーボンストリート


大阪駅のすぐそば、曽根崎商店街を南に歩いて、お初天神の手間の路地を曲がった2軒目にその店はあった。

『バーボンストリート』 ショットバーである。いかにも棚にバーボンがズラリと並んでいそうな名前だ。ところが名は体を表さない見本のような店で、バーボンはほんの3類ほどしか置いていない。では他の酒瓶がズラリかというと、それも違った。そもそも酒瓶をズラリと並べるほどの棚がないのだ。間口2m奥行き4m。予備の折りたたみ椅子を使ってぎゅうぎゅうに詰めても12~13人がやっと、そんな狭い店なのである。

マスターは元教師。まったくの素人からこの店を始めた。5年経っても素人のままだったから、よほど不勉強だったのか、向上心が無かったかのどちらかだ。そんな芸なしマスターの唯一の売りが、

「うちはグラスに注ぐ量が多いからね」

確かに、シングル料金でダブルもしくはそれ以上の量が注がれる。まあ、ロックはそれで良しだ。しかし、ミネラルウオーターや炭酸水よりも酒の分量が多いハイボールやフィズはカクテルという代物なのか、だ。そんな疑問も、なんでもいいから酔えれば吉とする客が多かったから、正当な僕のウンチクは少数意見としていつも否決されていた。

バーボンストリートでは僕は上客だった。まずなによりも金払いが良かった。とは言ってもいつも2杯しか飲まないので酒のつまみを入れても3千円に満たなかったが・・・。しかし、トイレが隣の建物の2階ということもあって、「ちょっとトイレ」と出たまま数日は帰らぬという客が多かったから、トイレに立っても5 分後には確実に帰ってくる僕は上客だったのである。ハンサムで脚が長かったから女性客が激増したし、肩書きも沢山もっていたから 場末の店に箔をつけてやったというのもある。なによりも彼の義兄と僕がヨットクラブのメンバーで知己の間柄だったいうのが大きい。



安くて濃い酒を飲ます以外にはなんともつまらない店なのだが、それをヨシとする僕以外の安物の客には有り難い店であった。交通至便、繁華な商店街の中だから安全ということか、妙齢の女性の飛び込み客も多かった。

座るとは名ばかりで、立ち食いの串カツ屋のように半身で座るような狭さなので、一人で来店する女性客はおのずと一番奥に座らされることになる。そして一つ置いた席から常連が座る。こうしておけば女性客が肩身の狭い思いをしなくて済むというわけだ。

こういう状態の時に僕が登場すると、僕がその女性の横の空いた席に座ることになる。これは別にマスターと裏取引しているわけではなくて僕が上客だからである。上客だか大して品があるとはいえない僕にして、この店では掃き溜めに鶴ならぬ鷹なのだから、他の客の品性は推して知るべきである。みなそれなりに安物ではあっても紳士なのだが、女性客を見ると急激に品格が下落し、突然酔う、もしくは酔ったフリをしてちょっかいを出し始めるのだ。つまり、身体が触れる狭さというのが一方に災難、片方に幸いをもたらせてしまうのだ。その非武装地帯の役目を僕が担当するのである。こうして僕は、「2度と来ない!」と帰ってしまうはずの女性客を何人も常連にしたわけで、その功績はとても大きかったのだ。

ところで、妙齢の女性客と書くと、なんだかとても美人のように思ってしまうが、必ずしも全員がそうではなくて、非武装地帯を必要としない単に妙齢なだけの女性客もいる。公言しているように僕はメンクイなので、こういう場合は非常に困ってしまうのだ。その僕を見て、日頃僕に嫉妬している常連たちが一斉に「たかさん奥へどうぞ!」と言って喜ぶのだ。

素人のマスターと品性の無い客と上客の僕と、妙齢の女性たちでいつも賑わっていた店、それがバーボンストリートだ。
12月の声を聞くと、この店は一層の賑わいを見せる。客が溢れる。溢れた客は寒空の下、グラス片手に店の外で立ち飲みになる。グラスが空になってお代わりの注文に店内に入ると、座っていた先客が黙ってグラスを持って外へ出て席を譲る。
店は三流、品性のない安物の客ばかりだが、こうしたマナーは一流だった。そんな連中や妙齢の女性たちと、2軒3軒と何度ハシゴしたことか。
ときどきふと、この店が懐かしくなる。

馬にも乗るけどボートにも乗るぞ  




馬にも乗るけどボートにも乗るぞ



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僕はとても嘘つきなので、こういう時に困るのである。僕の写真、と言っても信じてもらえないだろうなと思うからだ。
20年前、和歌山県海南市で『世界リゾート博覧会』が開催された。マリン部門のディレクターとハーバーマスターを兼務していた。写真はその時のものだ。誰が見たって競艇選手である。自画自賛になるが、いいアングルで撮れているとつくづく思う。
リゾート博の会場になぜ競艇ボートがという疑問があると思う。競艇ボートのイベントは協会からも強い反発が出た。その説明は後述するとして、若い頃から競艇選手に憧れていた。だが早々と挫折した。裸眼で1.2以上の視力を必要とし、視力不足で応募すらできずに終わったのだった。

競馬の騎手になりたいと思ったこともあった。身長や体重制限がありこれも断念した。競輪選手はどうかと思ったが、競艇はボート、競馬は馬に頼れるが、自転車は自力走行なので病弱な僕には不向きだと思い断念した。
だが人生は面白いもので、好きこそものの上手なりではないが、その後、競馬は競馬本を出版しベストセラーになったし、競輪は自転車のロードレース企画運営に携わり、世界自転車選手権10連覇の偉業を成し遂げ競輪界のスーパースターだった中野浩一氏との関わりができたりした。競艇もリゾート博がらみで競艇界のモンスターと言われた野中和夫を始め多くのS級選手と知己を得ることができた。競艇・競輪・競馬の三つは僕の人生の道程のキータームとなった。

冒頭の写真で僕が乗っているのは競技用のボートではなく、体験用に作られたタンデム仕様のボートなのである。前席にゲストを乗せ後席で操縦する。体験用といってもオモチャではなく全長が若干長いだけで他は実戦仕様そのもの。素人が単独では乗れないのを、ハーバーマスターの権限をごり押しして乗らせて貰った。モンキーターンこそ出来なかったが、初体験であったにもかかわらず中速ターン程度はできた。モンスターに「うまい(上手)やん」と言わしめた。

さて、なぜ博覧会に競艇ボートだったのか。日本モーターボート競走会から支援を得たかったのである。世界リゾート博は海に面して会場内にマリーナがあった。親水性あるリゾート博覧会がウリだったのである。だが企画運営した大手広告代理店は海や水上のイベントに詳しくなく、唯一、ディンギーヨットのレーザー級世界選手権の開催だけが決まっていて、マリーナ関連の他のイベントは白紙状態のまま後回しにされ、開催まで2ヶ月という切羽詰まった時期になって、マリン関連のイベントの企画運営とハーバーマスターをやってくれないかと僕の所に話が持ち込まれたのである。
企画が何も決まっていない状態なので予算も決まっておらず、しかも他のイベントに予算が食い潰されていて満足できる予算が配分される状態ではなかった。だから極力対外的な協賛を得る方向を模索した。
会場内に博覧会後はマリーナになるハーバー海面があるだけで、他には何もない殺風景なもので、まずはマリーナらしい設営を要した。和歌山ヨットクラブと交渉し、開催期間中だけハーバー内にヨットの係留をお願いした。カヌー体験、ヨット体験、クルーザー試乗、足こぎボートなどなど、イベントの大部分は関連企業の協賛を仰ぎ予算無しで行った。

その一つとして、日本モーターボート競走会に支援をお願いしたのである。レスキューボートやカヌーなど多大な支援を得たのだが、そのお礼として、競艇のイメージアップのための試乗会を行ったのである。
だが競艇はギャンブル。イメージは悪い。協会は予算もつけず現場の苦労も知ろうとしないくせに激しく反発しクレームをつけた。そんなあれこれを「マリーナの責任者は僕だ。不満なら解雇しろ」の一言で押し切った。開催まで1ヶ月を切る時期に僕が手を引けばウリのマリーナイベントが壊滅するわけで、その弱みを突いたから協会は嫌々渋々承諾したのだった。

72日の開催期間中の10日間程度だったが、ハーバー内で競艇ボートの体験試乗会を行った。競艇選手は月15日間ぐらいが仕事。全国の競艇場でレースを行う。残る15日は休日もしくは移動日だ。
前述した野中和夫を始め、選手会の大阪支部に所属する選手たちがレースの合間を縫って駆けつけ、体験試乗を手伝ってくれた。驚いたのは彼らの仕事ぶりだった。懇切丁寧で接し方もマイルド、誰もが例外なく紳士だったのだ。体験試乗を始めた数日後に、お客さんが我々のところに来て次のように問いかけた。
「身障者たちの体験は可能か」と。
「もちろん」と僕と、一緒にいた選手が即答した。協会にお伺いを立てるとNOというに決まっているから、協会には「身障者を乗せる」と決定事項として報告した。こういう場合は「カネ」の使い方が大事なのだ。「カネ」とは「金」ではない。「か」と「ね」だ。
「○○していいでしょうか」や「やってくれますか」というと、大抵はNOの返事が返ってくるものなのだ。「○○やりますね」や「やってくださいね」だと、「う、うん」と答える。そういうものなのだ。

20人ぐらいの身障者に体験したもらっただろうか。身体が不自由なのでカポック(救命胴衣)の装着も一苦労だったのだが、一人の試乗者に選手が4人も5人もサポートしボートに乗せる様は優しさに満ちあふれていて、その光景は見ているだけでもいいものだった。

