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Old Saltの日々雑感

日々雑感的に思うところを小さなウソと大きな誇張でデフォルメして掲載中!

夏から秋への 能登半島  




夏から秋への 能登半島




上野 - 金沢間を走った夜間急行「能登」と寝台特急「北陸」が運行廃止になってもう6年も経つ。この二便はほぼ同時刻を走っていたから、「能登」は座席での夜行列車だったということだ。寝台特急はサスペンス小説を生むが、座っての夜行列車は寝付けないから様々な人生ドラマを生む。
寝台特急であれ夜行列車であれ、そのネーミングを聞くだけでノスタルジックな気分にさせられ15本、鉄道なので上り下りで30本ぐらいは文章が書ける。いや、書ける気分になる。連絡船や国鉄バスも含むとその気持ちもさらに大きくなるのだが、幾つものジグソーパズルのチップのような記憶がダイヤグラムのように錯綜し、何から手をつけようかという感じなのだ。



「能登」のようなボンネット型車両には暖かい記憶と寒々とした記憶の2つの記憶がある。
たしか、東京のモンゴル大使館へ行った時だったと思うが、行きは夜行バスだったのを帰りは列車で、それも東海道本線とは違うコースで帰阪しようと新宿から中央本線に乗ったのだった。8時丁度のあずさ2号に・・・。
狩人の『あずさ2号』がヒットし始めた頃のことだが、意図的に乗ったのではなく偶然乗ってしまったのだ。

  都会のすみであなたを待って
  私は季節に取り残された
  そんな気持ちの中のあせりが
  私を旅に誘うのでしょうか


と、口ずさみながら列車に揺られていたかどうかの記憶はないが、終着駅の松本まで旅した。ちなみにこの「あずさ2号」も今は走っていない。「あずさ」は走っているのだが新宿発松本行き下りの「あずさ2号」はない。ダイヤが変わり、上り便を偶数に、下り便を奇数に変えてしまったからだ。

松本で直江津方面からの名古屋行き列車に乗り換えたと思う。プラットホームがとてもローカルだったという記憶があるので、松本ではなく塩尻だったのかも知れないと、いま書きながら思っている。
いずれにせよ、春まだ浅い信濃路だったので肌寒く、「能登」と同じボンネット型の列車に乗り込んだ時に、食べ物やタバコの煙の匂い、人熱れで淀んだ暖房の効いた車内で空席探しをしている自分の姿が思い出せるのだ。これが暖かい方の記憶。

寒々とした方の記憶は大阪駅。早朝の始発の特急「飛騨」に乗った時だ。車内は暖房が入れられたばかり薄ら寒く、客もまばらで閑散としていた。「飛騨」はビジネス客よりも観光客向けの列車なのだが、車内には観光列車っぽい喧噪も華やかさもなく、僕と友人たちを除くと、地味なスーツを着た疲れた表情のサラリーマンばかりだった。彼らはまさか飛騨観とは思えないから、早朝の「飛騨」に乗るのは別の目的があってのことだ。おそらく名古屋かその先への出張なのである。支給された新幹線の旅費を在来線に変え差額を浮かすために早朝の列車に乗り込んだのだ。寒々とした光景に見えた。彼らは名古屋で全員下車したから想像は当たっていた。
僕たち貧乏仲間の観光旅行はスタート時から寒々としたものだったのだが、1泊2日の飛騨の旅は旅館の部屋も寒くて狭く、食事も不味くて量が少ないという、全てが不完全燃焼でつまらなく終わってしまったのだった。僕は演歌は嫌いではないが、竜鉄也の「奥飛騨慕情」を好きになれないのは、たぶん、この旅行のせいなのだ。

列車世代という言葉があるとすれば僕はその世代である。列車の全盛期を知っている世代であり、映画全盛、歌謡曲全盛時代を知っている世代でもある。恵まれた世代だと思うが、恵まれていただけに喪失感も大きい。だって、今も振り袖姿で歌うこまどり姉妹を見ると、その妖怪ぶりに鳥肌が立ち、その背景に、どう頑張っても決して取り戻せないモノがあることの大きさを知り、ため息が出てしまうもの・・・。
何事も引き際が肝心ということなのだろう。そういう点では、「能登」や「北陸」の運行廃止も、これが、引き際ということなのかも知れない。列車も人も、いつかはその人生の幕を閉じる。

と、寂しく終わるのが目的ではないので、列車らしく、しかし危険がない程度に、話を脱線させて走らせることにする。

列車となると、やはり石川さゆりだ。彼女は旅好きなのだ。

  上野発の夜行列車 おりた時から
  青森駅は 雪の中
  北へ帰る人の群れは 誰も無口(むくち)で
  海鳴(うみな)りだけを きいている
  私もひとり 連絡船に乗り
  こごえそうな鴎(かもめ)見つめ
  泣いていました
  ああ 津軽海峡 冬景色


この歌がヒットする5年前、上野発ではなく大阪発の夜行列車に乗った僕が降り立った青森駅もやはり雪の中にあった。北へ帰る人の群れは誰も無口だったのは、とても寒かったからだ、と思う。僕も連絡船に乗りさらに北へ向かい、凍えそうなカモメ見つめるまでは歌詞通りだったが泣かなかった。泣かなかったが、荒れる海に揺られて船酔いし、誰もいないアッパーデッキで、涙目になり吐いていた。そんな僕が、今は潮気たっぷりのヨット乗りなのだから、人生なんてホタテの貝柱だとつくづく思う。

  夜明け間近か 北の海は波も荒く
  心細い旅の女 泣かせるよう
  ほつれ髪を指に巻いて ためいきつき
  通り過ぎる景色ばかり 見つめていた
  十九なかばの恋知らず
  十九なかばで恋を知り
  あなた あなたたずねて 行く旅は
  夏から秋への 能登半島


津軽の旅のあと、絹代(さゆりの本名)は「能登半島」へ向かったのだ。
この歌が発売される8年前。僕も当時付き合っていた女性と夜汽車で金沢まで行き、岬巡りのバスに乗って能登半島を反時計回りに旅した。夏から秋ではなく、季節は春だった。能登半島の先端、祿剛崎で泊まった民宿は、今はない。

  バスの窓にキラリキラリ 波が光り
  岬までの道がつづく うねりながら
  季節はずれ 風がさわぐ海べりを
  私ひとり乗せただけの バスが行く
  これで心が 晴れました
  あなたなしで生きることに 決めました
  かもめつれて西へ走る フェリーボート
  私ぼんやり 南国土佐の昼さがり


「暖流」は石川さゆりの1977年の3部作の最後の曲。場所は四国の土佐。まだ本州から四国への橋が出来ていないから、山陽本線経由で岡山からフェリーで四国へ渡ったか、大阪の天保山か神戸三宮から船で徳島へ渡ったのだろう。そして土讃線で高知へ向かい土佐の某港まで国鉄バスの客になった。なぜ国鉄バスかというと、国鉄バスだからこそ、客が一人でも走ったからである。

この歌が発売される6年前に僕は、明石からフェリーで淡路島へ渡りバスで南端の南淡まで行き、赤玉蒸気船で鳴門へ渡り土讃線に乗り継ぎ土佐へ行った。土佐まで1泊2日の行程。土佐はとても遠かった。

このように、19歳の石川さゆりの1977年は、恋を追い列車やバスや連絡線で東奔西走していたのである。僕の場合は、何を追っていたのだろう・・・。

  隠しきれない 移り香が
  いつしかあなたに しみついた
  誰かに盗られる くらいなら
  あなたを殺して いいですか
  寝乱れて 隠れ宿
  九十九折り 浄蓮の滝
  舞い上がり 揺れおちる 肩のむこうに
  あなた…… 山が燃える
  何があっても もういいの
  くらくら燃える 火をくぐり
  あなたと越えたい 天城越え