体験試乗が終わった1週間後ぐらいに協会に一通の手紙が届いた。身障者の親族からの感謝の手紙だった。「海の上で遊べるとは思ってもみなかった。みんなすごく喜んでいた。選手の皆さんの優しさに感激した。協会を始め関係者の皆様に厚くお礼申し上げます」といった文面だった。
この手紙以降、協会はマリーナ事業に一切口を挟まなくなった。
閉会後、県知事からクリスタル仕様の額縁に入れられた立派な感謝状を貰った。届けてくれた協会スタッフの話だと、博覧会に貢献した法人に贈っているという。個人宛の感謝状は僕だけと言った。
大変名誉なことだと思った。思ったが、感謝状より金をくれと、正直思った。企画運営費として契約した金額は2千万円。その全てを運営に注ぎ込み手元には1円も残らなかったからだ。
その代わり、人生で最も楽しい仕事の一つになったのだが・・・。

ああ 誰かがこの道を  




ああ 誰かがこの道を




『フレディもしくは三教街-ロシア租界にて』
今日はこの歌を掲載させていただきます。さだまさしがグレープ時代に作ったはずなので、もう40年も前の歌になります。この歌を、別府葉子さんが歌っています。

あれ、アナタ、もう画面をポチッとしちゃたんですか。で、音が流れないと・・・。
流れません。動画も動きません。お楽しみは後です。最初に歌が聴けてしまうと、冗長な僕の文章は読んでもらえないでしょ。TVのバラエティでよく使うあの手法です。「体重85kgだったAさんがなんと・・・」でという話が、「45kgになりました」と言えば1分で済むのに、それを言わずにアレコレ延々と時間稼ぎをして最後の最後にAさんが登場し、カメラが足元から上へと嘗め始め、ゲストたちが「えー!」とか「うわっ!!」と驚き、苦節1時間、耐えに耐えて待って遂に結末がと期待したところで、ハイCM、とさらに時間を稼ぐ。そう、その手法なのでございます。

えーと、誤解のないように。別府葉子さんのダイエットビデオではございません。ま、個人的には3~4kgほど落とされるといいなとは思っておりますが・・・。
だってね、4kgというと、鳥のモモ肉16枚分に相当するのです。想像してみてください。自分の身体のアチコチにへばりついている16枚の鶏モモ肉を。その16枚の鶏モモ肉に羽が生え、1枚また1枚と飛び立って行く様を。
ようこそここへクッククック私の青い鳥♪ すごいと思いません?
つい、モモ肉に力が入ってしまいました。本題に戻しましょう。

三教街のロシア租界は漢口の武漢にあった租界です。租界といえば武漢よりも上海租界が有名です。「上海帰りのリル」は母が好きな歌でした。

  夢の四馬路(スマロ)の 霧降る中で
  何もいわずに 別れた瞳
  リル リル ひとりさまよう リル
  だれかリルを 知らないか

四馬路(スマロ)は通りの名です。スマロは日本語読み。四(スゥ)馬(マ)は中国語、路は日本語読みのロでスマロ。中国語で路はルなのでスマルです。
四馬路だけでなく二馬路や三馬路もあります。四馬路(スマル)は福州へ続く路、二馬路(アルマァル)は九江、三馬路(サンマァル)は冒頭の三教街の租界があった漢口路への道なのです。上海から三馬路を西へ向かうと漢口です。四・三・二があれば当然一馬路(イマル)もあります。

では質問です。イマルは?

明石家サンマとは大竹しのぶの娘でしょ♪


別府葉子さんの歌を聴いていると、いつも思いが遠くへ馳せます。彼女の歌は心に染みるのです。喉の使い方が上手なんでしょうね。繊細な甘いビブラートがとてもよくて、まさにその部分に彼女の歌への思いが現れているように感じます。
彼女は巻二枚舌だけでなく、のどちんこも2つあるのだと思います。それは並列で、向かって右が♯系、左が♭系なのです、きっと。

遠くというのは、過去へということです。昔の自分のあれこれ。

  フランス租界へとランデブー
  あの頃私が一番好きだった
  三教街のケーキ屋を覚えてる?
  ヘイゼルウッドのおじいさんの
  なんて深くて蒼い目
  いつでもパイプをくゆらせて
  アームチェアーで新聞をひろげてた
  フレディ あなたも 年老いたらきっと
  あんなすてきな おじいさんに
  なると思ってたの 本当に思ってたの

歌詞の一部ですが、このくだりを聴いていて思い出したのが『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』でした。イブラヒムを演じたのはオマー・シャリフ。そして、オマー・シャリフといえば『アラビアのロレンス』が、というように、思いと想いが重なって転々と昔に遡行してしまうのです。

『アラビアのロレンス』は3時間半の超大作でした。ヨーロッパの田舎の街路樹の中を走るバイクが自転車を避けようとして事故を起こし主人公が死亡するという衝撃的なシーンから始まりました。(記憶に間違いがあるかも知れない)
その主人公の葬儀の時に「有名人だったそうだが誰?」といった噂話に花が咲き、「彼はかつて、アラビアのロレンスと言われていた男だった」といった流れでアラブへのシーンへと移っていったと思うのだけど・・・。

この、トイレ休憩が入る長い映画を見て、僕は主演のピーター・オトゥールよりもアラブの遊牧民族ベドウィンの族長を演じたオマー・シャリフの方が気に入ってしまいました。映画を見た時点ではまだ気づいていませんでしたが、僕の中で何かがざわついたのです。このずーと後に、モンゴルで馬やラクダに簡単に乗れてしまう自分を知り、遊牧民の末裔であることを確信し、あの時のざわつきは、僕の内なるベドウィンの血が騒いだに違いないと思ったのでした。



オマー・シャリフです。



弟のオマー・シャリフJr.です。
兄弟なので似てますでしょ。ベッドシーツを身にまといタオルを被っただけでベドウィンになれちゃうところが、僕がアラブ系遊牧民の血筋であることの証しです。25~26歳頃の写真です。
ちなみにツール・ド・フランスの取材でフランス中を選手たちを追っていたときはフランス人やドイツ人からだけでなく、コロンビアのTVクルーからもコロンビア人に間違われておりました。30過ぎの時でした。
その後、上田正樹や山本晋也を経由し渡辺謙から、現在は中尾彬なのであります。ねじり首巻きはしておりません。風貌似というよりも、嫌みっぽく説教垂れる性格が・・・。

パリ・中央アジア・チベット・モンゴル・韓国・NY・トルコ・ギリシャ。若い頃に行きたいと思っていた所です。
切実にパリに行きたいと思ったのは中学生の時でした。セーヌの河畔に寝転んで「パリの空の下」聴きたいと、今は亡き親友と語り合っておりました。それが叶わなぬなら二人で北海道へ行って牧童になろうと・・・。
いま思えば、ウオークマンも無い時代のこと。セーヌの河畔に寝転べたとして、どんな手段で「パリの空の下」を聴くつもりだったのだろう。中坊の発想は理解できん。

中央アジアは、中央アジアと聞くだけで気持ちがそわそわします。多くの文献を読み漁りました。へディンやスタインや大谷光瑞たち探検家たち。その学術探検。天山山脈・シルクロード・敦煌(とんこう)・哈密(はみ)・楼蘭(ろうらん)・タクラマカン砂漠・さ迷える湖ロブノールなどなど、脈絡もなくいろんな単語が出てきます。でも、どこへも行けておりません。シルクロードの東端のゴビ砂漠まででした。

モンゴルは行きました。世界で2番目に古い共産主義国家だったモンゴルへの入国は至難でした。戦後、単独で入国ビザを取得した最初の日本人だったと思います。モンゴル人民共和国(いわゆる外モンゴル)だけでなく中国の蒙古自治区(内モンゴル)へも行きました。

へディンだったかスタインだったか忘れましたが、天山山脈の山稜に立つ山鹿のモノクロ写真がありました。100年後、別の探検隊が同じ場所を踏破したときに、その写真と同じ場所に同じ山鹿が孤高に毅然と立つ姿を見るのです。むろん同じ山鹿ではありません。何代も何代も代を重ねた山鹿です。100年経っても、何一つ変わらない風景がそこにある、そのことに後世の探検家は感動するのです。悠久の大地といった言い方をします。まさにその光景と申せましょう。
どうです。中央アジアを旅したいと、思いますでしょ。



南ゴビでの写真です。飛行場での写真です。モンゴルの首都ウランバートルから中古のソ連製の40人乗りのツブロフで、アナログ飛行でブーンと2時間ほど南西へ飛ぶとゴビ砂漠。眼下には羊がいっぱい。
アルヒ(モンゴルのウオッカ)を飲んでご機嫌な運転手(パイロットとは言えない)が飛行場の上をぐるりと一周し、羊をどけろと手で合図をするのです。羊が除けられた草原にハイヨと着陸。どこでも飛行場なのです。その飛行場そばにゲル(円形テント:中国語でパオ)が5つ6つあって、これがホテルなのです。そのホテル側から撮ったのが上の写真です。背景の山が近いように見えますが遠いです。200kmほど彼方にあります。途中に遮るものがないので近くに見えるのです。モンゴル人はこういう環境の中で生活していますから視力が5.0や5.5なんて人がざらにいます。5kmほど先の羊の顔が識別できるほどの遠視です。

山があまりにも近くに見えるので麓まで行ってみようと歩いてみたのです。3時間歩いて断念しました。宿泊していたゲルが見えないほど遠くまで歩いたのに前方の山はまったく近づかないのです。風が吹き抜け肌寒く、足元に転がっている家畜の糞を集めてジッポで火を点け暖をとりました。遊牧民にとって家畜の糞は燃料。牛の糞は水分が多いので煙が多く異臭がしますが他の家畜の糞は無味無臭。火力も強いです。
前方の山以外には360度何もありません。ただ、そこに広大な大地があるだけ。