28歳になったさゆりは、大人の女の激しい恋に燃えるのである。清楚で凛々しいとさえ感じられた彼女も妙齢の色香を漂よわすオンナになったのだ。
この歌から遡ること24、25年前、僕は天城峠(旧天城隧道)を徒歩で越えた。むろん伊豆の踊子の薫を追ってである。川端康成と同じコースを歩いたということだ。

2016年。58歳なった石川さゆりは、マウンテンバイクに買い物袋を乗せ、自由が丘近辺をのんびりと走り回っている。

縁は異なもの  




縁は異なもの


24日に母娘で山口へ行きます。次女の大学受験です。
長女の東京大学受験の時も母娘でした。ホテルが無くて新宿の1泊ン万円もする高級ホテルに泊まったのでした。次女は僕が同行するはずだったのに直前になって妻が横取り。卑怯者め。
次女の場合もホテルが全滅でした。山口周辺90分~120分以内のホテルは全滅。キャンセルその他の事情で部屋が空くことがあるので毎日根気よくネットで探した結果、ようやく見つかりました。湯田温泉にある観光旅館でした。今回は母娘で温泉と料理三昧に違いありません。



湯田温泉。駅前にはマスコットキャラの白狐のゆう太がいるわけですね。その大きさ8mといいますから、誰もが驚き、記念で写真をパチリとやりたくなるようです。



なので、こんな方も撮っていらっしゃいました。
ご存じの方はご存知でしょう。シャンソン歌手の別府葉子(写真右)さんです。お隣はピアニストの鶴岡雅子さん。
「女狐め」といいたいところですが、女狐というのは30前後の妖艶でオトコをたぶらかす、あるいはオトコがつい見とれてしまう女性のことをいうと思うのですが、たぶんお二人は女狐の適齢期を過ぎていらっしゃると思うし、オトコをたぶらかす妖艶さは舞台衣装に身を包んでいる、つまり化けている時ですら伺えません(個人的感想です)から、女狐の称号を与えることができません。“ようこ”を変換したら妖狐が出るのに残念です。

不思議な偶然だなとつくづく思ったのでした。別府葉子さんたちは先日の2月6日に湯田温泉にあるCafe de DaDa(カフェレストランは閉店、現在は貸しスタジオ)でライブをなさったのでした。奇しくも2月6日は妻の誕生日。ま、それはどうでもいいのですが、お互い違う人生を歩んでいる別府さんと僕のこのニアミスはどうよ、ではございません?

別府葉子さんのブログを読んでいるとよくこういうことが起こります。推測の域をでませんが以前は大阪の天神橋筋商店街の天満宮近くにお住いだったと思うし、僕の会社が南森町にあったのでどこかですれ違ったかも感がありました。また瀬戸内海汽船の中での話も共通するものがあったり、天下茶屋駅周辺の話の時は、僕はすぐ近くの松虫中学出身だったり、別府葉子さんがフランスに留学されていた時期に僕もツール・ド・フランスの取材でフランスに居たとかとか。
どう考えてもこれは赤の他人ではありません。普通の他人だと思うのですね。

久しぶりに別府葉子さんのYouTube動画を載せてみました。山口ライブの紹介記事の時に載せられていた「ろくでなし」です。
アダモの作詞作曲。他に「サン・トワ・マミー」や「雪が降る」などもアダモ。僕たちの世代ではアダモの認知度は高いです。
「ろくでなし」などが流行った頃の僕は京都に住んでいて、夜な夜な祇園や先斗町を飲み歩いていてよく歌いました。当時のカラオケは8トラックのカセットテープで歌詞本を見ながら歌ったわけで、当時のあれこれを思い起こさせてくれました。




※文中で「東京大学」とあるのは「東京の大学」の間違いでした。つつしんで訂正させていただきます。

長浜で遊ぶ  




長浜で遊ぶ




滋賀県長浜市の黒壁スクエアに行ってきました。黒壁スクエアは城下町と門前町が一体化した所で、昔はこの大手通りが城へ向かうメインストリートだったのでしょう。この辺りは碁盤の目のように区切られていて、小京都のような風情です。
長浜は由緒ある古い町なので黒壁スクエアだけでなく、周辺の探索も面白いです。



松栄堂印房とあります。なかなか味のある書体で、こういう店で落款印を作ってもらうのもいいなと思いました。遠い昔のことですが、北京の印鑑屋の友人がいたことがあって、その人から立派な落款印をプレゼントされ今も持っています。けれども、落款印は持っていても印す書画を持ちません。絵心も書心もないので使い道がないのです。



中華料理店の看板です。特にどうという理由はありません。シンプルな看板になんとなく風流を感じたのでした。



色褪せた看板に各種餅製造とあります。むし物という文字も。その蒸し物が気になります。ガラス戸の向こうのショーケースに少しだけ餅が並べられてありました。つまり営業中なんですね。ガラス戸のもち吉商店の左上にWE LOVE西中のステッカーが貼られていました。長浜西中学校のステッカーです。店主の息子が西中の野球部員なのです、たぶん・・・。



豊臣秀吉茶亭ですが、そのリースが。奇妙な物を見てしまったような感じでした。でも、こういうのもアリだなと思いました。



太鼓と靴の店。これも妙な感じです。店内には靴と太鼓が同居していました。靴と太鼓ではなく太鼓と靴なので、メインは太鼓なのでしょう。きっと親父が太鼓職人なのです。
12年前のこと。後を継ぐつもりで修行している息子の釘の打ち方を見て、親父はつい、「この下手糞」と言ってしまったのです。で、息子はヘソを曲げ太鼓作りを放棄してしまったのです。そしてなぜか靴職人に。どうして息子が太鼓から靴職人への道を選んだのかなどを考えているうちに、次の看板が目に入ったので息子の追跡調査はやめました。



琵琶湖の湖北は関西圏だということですね。誰が見ても阪神タイガースファンの店です。虎風庵は「こふうあん」ではなく「とらふうあん」と湯桶読みです。小さな店ですが長浜のタイガースファンには欠かせない店なのです。屋根の上にはポラボラを含めて4本のアンテナ四方に睨みをきかせておりました。どこで試合があっても電波を逃がさないぞというわけです。庵主の意気込みが感じられます。
余談になりますが、きつねどん兵衛と天ぷらそばを計10個買って帰りました。間違いなく関西バージョンでした。長浜は関西圏ということですね。

でもこの辺りは有数の豪雪地帯でもあるのです。少し南の米原でも豪雪で名神の封鎖や新幹線が動けなくなることが年に何度か起こります。雪で動けなくなったトラックに地元のお母さんたちが炊き出しをしてお握りなどを差し入れするという優しい土地柄でもあります。



2階の深い庇が雪の多さを物語っています。吊るされた干し柿の長すぎじゃないの、と思える紐の長さがアートしてます。



漆喰壁の家が多いです。この道は車が通行できる幅がありますが、自転車が精一杯の細い路地の町並みがたくさん残っています。城下町のこういう細い路地の町並みは、敵に簡単に攻め込まれないためです。ウイークポイントは火災。消防車が入れません。



竹で作られた濡れ縁囲い。珍しいです。風情があります。格子戸を開けて妙齢の美女が出てきそうな予感がしたのでしばし待ちましたが、戸はウンともスンとも言いませんでした。



「あじのもと」ではなく「あぢのもと」。昭和初期頃の看板です。そんな昔から堂々と「世界の調味料」と喧伝していたのですね。恐れ入りました。



どこで昼食を食べるか悩みました。外観から、この店はどうかなと思ったのでした。
ガラリと戸を開けて暖簾の向こうに顔を覗かせ内心「あちゃあ」と思いました。店内は狭く正面に新品の合板のカウンターがあり、おばさんがこっちを見て「いらっしませ」と言うではないですか。客は一人もおりません。カウンターの向こうに部屋があって、そこから定年退職して始めましたという雰囲気を漂わせた親父が眠そうな顔をして登場。
時間は12時45分。他の店はどこもまだ活況を呈して時間なのにこの閑古鳥が無く状態は・・・。

いまさら止めるわけにはいかず、「いいんですか?」とおばさんに断ってカウンター前の席につきました。メニューを見てきつねうどんを注文。他に客がいないので、きつねうどんだけでは申し訳ないと思い、失敗の上塗りだろうなと思いつつ田楽も注文。
親父はビニールの袋に入ったうどんの封を開けています。近くのスーパーで買ってきたのだろうなと思いつつ、出来上がるのを待ちました。
テーブルに置かれたうどんは京風の細うどん。出汁は薄口仕上げです。昆布とかつおが効いていて、これは・・・予想外に美味いぞ。きつねもしっかり油抜きしてから甘く煮揚げている。技が利いているではないですか。
一気に、一滴の汁も残さず食べ切りました。



豆腐の田楽です。6切れもあります。
味噌を塗って焼き上がったのを一口食べて唸りました。これは美味い。
味噌の緑は柚子ですかと問うと、山椒の若葉を擦ったものだそうな。京の白味噌に山椒の若葉、その繊細な甘さと、上質な水から生まれた木綿豆腐のコラボレーション。参りました。
嬉しい嬉しい誤算でした。10年に一度も起こらない奇跡です。なぜこの店に客が入らないのか不思議でした。
僕は晴れ男で客を呼ぶ男でもあります。誰も居なかった店に団体が。さらにもう一組団体が・・・。中を見て座れそうにないから出て行こうとするのをカウンターの真ん中に座っていた僕は湯飲みを持ったまま「どうぞ」と立ち上がったのでした。
「魚しげ」は満席になりました。よかったです。



右は関西バージョン。長浜駅前のスーパーで各5個づつ買って帰りました。ついでに探してみるとやはり有りました。左がその探し物の「魚しげ」で使われていたうどん玉です。一玉55円でした。大きな袋を提げてバスに戻ると皆さんから質問攻めに。ま、旅行土産に即席麺を買う人は少ないでしょうから・・・。


旅にしあれば  




旅にしあれば




前回、「The Rose」の原稿を書いていて、山田洋次監督の『家族』を思い出していた。それは長崎の炭鉱から北海道の開拓村へ移住する家族の、列車を乗り継いで旅する映画で、道中で赤ん坊が死に、ようやく開拓村に着き先住者たちの暖かい歓迎を受け安堵したその夜に高齢の祖父が過労で亡くなるというストーリーだった。
なぜこの映画を思い出したのか。その契機が掴めずにいたので、『家族』をググってみた。そして、「たぶんこれだ」と思う文を見つけた。



雪深い夜の中、やっとの思いで標津にたどり着いた頃には、一家は疲れ果てていた。次晩、地元の人々から歓待を受けた一家の父源蔵(高齢の祖父)は上機嫌で炭坑節を歌い、一家はようやく落ち着くかのようにみえた。しかし、源蔵は歓迎会の晩に布団に入ったまま息を引き取ってしまう。
家族2人を失い後悔と悲嘆にくれる精一(主人公)を、民子(妻)は「やがてここにも春が来て、一面の花が咲く」と慰める。


「雪深い夜」という設定と「やがてここにも春が来て、一面の花が咲く」の台詞。45年も前に見た映画なのに、僕の心のひだに刻まれて残っていたのだと思う。実はもう一つ、やはりずっと先になって、源蔵がなぜ死んでしまったかという理由も知ったのである。前回、「The Rose」の別府葉子の歌詞を厳しく批評したのは、この映画のことが潜在意識として働いたからなのだろうと思う。



生きていくために新天地を求める。それは簡単なことではない。貧しい者にとってはなおさらである。『家族』はスタインベックの「怒りの葡萄」の日本版的な映画だった。



「怒りの葡萄」は、貧しい家族が荷物を満載した中古トラックでカリフォルニアへ引っ越すためにルート66を辿る旅を描いた映画で、ルート66は約4000km、長崎~北海道根室の中標津町は約2600kmなので、「怒りの葡萄」のアメリカスケールを日本サイズにしたのが『家族』といえようか。共通しているのは戻ることの出来ない厳しい旅であったということだ。

ちなみに「怒りの葡萄」はピューリッツァー賞を受賞し、後に受賞したノーベル文学賞も「怒りの葡萄」の存在が大きい。
僕の好きな小説で、ヘンリー・フォンダ主演の映画もとても良かった。

(つづく)





大和路に遊ぶ  




大和路に遊ぶ


久しぶりに奈良で遊んできました。
趣味なのかライフワークにしようとしているのか不明ですが、神社好きの次女希望の神社巡りでした。
まずは天理にある石上(いそのかみ)神宮へ。桃尾ノ滝に立ち寄り、三輪明神大神(みわみょうじんおおみわ)へ。そして奈良市内の氷室神社と春日大社。

大和路はのんびりした雰囲気が漂っていて良かったです。桜は8分咲きで夕食のために京都の山科まで遠回り(し過ぎ)したのですが、山科でではすでに散り始めていました。



長い名前のバス停です。なんとなくのんびり感があります。



平日の運行はありません。土日も2便だけ。とてものんびり感がありますでしょ。



石上神宮から徒歩で40分、車で10分ほどのところに桃尾ノ滝があります。その滝の前に撮った写真です。モノクロなのには理由があります。



同じでしょ。昭和15年に撮られた祖父の写真なのです。ちょっと思い入れがあって、同じポーズで写真を撮りたくて桃尾ノ滝へいったのでした。以下は、その思い入れの文章です。


祖父の写真だ。写真の実寸は縦12.5cm横8.0cm。裏書きには昭和15年とある。72年前に撮られた古色蒼然とした写真である。ワイシャツにズボン。脚絆を巻き靴はコードバン(馬の尻の皮)らしき革靴。雑嚢(ざつのう:今風に書けばショルダーバック)をタスキがけにし、手には樫の杖か。

ブログに掲載するために写真をPCに取り込んだわけだが、デジタルはすごいのは、居ながらにして簡単に拡大できることだ。15インチのモニター画面一杯に拡大しても画像の荒れはさほどひどくなく、これまで見えていなかった細かい部分まで判別できる。
古色蒼然とした背景、服装などから、撮影された頃の祖父は相当高齢と思い込んでいたのだが、拡大した顔を見ると艶や張りがあり皺やたるみがない。

祖父の生年月日は不明なのだが、この写真が撮られた昭和15年は、7人兄弟の3女だった母が24~25歳ぐらいのはずだから、母が祖父が30~34歳頃の子とすれば、この時の祖父の年齢は54~58歳ぐらいだと推定できる。だとすれば今の僕よりも若い時の写真ではないか。
そう推測できることで何かが大きく変わるわけでも、大きな意味をもつわけではないのだが、僕にとっては新鮮な発見であった。



さらにもう一つ驚きの発見があった。今までまったく気づかなかったのだが、右上(黄色で囲んだ中)に文字が写っているではないか。まるで突然文字が浮かび上がってきたような錯覚を覚え、一瞬にして僕はインディジョーンズになってしまった。僕は渡辺謙だったはずなのに、ハリソンフォードになってしまったのである。
どうせバレるだろうからコトのついでに書いておくと、このところの僕はどこからどう見ても渡辺謙には見えなくなった。(前から見えてないと妻)今はどちらかといえば中尾彬である。昭和の蘊蓄を垂れたり知ったかぶりをする点も同じで、ヤツを見るたびに鏡の向こうに自分を見ているようで人生をはかなんでいるのである。