  目を閉じて 何も見えず 哀しくて目を開ければ
  荒野に向かう道より 他に見えるものはなし

  ああ 砕け散る宿命の星たちよ
  せめて密やかに この身を照せよ

  我は行く 蒼白き頬のままで
  我は行く さらば昴よ

  呼吸(いき)をすれば胸の中 凩(こがらし)は吠(な)き続ける
  されど我が胸は熱く 夢を追い続けるなり

  ああ さんざめく 名もない星たちよ
  せめて鮮やかに その身を終われよ

  我も行く 心の命ずるままに
  我も行く さらば昴よ

  ああ いつの日か誰かがこの道を
  ああ いつの日か誰かがこの道を

  我は行く 蒼白き頬のままで
  我は行く さらば昴よ
  我は行く さらば昴よ

家畜の糞で暖をとりながらこの歌を口ずさみました。この歌詞を谷村新司よりも理解したのは僕ではないかと思ったものでした。

3週間前には風雪とは無縁の都会にいました。碧白い頬のままで。2週間前には喧噪に溢れかえる北京にいたのです。北京のモンゴル大使館へ日参し、悲願だった招待状(ビザ)を手に入れ北京=モスクワ間の大陸横断鉄道に乗りモンゴルの首都ウランバートルに降り立ったのが1週間前。
そして今、呼吸をすれば胸の中に凩が吠き続け、されど我が胸は熱く夢を追い続けるまっただ中。

この歌詞の秀逸なところは、「我は行く蒼白き頬のままで」と歌い、「我も行く心の命ずるままに」と歌っているところにあります。

我は行くのです。自分にとって初めてのこの道を。そして我も行くのです。かつて誰かが通ったであろうこの道を。「は」と「も」でかくも意味が違う。

だから、「ああ いつの日か誰かが(通った)この道を」僕は歩き、「ああ いつの日か僕が通ったこの道を誰かが辿る」と未来を見る。同じフレーズを重ねることで、過去・現在・未来が表現されているのです。
広大な荒野に立てば、そのことが分かります。
遮るものがない砂漠や荒野のまっただ中だと時間が見えます。いま自分は夜が明け始めた大地に立っています。遠い北の空そ見ると未だ漆黒の闇。目を南に転じると、遙か南の空は明々と明るいのです。漆黒の闇の北はまだ夜中、明るい南は夜が明けきった8時か9時。ね、時間が見えているでしょう。この感覚も、広大な大地に立ってみないと知ることはできません。


僕は「さんざめく 名も無き星たち」があることを知っています。360度遮るものがないゴビの大地に寝転び蒼天を眺めると、あっちの地平線からこっちの地平線まで星だらけなのです。幾千万の星が鮮やかにぎっしりと見えます。まさに、星の数ほど星があるとはこのこと。大地に寝そべってそんな星空を眺めていると、まるで宇宙の中を旅しているような錯覚に襲われます。


荒野を目指した青年も老いました。かつて歩いたパリやNYの五番街や北京。ゴビ砂漠からシルクロードの西の果てに想いを馳せ、イスタンブールのボスポラス海峡の向こうに広がるアジアとシルクロードに想いを馳せたのも遠い昔の思い出です。

別府葉子さんの「フレディもしくは三教街-ロシア租界にて」を聴いていると、そんな想いと思いの重なりが沸々と蘇ってくるのです。

おまたせしました。お聴きください。





霧に想う  




霧に想う




すごい霧だった。港の写真を撮っているわずかな間にも頭がしっとり濡れてくるほどの濃い霧だった。そのおかげで港はいつもと違う光景でとても幻想的だった。

遠い遠い昔のこと。カナダのバンクーバーに住む友人宅に居候していた時に、友人たちと連れだって松茸狩りに行ったことがある。一泊して帰ろうということになり宿を探しながら山道を走っていたらやがて道が終わってしまい漁港に辿り着いた。
遠い昔のことと土地勘のない旅先のことだったので記憶は確かではないのだが、ビクトリア湾の奥部の入り江の中の漁港だったと思う。舫われていた漁船は30隻程度だったので、今思えばかなり小さな漁港だった。

その漁港に一軒だけ居酒屋があり、その2階が宿になっていて僕たちは部屋を取った。居酒屋には玉突き台があった。ビリヤード、ジュークボックス、ピンボールゲーム機、壁にはテレビという、アメリカ映画などでよく見かけるバーと同じ感じの店だった。アメリカと違うのは、テレビで放映されていたのがアメフトではなくアイスホッケーだったことだ。
玉突き台のそばのカウンターで酒を飲んでいたら漁師から「やらね?」と誘われて、「カミカゼハスラーだからやめておいた方がいい」とジョークで返したら大笑いされ、僕たちは酒を奢られ夜遅くまで漁師たちと一緒に飲んで遊んだ。

明け方、冷え冷えとするハーバーに出てみると、静かな入り江の深い靄の中を一隻、また一隻と漁船が漁に出て行くのが見えた。とても幻想的な光景で、ここで漁師になりたい。ここで一生を終えたいと思ったのだった。

僕はすぐにその地に居着いてしまいたくなる性格のようで、この4年後ぐらいにモンゴルに行ったときもそうだった。
お世話になっていた遊牧民は馬ではなくラクダの遊牧をしていた。副業でというか政府からの依頼で共産圏(モンゴルは世界で2番目に古い共産国だった)からの観光客にラクダを乗せて遊ばせていて僕もその手伝いをしたことがあった。
ラクダは背が高いので座らせないと乗ることができない。座らせるのが難しいのである。細い鞭とチチチと独特の合図で座らせるのだが、そのコツを一度教えてもらっただけで僕は会得してしまったのである。
「お前は立派なテメーチン(テメーはラクダ、チンは人:ラクダ飼いのこと)になれる。娘の婿になれ」と言われた時に、この360度地平線が広がる大地に住もう、満天の星を眺めながら一生を終えようと真剣に思ったのである。
それを断念し、今こうして日本の西三河に住んでいるのは、僕の好みから娘さんがあまりにも離れ過ぎていたからだった。
今は分かります。美人の妻と結婚した今は分かります。容姿じゃなくて性格の方が大事だということが・・・。

舗装もされていない地道のドンツキの漁港の小さな町。その場所の名は、ウソではなくエンド(end)でした。そのままの地名でした。
今も時々思い出すのです。その時の居酒屋の一夜の喧噪と翌朝の静寂の中の漁港を。

その時の記憶とオーバーラップするような曲を載せておきましょう。
別府葉子さんのアムステルダム(Amsterdam)です。

アムステルダム港の漁師と居酒屋の歌です。開店すぐの飲み屋は静かで寂しいもの。やがて客が立て込んできて喧噪に包まれていきます。その様子を見事に弾き語っています。

加藤登紀子の「時代おくの酒場」も好きですが、別府葉子さんの「アムステルダム」も好きなのです。ちょっと残念なのは、時代おくれの酒場は歌えても、フランス語のアムステルダムは歌えないこと。なによりも彼女の、二枚舌のような巻き舌はとても真似ることができません。彼女の前世はきっと、カメレオンだったのです。





すまし顔  




すまし顔




「赤提灯」が4畳半フォークだとすれば、「気まぐれ」はワンルームマンションフォークといえようか。フォークという言い方が妥当でないというならJ-POPでもよい。僕はフォークの括りやJ-POPの概念、歌謡曲とJ-POPの違いが分からない。上の2曲は共に自作自演なので、僕の分類箱ではUE歌謡曲系同棲歌の引き出しに入っている。(UEは歌って演じるの略)

音楽通たちのお仲間談義では歌謡曲とポップスは違うとかポップスとJ-POPは違うと定義付けに躍起のようなのだが、定義なんてどうだっていいじゃんという感じだ。JA・JT・JR・Jリーグ・Jビーフ、J沢庵・Jラーメン、何でもJを付ければいいってもんじゃないだろう。ただし、J-POPはジュニアのJ、ガキの歌だと決め付ける団塊世代の評論家たちの言い分には賛同しない。だって、赤ちょうちんだって当時のガキの歌なんだから・・・。

「赤ちょうちん」は昭和49年頃(1974)の世相を映した同棲歌である。「気まぐれ」は平成15年(2003)なのでまさに現在の同棲歌。33年経って、4畳半からワンルームマンションに棲家が変わった。

40年前の住宅事情を知らない人のために少し説明しておこう。あの時代のアパートは木造モルタル二階建てで廊下は土足厳禁。部屋の広さは4畳半か6畳一間。広い部屋の方が人気がありそうに思えるが4畳半の方がニーズが高かった。道具を持たない若者に6畳は広過ぎたのだ。部屋にタイル貼りの小さな流しがあれば上等な部類に入り、窓の外に川が流れ、近くに銭湯があるアパートがトレンディーだったのはいうまでもない。トイレと炊事場は共同というアパートが多かった。内風呂などない。

  愛することに 疲れたみたい
  嫌いになった わけじゃない
  部屋の明かりは つけて行くわ
  鍵はいつもの 下駄箱の中   (松山千春「恋」1980年)

靴を脱いで上がるアパートだから下駄箱があり、スペアキーが簡単に作れる時代ではなかったので下駄箱の中に鍵を置いたりしたのである。

そういうアパートだったから、部屋の中では小さな電気コンロで湯を沸かすぐらいしかできなかったし、共同の炊事場があっても調理器具を持たないから小鍋でインスタントラーメンを作るぐらいだったのである。赤ちょうちんの屋台でおでんを食べたり持ち帰り電気コタツのテーブルを囲んで食べたのも、そうした道具に恵まれない貧しい環境だったからだ。
そういう事情は今のアジアの下町の屋台の繁盛振りにも見て取れる。狭い住宅に大所帯だったり自炊がままならないという住宅事情が背景にある。外食産業が繁盛する日本と外食が盛んなアジアの町々、同じ外食でも似て非なるものだといえよう。
“雨が降ると仕事もせずに”ということは、彼の仕事は土木や運送の肉体労働系だったのだろう。そして正社員ではなくバイトだった。彼はフリーターでもなければプータローでもなく自由業と名乗った。自己を納得させるために駄文を書いては捨てていたからである。世間の目に耐える文章ではなかったので文筆業とは自称できず、自由業なので雨が降るとアパートの管理人室の前の公衆電話で「ちょっと熱がありまして・・・」と連絡を入れサボる特権を持っていた。