で、ハリソン君は宝物を探すために文字の識別を行ったのである。『天理 桃尾滝』とある。天理は奈良にある。そこで奈良県 天理 桃尾滝でネット検索をしてみると、瞬時にヒットした。桃尾滝は現在の天理市の郊外にあった。




これが現在の桃尾滝で、モノクロ処理をしたのが下の画像。モノクロにすると祖父の写真と同じだということがよく分かる。滝の流れも70年前と大きく変わっていない。
日本最古の禊ぎの滝らしい。祖父は石上神宮から徒歩で桃尾滝、さらにこの桃尾山上腹の大親寺まで歩いたのだろう。



以上で祖父の写真分析はおしまい。ハリソン君としては金銀財宝が見つけたわけではないのだが、早くに両親を亡くし自分史の過去を知らない僕には意味のある宝物の発見で、ご先祖様の足跡の一つが辿れただけで満足だ。



古い写真は想像力を刺激する。この丸髷(まるまげ)を結った二人の女性の写真もそうだ。二人は誰かは分かっていない。裏書きがないので撮影された時期も不明だ。写っている写真から想像をたくましくするしかない。ちょっと考証してみよう。

この写真を母が持っていたということは、母の血縁関係者であろう。それはたぶん左側の女性で、丸髷を結っているから母の姉ではなく、母の母、つまり祖母か、もしくは大叔母ではなかったか。右の女性はおそらく奉公人である。椅子に座っている女性から半歩後ろに立っていることや着物の違い、帯や帯止め、襦袢の違いがある。二人とも髷に櫛や簪などはない点は同じだが、左の女性の髷には髪のほつれがないのに、右の女性には何本ものほつれ毛がある。おそらく左の女性は鬢付け油を使っているが右の女性は使っていないか、使っていてもほんの少しなのだろう。こうした点を総合的に考察すれば、おのずと主人と奉公人という分析結果になる。

仮に、左の女性を祖母としよう。
祖父が、あまりにも天気が良いので「写真を撮ってやろう」と言いだしたのだ。そして庭に椅子を持ち出し祖母を座らせた。その光景を奉公人の千代(仮称)が珍しそうに見ていたところ、父が、
「おい、千代。お前も撮ってやろう。横に立ちなさい」と言ったのである。

この写真はおそらく100年近く経っている。色褪せてしまい背景は写っていない。
なぜ庭かというと、この時代の写真機は暗い室内では鮮明に写りにくいからだ。天気の良い屋外は格好の撮影場所なのである。足元に草が写っていて背景の中段あたりに沓脱ぎの石のようなものがかすか見える。女性たちが普段着ということからも、自宅の庭で撮られたものである。

モノクロの色褪せた写真だが、実際は明るい陽光の下で撮られたのだ。左の女性が祖母ではないかと思うのは、帯が緩めに締められていることと、お腹が少し膨らんでいるように見えるからだ。お腹の中には母か叔母、叔父を宿していたのではあるまいか。
だから祖父はとても上機嫌で、写真を撮るぞとなった。自分は写真機を、千代に椅子を運ばせたのである。
時は大正2年~5年。幕末から半世紀も経っていない頃のことだ。TBSで放映されたドラマのJIN。あのカラー画像の光景を重ねてみれば、丸髷を結った硬い表情の二人ではあるが、けっしてモノクロの世界に生きたのではなく、彩られた時代の中を生きたのだという息吹や明るさがイメージできないだろうか。

思うのだが、モノクロなのはむしろ今の時代の方であって、昔の方が総天然色ではなかったか。




ひねもす京都  




ひねもす京都


お盆の一日を、ひねもす京都で遊んできました。
交通手段は青春18切符。5枚綴りなので妻の友人も誘い5人。クルマで1時間ほどのJR刈谷駅から新快速で大垣、快速で米原、新快速で京都と、途中2度乗り継いで電車の所要時間は2時間52分。新幹線だと1時間18分なので90分ほど余分にかかる。

この90分差の対費用効果をどう考えるかだ。青春18切符は5枚綴りで11850円。1枚あたり2370円。1枚で始発から最終まで終日乗り降り自由なので、東京起点だと西は山口、東は秋田まで行ける。共に普通乗車賃だと12000円ほどなので、青春18切符だと5分の1の料金で行けてしまう。ただし乗れるのは新快速までで特急や新幹線には乗れない。この切符はバラで使うことができる。今回は5人で使った。切符が余れば金券ショップで換金できる。

京都まで新幹線なら片道6430円、往復だと12860円。差額は10490円にもなる。90分我慢すれば10490円の節約。4人家族だと4万円もの差額になる。千本下長者・大市のすっぽんは無理でも、京極・三嶋亭のすき焼き、吉祥院・三源庵の鱧懐石を4人で舌鼓が打てる差額である。差額ではあるが、僕たちの昼食は三嶋亭でも三源庵でもなく、北野白梅町のジャンボのお好みと焼きそばだった。ニコニコ(各二人前)を注文した。一人前750円なので〆て3千円。



ご覧のように鉄板を覆い尽くす焼きそばが二人前なのだ。一人前3玉なので6玉。世間では麺一玉が一人前のはずなので、三玉が一人前なのは猪木の常識・非常識の世界である。ジャンボサイズのお好み焼きには玉子が4個も入る。まさに看板に偽りなし。



ニコニコだと量が多すぎて焼きそばにお好みが乗っかかる。5人でも多すぎるが、苦しみ悶えながらも完食した。ふつう、満腹度に比例して味が分からなくなっていくものだが、ジャンボの焼きそばとお好み焼きは最後まで飽きず美味いのだ。京都グルメ七不思議の一つなのだ。

この店に来ると、焼いていない生を持ち帰る客が多いのにも驚かされる。だってね、これだけの量が焼ける鉄板などを持っていなければ持ち帰れないでしょ。ジャンボの鉄板は家庭用ホットプレートの3倍はある。自宅でどうやって焼いているのか、これも京都グルメ七不思議の一つなのだ。なんと、京都グルメ七不思議のうちの2つをジャンボが占めているのである。あとの5つ?

そんなもん、知らん!



交通費の話がいつの間にか食べ物の話に変わっちゃいましたので、もう一つ食べ物を紹介。
河原町三条東入るの、「はやしや」の抹茶かき氷だ。これが猛烈に美味しかった。幾星霜も人生を営んで参りましたが、関西でいうところの宇治金時の、これまで食べた中で最上、突出した美味しさだった。絶句いたしました。



妻が選んだ抹茶パフェ。学生時代にこの抹茶パフェに感動したそうだ。僕や娘がしきりにかき氷を絶賛したものだから、抹茶パフェのあとにかき氷を追加して食べておりました。抹茶パフェもかき氷もものすごい量。まったくもって妻は太っ腹なのである。



これは記念写真風景を記念盗撮したもの。Vサインをしている女性が美人だから撮ったのではありません。その感動ぶりが微笑ましかったから。これは150円(だったと思う)の追加料金のメガ盛り。親子で「すごい!」と感動し合って、思わず写真をとなったのでした。前に座る母親が写っていないのは、30年後ぐらいの彼女の未来がイメージできてしまうからですね。僕だって、思い出は美しいままで残しておきたいじゃないですか。

ジャンボで、もう一口の水も飲めないというほど満腹だったのである。わずか40分前のことだ。そこへこの量のかき氷なのだ。胃の中の焼きそばとお好み焼きの隙間に溶けたかき氷やアイスがびっしり埋まった状態をイメージしていただきたい。胃袋から食道まで、お好み焼き・焼きそば・抹茶かき氷・抹茶アイス・小豆・白玉・わらび餅・寒天が重なるミックスパフェ状態。ゲップが出る余地すらない。あまりにも満腹すぎて気分が悪いぐらいだった。

食べ疲れした次女が「ジャンボは美味しいけど、今度来たときは他のものにして欲しい」と、ため息をついた。
次女よ、ため息着けばそれで済む 後ろだけは見ちゃだめと 運がいいとか悪いとか 人は時々 口にするけど 巡る暦は季節の中で 漂い乍ら過ぎていくものなのだよ。 
まあとにかく、人生は忍ぶ忍ばす無縁坂なのさ。



さてと。少し京都の市バスのことを書いておきたい。
京都で上手に遊ぶには市バスを利用するのがベストだ。京都は日本で最も市バスが成熟した町なのである。(と僕は思っている)
なにしろ一日乗り放題乗車券が売られているのだ。しかも500円。通常運賃は1回230円だから2.5回乗れば元が取れる。
市バスの乗り放題乗車券は他の町にもある。あるが、肝心なのは、その切符が充分に活用できるかどうかだ。なぜなら、大抵の町のバスは多い時間帯で1時間に4~5本程度、昼間だと1~2本ぐらいしか運行されていないはずだからである。
近くの本屋までバスで行き、3つ向こうのバス停前のラーメン屋に行き、4つ先のバス停のユニクロに行き、1つ戻ってレンタルCDを借り、さらに二つ戻ってスーパーで買い物して帰宅すると、8時間もかかっちゃったというのでは乗り放題とは言えない。

京都の市バス保有台数は約800台。その8割が稼働しているとすれば、常時600台以上のバスが、小さな京都の町を間断なく、まさに縦横無尽に走り回っているのである。

ふつうわれわれがバスに乗るときは、停留所の時刻表を見て、次は09分でその次が39分かと、運行時間を確かめて乗っているはずである。だが、京都でそんな乗り方をするのは愚の骨頂なのである。
例えば京都駅から北野天満宮へ行くとする。1本で行こうとすると1時間に5~6本程度なので他の町のバスト同じになってしまう。
だが、乗り変えて行くなら状況は一変する。京都は碁盤の目のような町なので北野天満宮が面している東西の通りの今出川通りと交差する南北の通りの東山や河原町、烏丸、堀川、千本を北上するバスに乗ればいいのである。そして今出川の交差点で降り、西へ向かうバスに乗り替えればいいのだ。京都駅から南北の道路を上がり(京都では北へ行くのを上がる、南へ行くのを下がるという)今出川通り交差点を通過するバスを合算すると1時間に50本や60本ではきかない。つまり南北の経路を選ばないなら1分間隔でバスに乗れるのである。
少しぐらい遠回りしてもいいということなら、河原町通りを北大路まで上がり北大路から北野白梅町へ下がり白梅町から徒歩(北野天満宮まで歩いても5~6分)でもいいし、今出川通りを東へ走るバスに乗る方法もある。こうした経路も加えると、選択肢は無尽、待ち時間も限りなくゼロに近くなる。
東西と南北が交わるほとんどの交差点に東西南北それぞれにバス停があるので、どこで降りても違う方角へのバスにほぼ待ち時間無く乗れる。「バス待ちをする」のが当たり前の市バスが、京都では、「バス待ちがない」のである。

京都の市バスが成熟している理由は本数の多さだけではない。保有台数の70%以上が空調付きのノンステップバスだ。車内は快適だし段差がないので降車が安全で楽だ。またほぼ同じ台数が省エネ、アイドリングストップバスなのだ。排気ガスや大気の高温化を減らす努力をしている。
降りる目的地が近づいてくると走っている中を降り口へ向かうのが普通だが、京都の市バスは停車するまで席を立つ必要がない。走行中のバスの中の移動はかなり危険だ。年寄りだけが危険なのではなく、普通の大人でも前後左右に揺れるバスの中でバランスを取りながら移動するのはけっこうな緊張が強いられるものだ。そのため、停車してから席を立つのが慣例化しているのである。停車してから席を立ったり降車口に向かえばいいから、乗客は緊張せずに済み、降り遅れないよう慌てるといったストレスがない。乗降客が多いターミナル駅だと降車客が降りるまで乗り口のドアを開けないなど、乗客に優しい市バスなのである。
おそらく京都市バスに優れた職員が多くいるのだと思う。彼・彼女たちが乗客に安全で優しい市バスとはを日夜考えているのである。

停車してから席を立つ方式は乗降に時間がかかる。だからといって「降りる方はお急ぎください」といったアナウンスは一切ない。「急げ」というのは客を思ってのことではなく、ダイヤが狂うという運行側の都合だからね。京都の市バスは停車時間の長さもダイヤに組み込んであるからダイヤが大きく狂うことはない。

京都の市バスはアナウンスが多い。「止まります」「動きます」「曲がります」「揺れます」などなどを走行状況に合わせて頻繁にアナウンスする。そして絶えず車内の様子をバックミラーで確認しながら走っている。そしてよたっとしている年寄りに「つり革を持ってください」なんて言っているのである。全てが乗客の安全のためだ。

分間隔ならぬ分感覚でバスが利用できるから、前述したような寄り道や買い物が簡単にできる。京都は町全体が観光地でもある。ちょっとした路地にも味わいがあったりする。こまめにバスを利用しての下町の探索は、名所旧跡だけの観光では得られない京都の日常の息使いを感じることができる。
どうです、京都の一日乗車券はお値打ちでしょ。

ちなみに、京都の路地は通り抜けができない。袋小路なのだ。通り抜けのできる路地は呼び方が異なり、ずし(図子・辻子)と呼ぶ。路地と図子を使い分けている。路地にはその路地を囲むように家がある。路地はそうした家屋の共同通路で、路地の玄関口には門があったりするので袋小路であること分かる。私有地のようなものだが、迷い込んだからといって咎められることはない。通り抜けができる図子の場合は、入り口に図子名が刻まれた石柱があったり「通り抜けできます」と貼り紙があったりする。

京都はこの23、24日が地蔵盆だったはずだ。京都は神社仏閣が多いが、それ以上に多いのがお地蔵さんだ。路地そばや図子にお地蔵さんが祀られている。その数約4000体。その内の約2600体のお地蔵さんで地蔵盆が行われている。町なかが地蔵盆だらけなのだ。地蔵盆は子供が主役だ。地蔵菩薩に子供たちの健康や安全を願う行事だが町内の人たちの絆としての役割が大きい。団扇片手に夜に京都をぶらり歩きすると、図子のあちこちに地蔵盆の明かりを見ることができる。これがけっこう幻想的なのである。五山の送り火でご先祖様たちを送ったあとなので、地蔵盆の光景が連綿と続く生者の営みを見るようで静かな感動を覚えるはずだ。


祇園祭  




祇園祭


家族で祇園祭に行ってきました。
京都の夏の暑さ、冬の寒さは半端ではありません。
冬の寒さは、まあこんな感じです。

夏は暑いだけでなく、祇園祭や大文字があるため観光客で溢れます。その、ごった返す人の熱気が加わり骨の芯までふやけてしまうような茹だる暑さ。
そのようなわけで夏の京都を敬遠しておりました。でも、祇園祭や大文字、地蔵盆は京の町の風物詩。どれも一度ぐらいは家族でと思っておりました。

大文字は以前住んでいた公団住宅の屋上が穴場。大文字・妙法・舟形・鳥居・左大文字のすべてを見ることができます。こんな絶好の場所は市内に何カ所もないはずなのです。
地蔵盆もとてもいいです。京都の路地には必ずといっていいほどお地蔵様が祀られています。そのお地蔵様を囲んで子供たち主役の地蔵盆が行われます。路地のあちこちで、いったい幾つの地蔵盆が行われているのか。提灯の明かりに浮き上がる路地の地蔵盆は暑さも吹っ飛ぶ涼やかな光景です。観光客向けのイベントではなく、生活の中にご先祖様と共に連綿と生き続けてきた行事としての重みを感じることができます。