こういう風に書くととても怠惰な人間のように思えるが、反戦運動その他で騒然としていた社会が終焉に向かったことで、彼は行動の方向性を見失ない身動きがとれなくなってしまったのだ。目端の利く連中はさっさと髪を切ったり髭を剃ったりし、イチゴ白書をもう一度を口ずさみながら就職活動に出かけて行くが、学業を中途で放棄したヤツやすでに自由業の道を歩み始めた半社会人は、不可避的に冬眠に入らざるを得なかったのである。

けれども、歳を重ねるにつれて不自由になっていくのが自由業という生き方なのだ。山ほどあったバイトが歳を重ねるごとに減って行くのである。25歳を超えてなおバイトだったりすると仕事が減るだけでなく世間体も悪くなっていく。28歳の自由業者が22歳ぐらいの正社員に顎でこき使われるから、ついついぶん殴って泣かせてしまう。あるいはそいつの彼女を横取りする。なんてたって20年先の人生が見える正社員より、先の見えない自由業の方が女にはもてるのだ。いずれにせよ自由業は組織の下では適応しようにもできない。この世代に起業家が多いのはそういう事情による。

自由業というのは社会的信用が無いから加齢とともに実生活でも不自由になって行く。例えば14インチのカラーテレビを買おうとしてもカードも無ければローンも無い時代なので買えない。分割払いで買いたくてもまともな会社員でなければ分割払いは不可だったのだ。唯一、丸専手形という個人専用の手形を銀行に振り出してもらい購入する方法があったが、口座が必要だし保証人も必要。自由業の保証人は同業の自由業と相場が決まっていたので、自由業の保証人を何人連ねても信用の担保にならなかったのだった。
そんな現状だから貯金も無いその日暮らしの自由業はテレビもクーラーも買えない。その代わり今のように借金地獄に落ちることもなかった。
余談になるが、銀行の普通預金の金利が6%や7%という、今では信じられないような時代でもあったのだ。

自由業は食うことに不自由したのでキャベツを齧ることも多かったのだが、加齢とともにキャベツばかりを齧っているわけにはいかなくなる。同棲している女にしても、同棲というトレンドの先端を走ってはいても巣作り本能が無くなったわけではないから、キャベツばかりを齧っている彼を見てほほえましいと笑っていられなくなるのである。いつの時代も、男より女の方が目覚めが良くて夢から醒めるのが早いものなのだ。

わき見やよそ見をする道具や遊びが少なかった時代なので、否応なしに互いを見つめ合うことになる。女にとっては彼はたった一つの拠りどころだったわけで、いくら目覚めの早い女でも“生きてることは ただそれだけで 悲しいこと”と知り、公衆電話の箱の中でさめざめと泣くのである。平成の、金髪に汚ギャル化粧でパチンコ屋のワゴンサービス嬢をしている女も秋になると店のネオンを見てセンチになり涙を流す。あれと同じだ。

女はもう一つ、涙とともに過去を流せる特技を持つから、涙の翌日から速攻で新生活に踏み出せるのである。だから公衆電話の箱の中で泣いた女は「明日私は 旅にでます あなたの知らない人と二人で いつかあなたと行くはずだった 春まだ浅い信濃路へ~♪」と旅立って行ったり、ネオンサインに涙したワゴン嬢は「ゥチだけどさぁ、明日さぁ、六本木へナンパされにイカね?」と携帯ピョコピョコなのだ。

男は寝つきも悪ければ目覚めも悪いからこうはいかない。ぐじぐじと2~3年は赤ちょうちんに通うのである。

  今でもときどき雨の夜 赤ちょうちんも濡れている
  屋台にあなたが いるような気がします

男が作った歌の台詞だから、別れた女はきっとこんな感じで俺のことを懐かしんでいるはずと思っているのである。そして、俺がいるような気がして戻ってくるのではないかと妄想するのである。ところがどっこいうんとこしょ、女はおでんを買ったことどころか、屋台があったことすら忘れ去っているものなのである。
男は過去を重ね塗りするので4畳半襖の下張りには何層もドラマを潜ませているが、女は不要ファイルを削除するだけでは飽き足らず、リカバリーソフトを実行し初期化して次の人生を始める。だから女のハードディスクのどこをどう探しても古いファイルの断片すら残っていないものなのである。

  ちょうどこの寺の山門前で
  きみは突然に泣き出して
  お願いここだけは 止してあなたとの
  糸がもし切れたなら 生きてゆけない (縁切寺 さだまさし)

と言ったくせに、誰の子か知らないが背中に一人おぶり、自転車の前後にさらに二人の子供を乗せ町中を疾走するアイツを見るたびにむかっ腹が立つのである。充分に生きとるやないか!と・・・。

さて、「気まぐれ」はどうなのか。
完成度の高い歌詞である。シロップ漬けで大人になった虚無感と社会への倦怠感がよく出ている。覇気の無さでは天下一品の歌詞ではないか。このままもうすこしぬるま湯の滓の流れの中を流れてくれれば革命だ!と叫ぶようになる、そういう歌詞である。
熟し過ぎて退屈な時代になって40年。そろそろシロップ漬けに飽きる頃なのだ。限界が近づいているな、そう感じさせる歌である。

歌に出てくる彼はニートである。親の脛は齧ってもキャベツを齧ることはない。部屋には小さな電気冷蔵庫があって、コンビニで買い込んだ飲み物や食い物が適当に入っているので飢えることもない。色んなものが麻痺していて、その中に食欲も含まれ、赤ちょうちんの時のような食べ物に対する喜びや嬉しさ、財布が軽くなった不安も無いのである。
  
あとちょっとだけ わがままを
言える事ぐらい 知っているから

ニートはバカではないから、もう少しぐらいは親の脛を齧るわがままが利くことを知っている。世間と面と向かってコミットしなくてすむという甘い環境を享受する一方でこのままでは終われないという前向きな憂鬱も内包させているのだ。諦めていないのだ。

  この世界の憂鬱に
  垂れ流したヒクツに
  いつか捨てた勇気に
  ぼくらが愛した歌に
  同じ朝が来る・・・

そう、だから朝がくると締めくくっているのだ。

「赤ちょうちん」よりも優れてメッセージ性が高い歌であると、「気まぐれ」を聴いていてそう思う。




  




お・と・し・ご・ろ




友人のブログに掲載された写真を見ていて、その中にロバート・キャパの写真を思い出させるような一枚があった。
キャパが出てくると、日本のカメラマンなら誰だろうかなどと、いつもの連想が始まる。そいう連想をさせてくれるブログはいいなと思う。

報道カメラマンとなると、澤田教一や岡村昭彦、石川文洋といった名が出てくるだろうが、僕の場合は秋元啓一だ。それは開高健を通じてということなのである。
開高健の作品が好きで、その作品のほとんどを読んでいるつもりなのだが、彼がベトナム戦争時に報道特派員として米軍に従軍し戦地を駆け巡った時に同行したカメラマンが秋元啓一だった。


マジェスティックホテル(サイゴン)


彼らは取材のために米軍と共に移動中、Dゾーンという所で、200人の部隊のうち17人しか生還できなかったという猛烈な攻撃を受ける。二人は奇跡的にその生き残りの17人の中にいたのである。また、サイゴンでのジャーナリストたちの常宿だったマジェスティホテルの自分たちの部屋の隣に砲弾が打ち込まれるなど、二人は何度も死地を潜り抜けて生き延びてきたのだった。


(左)開高健 (右)秋元啓一

生還を果たしたときに互いに1枚づつ写真を撮り合う


日本へ帰国した二人は年に一度、山ほどの酒をホテルの一室に持ち込んで朝まで浴びるように飲んだという。それは秋元が死ぬ1979年まで欠かすことなく続けられた。その開高健が亡くなるのは10年後の1989年。59歳の若さだった。

1989年頃の僕はというと、大阪の守口市にある公団住宅に住んでいた。彼が亡くなったその日(確か12月だったと思うが何日だったかは覚えていない)は月曜日だったと思う。というのも週末にハーバーで足首を捻挫して当時付き合っていた彼女の運転で病院へ行き、今まさに団地の駐車場に入ろうとした時に、カーラジオのニュースで訃報を聞いたからである。開高健の訃報は、母親、無二の親友の死に次ぐ、僕には大きな衝撃だった。

彼の死後1ヵ月後ぐらいだったか、開高健を偲ぶ3時間の特集番組がテレビ放映される。スポンサーはサントリー。開高健はかつて洋酒の壽屋(後のサントリー)広報部に席を置いていて、「・・人間らしくやりたいナ」や「何も足さない何も引かない」などのキャッチコピーを生み出した。サントリーの佐治敬三会長とはその時からの付き合いで、彼が作家になった後も公私両面で長くて深い親交があったのだった。
3時間の特集番組は、放映中、唯の一度もCM が流されることが無かった。CMを流させなかった佐治に、彼の、開高健に先立たれた深い悲しみ、彼に対する最大級の敬意を感じてならなかった。
その佐治敬三氏は、奇縁というか、やはり10年後の1999年に彼岸の人となるのである。

佐治敬三という人は、財界人というよりは洒脱な趣味人で、豊かな感性と教養と舌を持っていた。二人の大阪弁での対談などを読んでいると、語られる内容のレベルの高さに驚くだけでなく、いたるところに上質な笑いが散りばめられていてシンフォニーであったりハーモニーであったりと、読者を魅了するのである。そんな関係であったからこそ、CMを一切流さない3時間の特番を、佐治敬三は最後の語らいとしたのだと思う。