地蔵盆の時期でなくても京の路地散策はなかなかいいもので、今回も山鉾を探しつつ下京の堀川押小路を東に入り西洞院か新町、あるいは室町辺りで窟のった辺りの路地の奥に店らしきものを見つけ、入ってみると若者たちが営む雑貨屋でした。最近の京都はそんな路地店が増えています。
応対してくれた若者は兵庫の人で京都の学校を出て居着いてしまったそうな。僕も若い頃、同じような感じで居着いてしまったので昔の自分をみているようで、家族を待たせてつい長話をしてしまったのでした。

ちなみに、路地は通り抜けができません。路地に向かい合わせに建っている家屋の共有廊下のようなものです。路地は京都や大阪では「ろじ」ではなく「ろーじ」と言います。
通路の入り口には門や屋根があったりします。これは誰もが自由に入れない雰囲気を作ることで路地の住人たちの生活環境を守ろうという知恵なのです。

京都の路地は通り抜けができませんが、通り抜けのできる路地もあります。ただし呼び方違います。図子・辻子(ずし)と呼びます。京都では路地と図子を使い分けていて、図子の入り口に図子名が刻まれた石柱があったり、「通り抜けできます」と貼り紙のある図子もあります。



写真はその路地を撮ったもの。浴衣姿の若者は店を運営しているスタッフの一人でした。着流しの浴衣に足下は革靴でした。既成概念を無視したそのコーディネイトに違和感はありませんでした。

今回の祇園祭行きは妻が決めました。先のデッキシューズのプレゼントといい、今回の祇園祭といい、妻は僕の寿命が長くないと読んでいるのかも知れません。って、僕はまもなく寿命が尽きるのか?



暑さに茹だる覚悟を決めての京都行きでしたが幸い(と言っていいのかどうか)終日雨が降ったり止んだりの天気。時折強い雨が降ったこともあり、真夏の京都では珍しくさほど暑い思いをせずに済みました。



祇園祭とはまったく関係がございません。某さんのブログに掲載されていた塩レモンの写真です。無断転載不可とは書いてありません(と思う)でしたので、無断借用いたしました。ついでに文も無断転載させていただくと、

「モロッコではポピュラーな塩レモン〜♪」とありました。この「♪」が曲者です。 
この♪は「モロッコを熟知しているわよん」という印です。彼女はかつてモロッコのカスバの女だったのかも知れません。ちなみに

  涙じゃないのよ浮気な雨に
  ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ

と、ちあきなおみが切々と唄うカスバはアルジェのカスバでスラム街。
モロッコのカスバは館や宮殿のことなんですねー。
だから「塩レモン~♪」の彼女は、以前はモロッコの館もしくは宮殿の深窓の令嬢だった・・・というのは、保証の限りではありません。
「塩レモン~♪」の「ン~」を長く「~」してみてください。無声音を伸ばすのは息が切れますね。「塩レモーン♪」と読んじゃってもいいかな~。

とにかくずーっと、気になっている塩レモンなのです。
作り方はとても簡単らしく、写真のようにレモンを櫛形に切ってレモンの重さの1割の塩で漬け熟成させるだけ。詳細はこの方のブログでご覧いただだければと思いますが、色んな料理に使えるそうです。
この方、写真センスが抜群に良くて、塩レモンだけでなく「日々のお総菜」の写真はどれも秀逸な写り映え。画像の解像度の良さからカメラも上等そうですが、それ以上にたぶん、食べ物に口卑しい方のようで、その涎が食べ物に注がれ愛情溢れる写真になっていると思われます。爽やかなライフスタイルが垣間見れて、暑苦しい今の時期にぴったりの清涼ブログと申せましょうか。

塩レモンのブログを目にしたのはかれこれ2ヶ月ほど前。その時からずーと塩レモンを作りたいと思い続けております。でも、未だに実現しておりません。スーパーに行くたびにレモンを探すのですが輸入レモンばかりで、塩レモンに使えるレモンがないのです。
輸入の柑橘類にはOPPやTBZ、イマザリルといった防かび剤が使われています。冷蔵庫の奥に置き忘れられ何ヶ月も経っているはずのレモンが腐らないのはこの防かび剤が使用されているから。薬害が心配される添加物で、皮だけでなく内側の白い部分にも浸透しているので洗っても除去できません。
探し回っているのは防かび剤が使われていない国産レモンなのですが、わが田舎町では国産レモンがほとんど売られていないのです。
作り方は簡単なのに、原材料が手に入らない。これってすごいジレンマ。
高村光太郎は「レモン哀歌」で智恵子をこう詩にしていましたね。

  そんなにもあなたはレモンを待つていた
  かなしく白くあかるい死の床で
  私の手からとった一つのレモンを
  あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
  トパーズいろの香気が立つ
  その数滴の天のものなるレモンの汁は
  ぱっとあなたの意識を正常にした

と。

コロナビールじゃないけど、ライム代わりにグラスに浮かべたよく冷えたビールをぐびーっと飲みつつ、ヨットのデッキで頭上に打ち上がる花火を観たいぜいっ!と思っていた花火大会は昨日でした。今年も友人の船から観賞の予定が都合がわるくて参加できず。
君ががいた夏は 遠い夢の中 でございました。
わ~ん。

今日は蝉時雨が耳に痛いほどほどです。

※ 塩レモンの方は女性ではなく、男性かも知れません。


北京旅行(1)お茶と栗  



北京旅行(1)
お茶と栗




北京旅行から帰ってまいりました。
あまたある旅行商品の中から妻が選んだのはJTBの天津空港経由タイプ。三泊四日。ホテルと朝食付きのフリープランでした。北京空港経由の方が時間的ロスが少なかったのですが、頃合いの商品がなかったのと妻と僕に天津便を選ばせた理由があったからでした。

妻が天津経由を選んだ理由は、北京空港では天津甘栗が買えないから。妻は異常に栗が好きなのです。ケーキは絶対モンブランだしアイスもモンブラン。松茸ご飯やウニ丼よりも栗ご飯や栗丼なのです。ヨーロッパの最高峰モンブランに登頂し、その山頂でモンブランケーキとマロングラッセを食べ栗ジュースを飲むのが妻の夢なのです。

僕が天津便を選んだ理由は、北京空港へはJALの直行便が飛んでいなくて東方航空だったから。
遠い昔、北京~大阪の中国航空便に乗ったことがありました。その時の機内食が発泡スチロールの容器入りの、冷めたご飯に冷めた酢豚もどきがぶっかけられたもので、それをぶすっとした姉ちゃんがテーブルの上にドンと放り投げるという、極めてシンプルかつ無愛想なものだったのです。まさか現在も当時のままとは思いませんが、何があっても可笑しくないのが中国。万一当時のままなら娘たちの初海外旅行と初飛行機体験は悲しい思い出になってしまいます。その点では、最初にJALというのは無難な選択といえましょう。妻は己の欲求を満たすため、僕は娘たちの快適な旅行を願ってのことでした。

17年ぶりの北京。色々と新体験がありました。思うところも多々。そんなあれこれを今後のブログに書いていこうと思っています。まずは妻の天津甘栗のことから。

天津空港から北京へ向かう高速道路は延々と工場が続いていました。出迎えのガイドの話だと平日の名古屋からのJAL便客のほとんどはトヨタ系の社員だとか。北京までの高速道路はトラックが多く産業道路の様相でした。なんとも殺風景な風景が続き緑がまったくありません。マイクロバスの車窓からそんな天津の景色を眺めていて、1つの疑問を持ちました。

「天津って、栗の木があるの?」

その疑問を帰路にガイドさんにぶつけてみました。
ちなみに往路は大阪に20年ほど住んでいたという、ちょっと崩れた感じの小太りで長髪のおっさん。このガイドはやたら中国と北京の文句を言っておりました。党の幹部が悪い、北京の飯は不味い、米は不味い、北京の暖房は3月18日まででどんなに寒くても暖房は切られる、などなど、本人はアドバイスのつもりなのでしょうが、これから観光しようと思っている者には水を差す言葉ばかり。仮に事実だとしても、ガイドとしてはどうかなと思いました。その彼のアドバイス、ほとんど当たっていませんでした。飯は美味かったしホテルはちゃんと暖房が効いました。室内でエアコンの調整ができないと言っていましたが、宿泊したホテルではできました。米は食べていないので判断はできませんでしたが、米が不味いというのはたぶん本当のことでしょう。だって北京は粉文化。水餃子や小麦粉を焼いた餅(ピン)などが主食なので米へのこだわりが少ないから不味くても当然。ガイドは北京出身者ではないのでしょう。

帰路は30才ぐらいの女性。丁寧で優しいガイドでした。北京事情も色々と説明してくれましたが、おっさんのようなすねた見方の説明ではなかったので色々と参考になりました。で、この人に尋ねたのです。

「天津って栗の木があるの?」と。

「そうなんですよ。旅行に来る日本の皆さんは天津甘栗天津甘栗と言いますが、日本ではそんなに有名ですか。わたしの方が、それが知りたいです。天津には栗はありませんよ。有名でもないです。なぜ日本で有名なのが不思議です。わたしの故郷の山の栗が一番美味しいです。」という返事でした。

空港の免税店で天津甘栗と栗羊羹を買う予定をしていた妻は、そんな説明を聞いてしばし呆然。けれども、これしきのことで挫折する妻ではありません。
「いいの。買うの。以前会社でお土産で貰った栗羊羹が美味しかったの」ですと。

天津空港に着き妻が免税店で土産を買っている間に、僕と娘たちは国内線のお土産屋を覗きに行きました。国内線のお土産屋には天津甘栗も栗羊羹も売っていませんでした。やっぱりね。



その、パンダロゴマーク入りの『天津甘栗的栗羊羹』の箱の裏には「この製品は、本場天津甘栗を贅沢に使い・・・」と日本語で説明が書かれておりました。

僕「この天津甘栗的栗羊羹を買うの、日本人だけちゃうの?」
妻「・・・。美味しいからいいの。」



お茶です。北京の前門にある「張一元」という地元の人が利用する有名な老舗店で購入しました。ちょっと上等なジャズミン茶(1kg)とプーアール茶(500g)を買いました。お茶1.5kgはかなりの量ですが、わが家はお茶好きなので半年ぐらいで飲みきってしまうことでしょう。
今回の旅行で買った土産は羊羹とお茶だけ。お茶請けに羊羹というつもりではなかったのですが・・・。
天津甘栗は天津の名物ではなかったですが、ジャスミン茶を買うなら北京。これは本当です。北京市民はジャスミン茶が大好きなのです。



泥縄的ウオーキング  



泥縄的ウオーキング


北京旅行まであと1週間。
今日からウオーキングを始めました。こういうのを泥縄というのでしょうが、いまちょっと体調が良くなくて、このままだと北京でダウンする可能性があるからなのです。
なにしろ北京は広い。北京市の面積は日本の四国にほぼ匹敵します。全てがデカイというのは何度も経験済み。例えば故宮だと部屋は9000室もあります。やたら広いので道に迷い方向感覚を失った観光客が年間200~300人は餓死して発見されるほどなのです。ま、白髪三千丈の国なので真偽のほどは定かではありませんが・・・。でも、富士の樹海よりも怖いところ、それが故宮なのです。

万里の長城はいまさら説明は不要でしょう。総延長8851kmもあります。時速4kmで歩けたとしても2200日もかかってしまう。日本の端から端までで約3300km。倍以上も長いのです。うんざりしません?

天安門広場にある人民大会堂は大講堂の席数だけで1・2階併せて約10000席もあります。2階には大講堂を取り囲むように各民族の部屋がありますが、その一つ一つがやたらと広い。33年前だったか、25年ぐらい前だったか、何度目かの北京の折に人民大会堂を見学したのですが、職員が誰もいないのをいいことに大講堂の演壇の中央に立ってみたことがあります。国家元首が立つところですね。そこから会場内を睥睨したのですが、室内でパノラマ風景を体験したのは後にも先にもこの時だけ。最も遠いところは霞がかかっていて孫悟空が觔斗雲(きんとうん)に乗って飛んでおりました。驚いたのはこの恐ろしくでかい建物がたった10ヶ月で建造されたこと。中国人のパワーはすごいです。

みなさんご存じないでしょうが、北京動物園の本物のパンダは日本のパンダの5倍もあります。中でも超巨大熊猫(学名:ネコ目クマ科ジャイアントパンダ属)は普通のジャイアントパンダの10倍の大きさ。これでは日本人がビビッてしまうということで、ジャイアンパンダ(トがない種類)が贈られたわけですね。

まあ一つ一つでかくて広い。そんな北京を家族は初体験なので、定番の八達嶺や故宮や人民大会堂や動物園や頤和園や天壇公園などの名所旧跡を歩き回らねばなりません。若い頃でも朝ホテルを出て夕方には疲労困憊し這いずるように戻ったものです。今は2階へ上がって降りてくるだけでゼイゼイ言っているわけで、泥縄であろうと、わずか1週間であろうと、気休めのためにも、ウオーキングゥです。エドはるみって今どうしているのだろう。

実は1ヶ月前に歩き始めていたのです。でも2日間ほど歩いたときに体調不良になり頓挫していたのでした。
たった30分歩いただけですが、本日は少しへばっております。




美味しいブログ発見!♪  



美味しいブログ発見!♪


3月下旬に北京へ家族旅行です。
今回が、たかのつめ家の初めての海外旅行です。記念すべき初フライト先がなぜ北京かと申しますと、妻が北京だと言ったからです。妻には逆らわないというのが僕や娘たちの処家術なので、妻が白と言えば白、黒と言えば黒なのです。だから妻が白黒のパンダが見たいと言えば行き先は北京しかありません。同じ白黒でもシャチを所望してくれればカナダや南極に行けたのですが・・・。

そのようなわけで、ただいま北京のアレコレを下調べ中。旅行は航空券と朝食付きホテルだけの3泊4日のフリープラン。観光も食事も自分で考えねばなりません。中国語はまったくできませんから苦労しそうです。そのための下調べ。