明日でまた一つ歳を重ねる。すでに母の歳も開高健の歳も超えた。この記録の更新が喜ばしいことなのかそうでないのかは、来年一年にかかっているといえようか。

僕はもう一つ、記録の更新を止めたい案件を抱えている。
それは、年末ジャンボだ。
ちっとも当たらんぞ。
記録は破られるためにあるのではなかったか。

毎年必ず誰かが当たっているのに、どうしてその誰かの仲間入りができないのか。それがとても不思議なのである。

ことし1年のお付き合い。ありがとうございました。
もし年が明けて4日になってもブログが更新されていなければ、ジャンボ当たったと思ってください。皆さんとすっぱり縁を切らせていただいて、新天地へ羽ばたこうとおもいます。
ええ、むろん、餅を喉に詰めて彼岸へ飛び立った可能性もございます。
そんな、「お・と・し・ご・ろ」でもありますからね。

来年もよろしくお付き合いください。

よいお年を。


やきにく  




鉄板焼きのブルース


若手芸人の中で割とお気に入りなのは犬井ヒロシだった。彼の関西弁は若者系大阪弁の雰囲気があって懐かしく心地良かった。今はサバンナの高橋で出ていて、にやついた笑顔で誰彼なしに媚びを売るスタイルだが嫌みが無く好きだ。
犬井ヒロシの時代は「自由だぁ!」と歌ったが、「・・・ is freedom」も古風でいいと思ったものだ。

もしあなたが自由という言葉を使う時、libertyと freedom のどちらを使うだろうか。
僕たちの世代の若い頃は“自由”の定義や理想郷を求めて試行錯誤したものなのだ。自由を求めて機動隊と対峙したのも、今では汚らしいとしか思えないヒッピースタイルぼ一人だったのその一つだ。
犬井ヒロシの歌うブルースは、その歌詞の軽いアイロニーという点でいうと、40年前の街頭フォークが原型なのである。
そうなのだ。僕たちはもう少し塩胡椒をきかせて受験生のブルースや栄ちゃんのバラードや友よや風に吹かれてや山谷ブルースや、その他色々と自由を探す歌を歌ったのだった。

様々な規範や制約の中でどう自由に生きて行くか、どこまで自由でいられるかは、個、パーソナルの永遠の課題だと思う。特に“個”は若者にとっては不可避的な重要課題だと思うのだが、今の若者はは個人主義のスケールが小さすぎると感じてならない。
個もやがて対(つい)になり家族となる。個の自由と対の自由と家族の自由と世間とのギャップのなかで世渡りして行かなければならなくなる。そんな中を、上手に、ストレスを最小に抑えて舵取りをして行くには思想や哲学が必要になる。

その、思想や哲学を関東風に沈思黙考すると重たくていけないわけで、アリストテレスもソクラテスもニーチェもヘーゲルもサルトルも夏目漱石も三島由紀夫も開高健も末席のタカノツメも、みんな意外に軽い性格なのである。つまりは日常の軽さの中に思想や哲学があるわけで、だからこそ、おでんを竹輪から食べるかコンニャクから食べるかは、自由だぁ!とブルースされると、笑いの深淵に思想と哲学を見てしまうのである。
だってそうでしょう。竹輪にかぶりつく彼女に下品な卑猥さを感じるか好ましく思うかは自由だし、箸を滑らせて隣の女性の膝まで転がったコンニャクを契機に話を弾ませて結婚まで行き着くか、謝罪しただけで終えるかも自由なのである。つまりそこには、思想と哲学を合混ぜにしたファジー理論が存在するのである。

コンニャク is freedom 、、、だ!

じゃあ何がブルースの歌心かというと、「竹輪の穴から向うを見ても等倍なのでちょっとブルースだな」といったココロのことである。

若かった頃のこと。喫茶店で駄弁っていたとき、友人のHが「喫茶店で話すのは悪くないが時間の制約があっていかん。24時間自由に出入りできるサロンが欲しい」と言ったことがあって、その要望に応えるべく、当時東大阪の司馬遼太郎氏の近くの文化住宅に住んでいた僕は、大阪の阿倍野橋駅すぐ近くのアパートの2kの部屋に引っ越したのである。そしてそこを24時間開放したサロンとした。24時間開放なので常時住人の僕が居ては鬱陶しいだろうと思い2日に1度しか帰宅しないタクシー運転手に転職した。今振り返れば無茶苦茶な行動だったが、若さとはそういうものだと思う。

阿倍野にあったKというアパートは今はない。とっくに地上げされて大型テナントビルに変わっている。
そのアパートは木造モルタル2階建てトイレ共同。風呂はなかった。廊下を挟んで向かい合わせに部屋が並び、その部屋数が70室という大型アパートだった。
東京住まいの文学者の高橋某氏が朝日ジャーナルの取材で部屋を訪れたときに、「これが有名な大阪の文化住宅ですか」と言ったことがある。
「いや、これはだたのアパートで、文化住宅は主に寝屋川の方に密集して生えています。というのはですね、あっち(寝屋川)方面は大阪市内から鬼門の方角でしかも湿地なので普通の人は住まず、主に商売に失敗したり曰く因縁のある連中が逃げて行く先で、そうした事情から消防車の入れない文化住宅のメッカになったのです。なんなら案内しましょうか」と申し上げたら、「うーん。学術的にはものすごく面白そうだけれども、今回の取材と目的が違うし今夜の最終のコダマで帰らないといけないのです」と、当時まだ大学の准教授だった彼は言ったのだった。

このアパートは1フロア35室もあるのにとても静かで、毎日夜通し人の出入りのある僕たちの部屋に誰一人文句をつけてくる住人はいなかった。他の住人との付き合いが無かったので確かなことはいえないが、チンピラやくざや場末の飲み屋の姉ちゃん、飲食店の従業員、日雇いアンコたちが住んでいたと思う。
そんな中に1階にCという似顔絵描きが住んでいて、この男とはよく互いの部屋を出入りした。無精ひげを生やしハンチングを被ったいかにも画家でっせという格好で、あまりにも胡散臭いところがちょっとブルースで、風呂嫌いな彼は汗臭い体臭を振りまきながら駅前の歩道で似顔絵を描いて生計を立てていた。

Cがイーゼルを立てていた場所から西へ坂道を少し下ったところのカウンターだけの小さな喫茶店でバイトをしていたのが後に憂歌団を結成する木村秀勝と内田貫太郎。まだ19 歳ぐらいでブルースギターを弾き始めた頃だった。憂歌とはブルースのことだ。喫茶店の仕事の合間に、洋酒のボトルネックにタコ糸を巻きコンロで焼いて切り演奏用のスライドバーを作ったりしていた。まだスライドバーなど市販されていない時代のことだ。

この時代の大阪はブルースの街で、上田正樹がその筆頭だったのだ。木村や内田の腕はまだ今一だったが鼻っ柱が強くて喧嘩早く、毎日のように誰彼無しに喧嘩を吹っかけていた。今は穏やかな雰囲気で歌や演奏をしているがあれは仮面。内なるしぶとさを持つ。サバンナの高橋も同じだと思っている。

と、まあ、ブルースつながりの話が出てきたが、ある日のこと、タクシーで街を流していた営業途中に部屋に立ち寄ってみると18、19才ぐらいの外人がいた。そばに居たやつに誰?と尋ねると、大阪駅前の陸橋にもたれて所在無さげにしているから連れて来たという。
半分ヒッピーのようなアメリカ人のそいつはギターケースを持っていたので、何か弾いてくれと言うと、オーソドックスなカントリーソングというかフォークというか、そんな曲をボブディラン風に弾き語ったのである。歌詞ははっきりとは覚えていないのだが、「俺たちは放浪者 一緒にさまよい 一緒に眠った ある日誰かが死んじゃった・・」みたいな歌詞で、妙に心に沁みたのだった。(※後に歌がRamblin' Boy だと知る)

せっかくだからメシを食わせてやることにし「やはり定番のスキヤキか」ということになったのだが、肝心のすき焼き鍋がない。鉄板なら用意できると僕が言ったことから焼肉をふるまうことになった。皆で金を出し合おうという段になって分かったのだが、誰も金を持っていない。
「タカさん、タクシーの売り上げがあるでしょ」と言うから、「あほ、業務上横領やないか」といいつつも、今夜の客のチップを期待して千円だけ出したのである。むろん千円では豪華焼肉パーティーは出来ない。居合わせたMが「パチンコで増やす。俺に任せろ」と、その千円を持って出かけたのである。この時代のパチンコはデジタルではなくアナログの羽物だから腕がモノをいう。なんとMは8千円に増やして凱旋してきたのだった。こういうのを火事場のクソ力と言うのではないか・・・違うな。

部屋の真ん中に台所からコンロを引っ張ってきて僕が用意した鉄板を乗せ焼肉パーティーが始まった。僕はその光景を優しい眼差しで眺めていた。誰かが「タカさん、どうして食べないんですか。美味いですよ♪」と声をかけてくれたが、「いまちょっと歯の調子が悪いから」と手をつけなかった。
「それにしてもこの鉄板、微妙に溝があって、脂がそこに落ちて肉がさっぱりと上手に焼けるなぁ♪」と、みんな感心しきり。

そう、その鉄板がミソなのである。いやクソというべきか。その鉄板はアパートのトイレの汲み取り口の蓋だったのである。それを外して、タワシでクソのカケラも残さないように可能な限り丁寧に洗ったものなのだ。しかもコンロで熱消毒されているから何の問題も無い。だから、焼肉に箸を出すか出さないかは、

・・・自由だぁ!♪

なんやけどぉ、
ココロではわかっているのに、身体が言うことをきけへんねん。
ヤケクソのブルースやねん。
焼肉 is freedom 焼肉 is freedom ♪

でもぉ、安モンの肉を焼く時は、汲み取り口の鉄板よりも、下水道の格子の蓋の方が美味しく焼けてええで!♪




Ramblin' Boy

作詞・作曲 Tom Paxton

あいつは 男 一緒に 苦しみ
一緒に さまよった 雨の日も 風の日も
今祈る 流れ者 この旅に幸あれと
今祈る 一人旅 あいつに幸あれと

見知らぬ 町に来て 一つ仕事を 分け合って
一つ 部屋で 一つの茶碗で 食べ合った
今祈る 流れ者 この旅に幸あれと
今祈る 一人旅 あいつに幸あれと

夜更けの 寂しい小屋で 雨に打たれた あいつは
熱に うなされ 震えながら あの世へ行った
今祈る 流れ者 この旅に幸あれと
今祈る 一人旅 あいつに幸あれと

一人 残され この世の 旅の終わりに
あいつに 会ったら あの世で二人 また旅にでよう
今祈る 流れ者 この旅に幸あれと
今祈る 一人旅 あいつに幸あれと



あと幾つ詰めると・・・  




あと幾つ詰めると・・・


僕はサラリーマンに向いていない。だから長い間フリーターをやった後に自主独立路線を走ったのだが、サラリーマン志望が最初から無かったわけではない。最初は大いにあったのだ。大企業に勤めることを夢見たものだ。けれども、何度入社試験を受けても一度も受からなかったのである。

不採用の回数を重ねることで、やがてその原因が分かったのである。戸籍だった。僕の戸籍は父親欄が空白なのである。つまり私生児。母はいまでいうところのシングルマザーだったわけだが時代を先取りし過ぎたのだ。
父親欄が死亡のバツ印なら問題はないのだが、空白というのがダメなのである。僕の母は戸籍にマリアと記されていないので自然懐妊ではないと断言できる。したがって僕は、他所の子供と同じように男と女が手順通りの共同作業を踏んだ上で生まれたのである。けれども父親欄が空白だったのが良くなかった。父親不明の子供を産む女だからだらしない。そんな女の庶子(父親が認知した私生児)としてさえ認知されない子供だから碌な人間じゃないという図式である。ま、母も僕も当てはまるとえば当てはまるが・・・。

一流と言われている企業は、父親不明という、それだけの理由で門戸を閉ざしたのである。その体質は今も大して変わっていないので、シングルマザーを目指す人は僕のような根性のある子供を産む自信がなければやめた方がいいと忠告しておく。

一般の企業がダメでも報道関係なら差別がないから大丈夫だろうとメジャーな通信社を受けたこともある。ところがこれも不採用だった。その通信社には小学生の時からの親しい友人が勤めていたので、何年か後の同窓会の席でそのことを言うと「俺に言ってくれたら推薦したのに」と言ったから「お前んとこは実力よりもコネ優先か!」と罵倒してやったら、以降の交友関係が途絶えてしまい復活したのは20年後の同窓会だったということもあった。

何度もの面接の末、ようやく某市の医師会の事務職を得たのだが、あまりにも仕事が退屈すぎて、これから40年間も欠伸をかみ殺して生きて行くなんてとても出来ないと思い半年で退職した。そんなあれやこれやに懲りてフリーターの道を選んだのである。

そういう経緯があってのフリーターなので、僕は根性のあるフリーターだった。例えば、日給6千円以下のバイトはやらないというのもその一つだった。当時のバイトの日給は3800円ぐらいが相場で良くて4800円ぐらい。そんな中で、6千円以下のバイトは行かないというのは結構大変だったのである。10年近くフリーターだったので、ずいぶん色んなバイトを経験してきた。そんな数あるバイトの中で、イチオシ(?)の、最も空しいと感じたバイトのことを書いておこう。

6千円以上のバイトはあまり多くないので、おでんを沢山買うのを控え、雨が降るとキャベツばかりを齧り、小さな石鹸がカタコト言わなくなるまで使っても金に窮する。

そんな、とうとう金が尽きた時にアルバイトニュースに載っていた日払いのバイトに行ったのだった。それはガラス工場の仕事で、夜8時から翌朝8時までの徹夜の仕事で8千円というもの。アゴアシ(食事・交通費)代は支給されない。

仕事はガラス食器の箱詰め作業だった。持場の10mほど向こうに大きな機械があって、その機械には幅が1,5mほどもあるベルトコンベアーが付いていて、その上を灰皿がゆっくりとこちらに向かって流れて来るのだ。それを待ち受けていて段ボール箱に詰めていくのである。誰でもできる超単純作業。機械の口から延々と出てくる灰皿をひたすら箱に詰め続けるだけである。2時間に一度の5分のトイレ休憩と夜中の3時に15分の夜食(自腹)休憩がある以外はひたすら箱詰めなのだ。いったい一晩で何万個詰めるのか。機械は一台ではなくて何台もあって、そっちでは形の違う灰皿が流れていて、僕と同じようなバイトが黙々と灰皿を詰めていた。

深夜の単純作業は辛い。30秒毎に壁の時計を見ているせいか時間が少しも進まないのだ。それに、灰皿が流れてくる速度がいやらしいのだ。早くもなく遅くもない速度なのに1分も手を抜くと灰皿がコンベアーがら落ちてしまう速度なのである。手抜きできるのはせいぜい40秒ぐらいで、その40秒は、灰皿で一杯になった箱にガムテープで封をして横の台車に積み上げるのに必要な時間と同じなのである。
深夜の黙々とした灰皿梱包。人生の絶望の縁を回っているような作業だった。

そういう作業だったので、ひたすら灰皿を箱に詰めながら僕は考えた。これはきっと金持ちが道楽で工場をやっているのだと・・・。
僕が灰皿を箱に詰める。詰められた箱が隣の工場へ運ばれる。そこではひたすら箱から灰皿を出すヤツがいるのだ。その灰皿をひたすら運ぶヤツがいて、運ばれた先には釜があって、その釜の中にひたすら灰皿を放り込むヤツがいるのである。そして溶け、機械で成型され、再び灰皿になって僕の前に現れるのである。そのエンドレスの光景を趣味の悪い経営者がどこかの部屋でモニターを眺めながらニヤニヤ笑って見ているに違いないと・・・そんな妄想を抱いたのだった。

僕はこのとき、妄想以外に真理も発見している。アインシュタインの相対性理論を片手に宇宙へ飛び立たなくても、阪神電車に乗ってガラス工場へ行くだけで時間は伸び縮みすることが体験できることを知ったのである。名づけて“タカノツメの早退したい理論”である。
時間は、全人類が同じ長さを刻むのではなく各自各様の伸び縮みをするのだ。だから灰皿を箱詰めしている時は時間の経過は遅いが、恋人と会っているときの時間は早く過ぎるのである。誰もがそんな自分時計を持っているのだが、各自勝手に時間を伸び縮みさせては社会が成り立っていかないから時計やカレンダーが有るのだ。この考えの方が正しいのである。
とにかく、今思い出しても身もだえして頭を掻きむしりたくなるほど、永遠に朝が来ないと思うような仕事だった。そんな途方も無く耐え忍んだ末にようやく8千円の現金を手にしたのだった。

長い長い仕事を終え、梅田(大阪)に出て地下街の喫茶店でモーニングセットを注文し一息ついたのだった。しばらく喫茶店で休息して書店が開くのを待ち、何冊かの本を買ってアパートに帰ったのだが、アパートがある最寄り駅の近くのスーパーで少しばかりの食材を買い、部屋で待つ彼女に安物のケーキの一つも買うと、手元に千数百円しか残らなかった。あっというまに消えたバイト料を見て、このバイトだけは2度と行かない。2度としたくないと痛切に思ったものである。

日当8千円、日払いという条件に飛びついてしまったが、冷静になって計算するといかに空しいバイトであったかがよく分かる。仮に3分で100個の灰皿を詰めるとすると12時間で2万4千個。1個の作業賃が30銭である。まるで出張内職ではないか。交通費や夜食代を引けばさらに工賃は下がるわけで、こんなバカなバイトは一人前の若者がやる仕事ではない。

と、偉そうなことを書いたが、二度と行くのは嫌だと思いながら、背に腹が代えられなくて、情けないことに、もう一度だけ行ったのだった。
“貧すると鈍する”とはこのことで、清貧に生きるのは難しいのである。

でも、3度は行かなかったぜ。


ご飯に砂糖を・・・  




ご飯に砂糖をかけて食べたいと思ったことがありますか


京都では面白いバイトを幾つも経験しました。哀愁のカサブランカもそんな一つでした。
昔の京都は路面電車が走っていて、夜中にその市電の線路に挟まったゴミや石などを取り除くバイトなどもありました。日給が幾らだったのかは思い出せませんが、どんなところにも仕事があるもんだと思ったものでした。
同じ短時間でも阪急電車の保線のバイトはキツかったです。線路を繋ぐ金具の付け替え作業で、金の延べ棒のような金具の1本の重さが4~5kgもありました。これを一輪車に積んだり肩に乗せて運ぶのです。終電後から始発までの5時間程度のバイトなのですが中身が濃くてハードでした。バイト料は8千円でした。



一時期、ここに住んでいたのです。東山丸太町を西に少し行ったところにあります。
ここにいるとバイトが豊富なのです。食堂に募集が張られるし寮生の誰彼かがバイトを持ち込んでくるのです。
この寮には寮生と寮外生というのが住んでいて僕は寮外生でした。寮費は1ヶ月500円だったと思います。現在は4100円です。4人部屋も6人部屋も同じ料金でした。寮外生の寮費は無料でした。なぜ無料なのかは分かりませんが、おそらく学生課に正式に登録して寮に住んでいるわけではないので実態が掴めていなかったのでしょう。当時は学校側よりも学生自治の方が強かったので学校側も不介入ということが多かったのです。

だから管理人も黙殺していて、電話(当時は呼び出し)がかかると「寮外生のタカさん!電話でーす!」と堂々とスピーカーで呼び出してくれました。大らかな時代でした。だったらみんな寮外生になれば寮費が不要と思うでしょうが、寮生には特権があったのです。それは寮食。夕食のみで1食50円でした。(現在は朝170円、昼260円、夕390円の3食)値段が値段なので貧弱な寮食でしたが貧乏学生には有難いものでした。この寮食の食券は寮生でないと買えなかったのです。
上の、「寮外生のタカさん電話!」に出てみると同室の某君だったりして、「今日はバイト先で食事が出るので僕の寮食を食べていいよ」なんてことだったりすると、一食浮いたと小躍りしたものでした。

熊野寮での僕の一番のお気に入りのバイトは清掃車の作業員でした。現在の清掃車は後部に回転ドラムの付いたパッカー車ですが、当時は高価なパッカー車は少なく、ほとんどは普通の小型トラックの荷台をベニア板で囲んで背を高くしたところにゴミ袋を投げ入れるタイプでした。僕たちは微速で走るトラックに伴走しながら道端のゴミ袋を荷台に放り込んで行くのです。バスケットボールのトスをしているようなものですが、そう思えるのは最初だけ。何百と放り上げている内に筋肉疲労で腕が上がらなくなります。しかも走りながらなのでキツいです。やがて荷台に投げ入れるのを失敗し頭の上に落ちてきて破裂するなんてことが起こります。でもこの段階になるとやけっぱちのどうでもいいや状態。生ゴミの汁を頭から被っても平気になります。鼻もバカになっています。最後にはパンツの中まで生ゴミの汁でグショグショという不衛生な状態になるのです。でも、今でこそ見る影もありませんが、当時のタカチンは強靭で立派だったのでバイ菌に負けるということありませんでした。

重労働の汚れ仕事ですが、朝8時から遅い日でも11時ごろまで、平均すると10時半には終わる短期決戦。これで日給が最低でも1万円。多い日は1万3~4千円になったのでした。この頃のバイトの平均日給は2800円。高額バイトでも6千円止まりでしたから、4時間で1万円以上は破格の高額バイトだったのです。
清掃会社には町の銭湯にも負けないような立派な風呂があって、そこで綺麗さっぱり洗い流し、充分に朝風呂を楽しんでから事務所に行くと封筒に入ったバイト料が貰えるのです。
京都には何時間居座っていても何も言わない喫茶店がたくさんあります。大金を懐にそんな店で2時間、時には4時間も読書三昧を楽しんだものでした。一生、このバイトでいいと思う優雅で至福の時間でした。

けれども、どうして幸せというのは長く続かないものなのでしょうか。
ある日、寮生の一人が足を滑らせてパッカーの中に巻き込まれてしまったのでした。ボキボキの複雑骨折でした。けれどもバイトなので会社は保障しないという暴挙に出たのです。僕たちは怒りました。会社の前にピケを張ってストライキを敢行したのです。そういう騒ぎが京都市に伝われば業者の契約が破棄されるのは目に見えています。僕たちの狙いはそこにありました。なんてたって未来の検事や弁護士の卵が沢山いますから交渉事は負けません。結果、入院治療費だけでなく200万円の補償金を支払うということで決着しました。現在なら1千万円ぐらいでしょうか。闘争に勝利したのですが、2度とこの会社のバイトが出来なくなりました。当たり前ですね。

あの事故がなければ、きっと僕は、あの清掃会社でバイトを続けているうちに社長の美人の娘(いたかどうかは未確認)と結婚しあとを継ぎ、今頃は社長になっていたと思うのです。そして、従業員たちが生ゴミにまみれてゴミを集めている最中に、真っ先に一番風呂に入り、湯上りにビールを飲んでプファ~!とやっていたと思うのです。で、近くのいつもの喫茶店へ行って、カウンターの、これもいつもの指定席に座り京都新聞を読んでいたはずなのです。
でも京都の町から市電が消えていったように、僕の人生の路線も仲間の事故で消えてしまいました。

シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため


人生ってどう転ぶか分からないものですね。

ところで、ご飯に砂糖をかけて食べたいと思ったことがありますか。

僕はありません。


スインギーに  




スインギーに


ネットで調べ物をしていて、2007年に店を閉じた横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」(1913~2007)が昨年3月に復活していたのを知った。閉店を惜しんだ人たちの手で再興されたようなのだ。いいニュースを目にして気分はスインギー。
2007年の閉店当時に「ちぐさ」について書いている。今日はそれを再掲載させていただく。



今日はこのレコードを聴きながら日記を書いている。
先日、横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」が、その73年の歴史を閉じた。最終日は閉店を惜しむ常連客や、かつて常連客だった人たちが最期を見届けようと全国から集まったようだ。閉店時間がきて、店の6千枚の中から選ばれターンテーブルに乗せられた最後の1枚が写真の、Kenny drewのレコードだったのである。

このレコードのA面の1曲目はcaravan。ジャズに興味のない人でも一度は耳にしたことがある曲のはずだ。そしてB面ラストがit's only paper moon。ナッキンコール(Nat King Cole)の歌で有名だが、彼の歌とは一味違うスインギーな演奏になっている。この2曲を含め、収められた8曲の全てがテレビCMや映画のBGMなどで聴いたことがある曲ばかりなのである。

「ちぐさ」が最後の1枚にマニアックなものを選ばずKenny drewのレコードを選んだのはなんとなく分かるような気がする。最後の1枚は、店に集まった全ての人たちの中にあまねく沁みるものでありたいわけで、それにはポピュラーな作品こそがふさわしいと思ったのではあるまいか。


かつてはたくさんのジャズ喫茶があったが、僕は苦手であまり行っていない。陰鬱な表情のしたり顔でジャズを聴いている客の雰囲気が嫌いだったからだ。名曲喫茶というのもあって、なぜかそれはクラシック音楽を聞かせる店で、クラシックを名曲と言ってはばからない傲慢さがジャズ喫茶以上に嫌いだった。

いつだったか、日米安保条約の更新を阻止するため新宿御苑付近で無届けデモを敢行したことがある。投石と放水で騒然とする中で僕たちの正義は国の正義に見事に打ち砕かれて散会したあと、ヘルメットを小脇に抱えて仲間たちと喫茶店に飛び込んだらそこは名曲喫茶だった。中に居た客たちは借りてきた猫のように大人しくかつ瞑想状態で、ドカドカと入り込んで来た僕たちを見て露骨に嫌な顔をしたのである。彼らにとって僕たちは場違いな存在だったろうが、僕たちにとっても彼らは異常なものに見えた。

  あなたの周りをご覧なさい
  あたりの河は水かさを増して
  あなたは河底に沈められ 押し流され行く
  溺れる前に泳ぎ始めよう
  時代は変わって行く

ボブ・ディランのこんなメッセージソングとは無縁な彼らは、“今”という世間とコミットすることなく“200年前の名曲”に浸っているわけで、「こいつらは国家権力よりも手強い」と痛切に思ったものである。
マニアックなジャズファンや名曲ファンに反吐が出る思いがするのは、このフレーズが、ここのところのテンポがと、木を見て森を見ない瑣末で矮小な薀蓄を語る評論家的なのがあまりにも多いからだ。自分が演奏家ならともかく、普通のリスナーならそんな瑣末なことはどうだっていいはずである。彼らは音楽を楽しんでいるのではなく薀蓄を語ることが高尚だと思い、その優越感を楽しんでいるだけでしかない。こういう輩をエセ・インテリという。

僕も喫茶店でよくジャズを聴いた一人だが、そこはジャズ喫茶ではなくジャズを流している喫茶店だったからにすぎない。BGMとしての聞き流しだから、マスターと音楽談義をする一方で友人たちと駄弁ったり女友だちとコーヒーを啜ったりした。そういう客がほとんどだったから、「皆静かに。新譜入荷だから。これ良いから。聴いてくれー!」とマスターが声高に言わなければ、誰も真面目にスピーカーに耳を傾けなかったものだ。音楽とはそういうものだと思う。息の長いまともなライブハウスほど喧騒で溢れ返っているものである。

そんなある日のこと、その店に突然、ガロの「学生街の喫茶店」が流れたのである。瞬時にして店内は静まり返ったのはいうまでもない。

  君とよくこの店に 来たものさ
  訳もなくお茶を飲み 話したよ
  学生でにぎやかな この店の
  片隅で聞いていた ボブ・ディラン
  あの時の歌は 聞こえない
  人の姿も変わったよ
  時は流れた
  あの頃は愛だとは 知らないで
  サヨナラも言わないで 別れたよ
  君と

「・・・・」
「どうしたん、マスター?」
「うちの店のために作られた歌のようではないか」
「ボブ・ディランがかかったことがあったっけ?」
「・・・そんな瑣末なことはよろしい」
「で、どうしたん、マスター」
「本日をもって店を閉めることになりました」
「・・・」
「生でデイビスやコルトレーンを聴きたいので向うへ行くことにした」
「閉めなくても、留守中は誰かに店を預けて行けばええやん」
「そうしたい。けど渡航費と滞在資金が無い。だから店を売った」

かくして突然、惜しむ暇もなく、店は無くなった。

半年後、その店はノーパン喫茶になって新規開店したのだった。

そのことをNYに滞在していたマスターに手紙で知らせると、
「わはは。帰国したら一緒に行こう」と返事をくれたのだが、
結局、五番街のマリーと一緒になって未だに帰国していないのだ。

ガロの「学生街の喫茶店」を耳にすると、
ジャズを流した喫茶店よりも、なぜか、
行けずじまいだったノーパン喫茶の方を思い出してしまうのである。



想いを辿る  




想いを辿る



昨日28日は今年亡くなった人を振り返る日だったのだろうか。昨年も見た記憶があるのだが、今年もどのチャンネルでも今年亡くなった著名人の追憶放映がされていた。



僕の場合は今年、50年来の友人を亡くした。もう一人、同じ長さの交友がある友がカナダに住んでいるのだが、先日、若い頃に三人で旅行したときの写真を見つけた。それが上の写真。右が亡くなった友人、真ん中がカナダに住む友人、左はジョージハリスン。
50年以上も交友があったのにほとんど写真を持っておらず、三人が一緒に写っている唯一の写真なのである。

春まだ浅い能登半島の羽咋近くの日本海に面した民宿旅館前の磯で撮ったもので、旅館の丹前を着た3人がにこやかに笑っている。日本海の海鳴りを聴きながら飲んで食べ湯に浸かり、飲んで食べ湯に浸かり、飲んで食べ湯に浸かりを明け方まで繰り返した翌日の写真なのだ。足下が切れているのは磯の上にカメラを置いてタイマーで撮ったからだ。

この写真を先日、カナダの友人に亡くなった友人の葬儀報告のメールを出した時に添付しておいたところ昨日返事が届いた。

  この写真はだいじに持っています
  かにがうまかったなあ
  胃のむかつきはどうですか
  すぐに正月です
  体をたいせつに

笑ってやってくだせぃお客人。(このフレーズ、以前も使ったかな)
大文豪の僕の50年来の友の文章は、51文字中漢字はたったの7個。越前屋、お主も悪よのうウフフ。なにをおっしゃいます代官様へへへ。と、誤魔化すしかない。
年を経てカラーがセピア色に変わりつつある写真同様、長くカナダに住む友の大阪弁に陰りはないが、書くことが退化し、かように小学生並の文しか書けなくなっているのだ。
「この写真はだいじに持っています」はたぶん、なんと貴重な写真!大切にする。という意味のはずだ。写真をしみじみと眺め遠く深く故人を偲んだはずだ。
もうわれわれは、「誰が先だ?」というお年頃だから、親しい友が去っていくのはしかたのないことだが、この写真の発見で、もう一度三人で会って50年を振り返っておくべきだったと、いま、ちょっと悔やんでいる。

古い写真んい関連して、もう少し書いてみたい。以下は音楽を聴きながらお読みいただけたらと思う。





祖父の写真だ。写真の実寸は縦12.5cm横8.0cm。裏書きには昭和15年とある。72年前に撮られた古色蒼然とした写真である。ワイシャツにズボン。脚絆を巻き靴はコードバン(馬の尻の皮)らしき革靴。雑嚢(ざつのう:今風に書けばショルダーバック)をタスキがけにし、手には樫の杖か。

ブログに掲載するために写真をPCに取り込んだわけだが、デジタルはすごいなと思うのは、居ながらにして簡単に拡大できることだ。15インチのモニター画面一杯に拡大しても画像の荒れはさほどひどくなく、これまで見えていなかった細かい部分まで判別できる。古色蒼然とした背景、服装などから、撮影された頃の祖父は相当高齢と思い込んでいたのだが、拡大した顔を見ると艶や張りがあり皺やたるみがない。
祖父の生年月日は不明なのだが、この写真が撮られた昭和15年は、7人兄弟の3女だった母が24~25歳ぐらいのはずだから、仮に祖父が30~34歳頃の子とすれば、この時の祖父の年齢は54~58歳ぐらいだと推定できる。だとすれば今の僕よりも若い時の写真ではないか。そう推測できることで何かが大きく変わるわけでも大きな意味をもつわけではないのだが、僕にとっては新鮮な発見であった。



さらにもう一つ驚きの発見があった。今までまったく気づかなかったのだが、右上(黄色で囲んだ中)に文字が写っているではないか。まるで突然文字が浮かび上がってきたような錯覚を覚え、一瞬にして僕はインディジョーンズになってしまった。僕は渡辺謙だったはずなのに、ハリソンフォードになってしまったのである。
どうせバレるだろうからコトのついでに書いておくと、このところの僕はどこからどう見ても渡辺謙には見えなくなった。(前から見えてないと妻)今はどちらかといえば中尾彬である。昭和の蘊蓄を垂れたり知ったかぶりをする点も同じで、ヤツを見るたびに鏡の向こうに自分を見ているようで人生をはかなんでいるのである。

で、ハリソン君は宝物を探すために文字の識別を行ったのである。『天理 桃尾滝』とある。天理は奈良にある。そこで奈良県 天理 桃尾滝でネット検索してみると、瞬時にヒットした。桃尾滝は現在の天理市の郊外にあった。



これが現在の桃尾滝で、モノクロ処理をしたのが下の画像。モノクロにすると祖父の写真と同じだということがよく分かる。滝の流れ方すら70年前と大きく変わっていない。



以上で祖父の写真分析はおしまい。ハリソン君としては金銀財宝が見つかったわけではないのだが、でも小さな宝物を一つ見つけた気分。ご先祖様の足跡の一つが辿れただけで満足だ。



古い写真は想像力を刺激する。この丸髷(まるまげ)を結った二人の女性の写真もそうだ。二人は誰かは分かっていない。裏書きがないので撮影された時期も不明だ。写っている写真から想像をたくましくするしかない。ちょっと考証してみよう。

この写真を母が持っていたということは、母の血縁関係者であろう。それはたぶん左側の女性で、丸髷を結っているから母の姉ではなく、母の母、つまり祖母か、もしくは大叔母ではなかったか。右の女性はおそらく奉公人である。椅子に座っている女性から半歩後ろに立っていることや着物の違い、帯や帯止め、襦袢の違いがある。二人とも髷に櫛や簪などはない点は同じだが、左の女性の髷には髪のほつれがないのに、右の女性には何本ものほつれ毛がある。おそらく左の女性は鬢付け油を使っているが右の女性は使っていないか、使っていてもほんの少しなのだろう。こうした点を総合的に考察すれば、おのずと主人と奉公人という分析結果になる。

仮に、左の女性を祖母としよう。
祖父が、あまりにも天気が良いので「写真を撮ってやろう」と言いだしたのだ。そして庭に椅子を持ち出し祖母を座らせた。その光景を奉公人の千代(仮称)が珍しそうに見ていたところ、父が、
「おい、千代。お前も撮ってやろう。横に立ちなさい」と言ったのである。

この写真はおそらく100年近く経っている。色褪せてしまい背景は写っていない。
なぜ庭かというと、この時代の写真機は暗い室内では鮮明に写りにくいからだ。天気の良い屋外は格好の撮影場所なのである。足元に草が写っていて背景の中段あたりに沓脱ぎの石のようなものがかすか見える。女性たちが普段着ということからも、自宅の庭で撮られたものである。

モノクロの色褪せた写真だが、実際は明るい陽光の下で撮られたのだ。左の女性が祖母ではないかと思うのは、帯が緩めに締められていることと、お腹が少し膨らんでいるように見えるからだ。お腹の中には母か叔母、叔父を宿していたのではあるまいか。
だから祖父はとても上機嫌で、写真を撮るぞとなった。自分は写真機を、千代に椅子を運ばせたのである。
時は大正2年~5年。幕末から半世紀も経っていない頃のことだ。TBSで放映されたドラマのJIN。あのカラー画像の光景を重ねてみれば、丸髷を結った硬い表情の二人ではあるが、けっしてモノクロの世界に生きたのではなく、彩られた時代の中を生きたのだという息吹や明るさがイメージできないだろうか。

思うのだが、モノクロなのはむしろ今の時代の方であって、昔の方が総天然色ではなかったか。
古い写真は、そんなことを僕に語りかけてくる。


東京は初雪とか・・  




東京は初雪とか・・


いやぁ、気力がございません。ブログを書く気力が・・・。
病院で処方された薬が効き臭覚は半分ほど戻ってほっとしていますが、
副作用なのかどうか、ずっしりと重い疲労感に何をするにも億劫です。

こういうときは音楽で気分を揚げるのも一つかも・・・と。
『Guantanamera』好きだなぁ、この曲。
若い頃、仲間たちと大阪の梅田駅前や地下街、阿部野橋や天王寺公園などでプロテクトソングや社会風刺フォークなどを歌ったりしておりました。かなり話題を集め新聞やラジオ雑誌などの取材を受けたり、最近亡くなった藤本義一司会の『11PM』に出演したこともありました。今はもう歴史の中に埋もれてしまっていますが、街頭ライブは僕たちが元祖なのでありますね。この何十年の中で、街頭ライブが成功したのは2例しかありません。一つはわれわれ。もう一つは「ゆず」。

『Guantanamera』は、ギターをジャンジャン鳴らして歌うと人の足を止めさせる効果が抜群でよく歌ったものです。
グアンタナメラはグアンタナモの娘という意味。グアンタナモはキューバの南東部の町。収容所があり革命運動の政治犯が収容されて拷問や処刑されていたようで、そういう背景が暗喩的に歌詞に込められた歌です。




Yo soy un hombre sincero
De donde crece la palma
Y antes de morirme quiero
Echar mis versos del alma
Guantanamera, guajira, Guantanamera

Mi verso es de un verde claro
Y de un carmín encendido
Mi verso es de un ciervo herido
Que busca en el monte amparo
Guantanamera, guajira, Guantanamera

Cultivo una rosa blanca
En julio como en enero
Para el amigo sincero
Que me da su mano franca
Guantanamera, guajira Guantanamera

グアンタナモの娘さん
俺は南の国の海で育った正直者 死ぬ前に俺の魂の詩を聴いてくれ 俺の詩はきれいな緑 燃えるような真っ赤な炎 俺の詩は森の中で隠れ場所を探している傷ついた鹿 俺は7月でも1月のように白い薔薇を育てよう 俺の誠実な友のために・・・。 


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