僕が最初めて北京へ行ったのは1979年。実に33年も前になります。最後に北京へ行ったのは1995年なので、早や17年も経ってしまいました。

33年前の北京は昼間はセピア色で夜は真っ暗でした。昭和20年代(1945年)から30年代(1955年)の日本を見ているようでした。灯火管制が敷かれていてクルマはヘッドライトの点灯が禁止され補助灯だけ。ホテルはビルは外観に沿って豆電球が点されているだけでした。人々は全員人民服。服や靴などの生活必需品のほとんどが服票や靴票が無ければ買えないいわば配給制でした。単位制という制度が敷かれていました。大学なら大学、大工場なら工場、銀行なら銀行といった単位に別れ、その単位の中で衣食住の全てが賄えるシステムです。一朝有事に各単位毎で自立して活動ができるようにということなのです。
貨幣も人民元と外国人兌換券2種類がありました。外貨獲得のために発行された貨幣で、1979年に始まり1995年に廃止されています。奇遇にも僕が初めて渡航した時に始まり最後に渡航した年に廃止されたのでした。外国人は兌換券を使う決まりで、北京ダックの全聚徳も羊肉のしゃぶしゃぶ店東来順飯庄も2階は外国人専用になって兌換券でしかも高額なぶったくりで料理を提供していたのでした。この時代は観光客は皆無で観光であっても建前は親善や視察。必ず学校や工場が旅行のルートに含まれていました。僕の場合は完全な観光旅行者でしたが、ビザがおりるはずもなく船外機付きボートで日本海を渡り密入国したのでした。なんてのは真っ赤なな嘘で、北京の日本大使館に勉めていた料理人(日本人)と知己を得て、その人の家族という名目で招待状を貰いそれでビザを申告して入国したのでした。30年前の中国は近くて遠い国でした。
17年前の北京の印象はあまり残っていませんが、人民服を見ることはほとんどありませんでした。路地の商店に洋服やジーンズが吊されているのを今昔の思いで眺めた記憶があります。

2012年の北京の街角に立ったとき、たぶん僕はハンサムなだけが取り柄の、ただの浦島太郎になっているのでしょう。昔とあまり変わらないはずの故宮や天安門広場、北京駅や北京飯店をランドマークに、遠い記憶を辿りつつ北京を散策するつもりです。

今はネットで情報検索ができます。役に立つ情報も少なくありませんが、役に立たない情報の方が多いのが常で、情報をふるいにかける作業の方が大変です。

例えば北京では「交通カード」というものが売られているようです。地下鉄やバスなどの交通機関だけでなくレストランやコンビニなど、様々な所でも使えるらしいので買おうと思っていますが、はたして情報を鵜呑みしてよいものかどうか・・・。

レストランだと嘉和一品粥、慶豊包子舗、永和大王、華天延び吉、正一味、福花肥牛、百万庄園、九頭鳥、比格匹薩、鴻毛餃子、酷聖石氷激凌、香妃烤鶏などで使えるとか。北京交通局とタイアップしているレストラン。信頼できそうです。でも鵜呑みにはできません。というのも、わが町一色町には「いっちゃんカード」というのが売られていて、カード加盟店で買い物ができます。カードで買うと商品は5%引きになるのです。ですが、わが町には行きたい店は一つもありません。スーパーが2軒、ホームセンターが2軒あり利用頻度が高いのですが加盟していないのです。加盟しているのはシャッター商店通りで細々と店を開けているところだけ。つまり客寄せのために発行されたカードなわけです。北京の交通カードの汎用用途も似たようなものではないかと、A型の僕は思ってしまうのです。

そこで上のレストランを全てチェックしてみました。外れ、全滅でした。なぜ外れと分かったかというと、グルメチェックソフトを使ったのです。

『新・北京。おいしい生活。』これがそのソフト。本当のところはソフトではなく、 北京在住のayaziという女性のブログのことなのです。
ご本人はグルメではなくグルマンだと言っておられますが、ブログを読んで確信したのは、大食漢のグルメだということ。食べるだけでなく、白酒のような度の強い酒を、度を過ごすほど飲みつつ料理に舌鼓を打っていらっしゃいます。
『北京で満福』(東洋書店刊)という本も出されていて、その本に掲載されている写真を拝見するとかなりの美人です。美人ですが 楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉といった傾国の美女というほどではありません。したがって才色兼備よりも才食兼備という言葉が似合う女性と申せましょうか。
そんな彼女は月のうちの半分ぐらいは北京中を食べ歩いています。月に33回といったこともあって、まるで北京で放牧されている羊のようなものです。

筆舌という言葉があります。ayaziさんの文章を読んでいると、まさに舌で書いているという感じがします。つまり、文章が美味しいのです。掲載されている写真も。
なにしろ北京の食べ物に魅せられて永住してしまった人。そんな人が何年もかけブログに載せてきていますから、例えば「爆肚馮 金生隆」で検索をかけると『新・北京。おいしい生活。』の「爆肚馮 金生隆」がヒットし表示されます。むろんそのグルメレポートは全幅の信頼が置ける内容です。

で、交通カードが使えるレストランの 嘉和一品粥、永和大王、華天延び吉、正一味、福花肥牛、百万庄園、九頭鳥、比格匹薩、鴻毛餃子、酷聖石氷激凌、香妃烤鶏を一つ一つ検索してみました。唯一、慶豊包子舗が『新・北京。おいしい生活。』でヒット。ヒットはしましたが、レポートは“ちょっとお腹を満たしたい時とか、ふだんの食事にはうってつけだけど、わざわざここを目当てに来ることはないかも”とありました。せっかく行ったから載せるけど普通の下ね、という評価なのでしょう。あとの店はまったくヒットしませんから検討すら値せずということなのでしょう。

3泊4日の旅行です。朝食付きのホテルなので、食事回数は6回。10時と3時と頑張って9時の夜食もと口卑しく考えていますが、とにかく貴重な食事機会、外れがないように店や食べ物は厳選しなければなりません。そんなわが家族にとって『新・北京。おいしい生活。』はとても存在価値が大きいのです。
『新・北京。おいしい生活。』は北京旅行を考えている人だけでなく考えていない人にとっても色々と参考になり読み物としても面白いブログなのですが、難点が2つ有ります。

それは、やたら羊肉と内臓料理が登場することとはしご喰いをさせられること。
北京には羊肉と内臓料理しか無いのかと思うほど羊と内臓が登場します。もちろん他の料理もたくさん紹介されているのですが、彼女ははらわたにかぶりつくタイプのようで羊肉と内臓への思い入れが違うのです。生粋の北京原人、じゃなかった北京市民なのでしょう。まあとにかく、『新・北京。おいしい生活。』で紹介されている内臓料理を見ていると、日本のモツ鍋やドテ焼きなどは、北京市民にとっては乳児の離乳食ではないかと思えるレベル。
そんなブログに毎回幾つもリンクが貼られています。ついポチッとクリックしてしまいます。すると次の内蔵料理が・・・。その文章の中にもリンクが・・・。 たまーにスイーツの日記があって読んでいるとリンクが、ポチッとするとそこには羊肉の湯麺が、羊の油で炒めた野菜炒めが、内臓料理がといった塩梅なのです。いや塩と梅ではなく羊と内臓。読み手はそのはしご喰いをさせられます。おかげでエアー太りし、この2週間で僕は3kgも太ってしまいました。こういうのを想像妊娠ならぬ想像太りというのでしょう。

このところ毎日数時間、『新・北京。おいしい生活。』を読みながら下調べをしています。僕にとっての北京のミシュランガイド。もしかしたら、グルメな大食漢なだけに、彼女のお腹がミシュランのように段々腹かもと思いますが、さてどうでしょう。
北京へ行く予定がある方も無い方も、ぜひayaziさんのブログを読んでみてください。満福します。

『新・北京。おいしい生活。』

日本の内臓の話はコチラ



夏から秋への 能登半島  



夏から秋への 能登半島

夜間急行「能登」と寝台特急「北陸」が運行廃止になった。
寝台特急や夜行急行というネーミングを聞くだけでノスタルジックな気分にさせられ、15本、鉄道なので上り下り30本ぐらいは文章が書ける。いや、書ける気分になる。廃止と聞くとその気持ちもさらに大きくなるのだが、幾つものジグソーパズルのチップのような記憶がダイヤグラムのように錯綜し、何から手をつけようかという感じなのだ。

「能登」のようなボンネット型車両には暖かい記憶と寒々とした記憶の2つの記憶がある。
たしか、東京のモンゴル大使館へ行った時だったと思うが、行きは長距離夜行バスだったのを帰りは列車で、それも東海道ではなく違うコースで帰阪しようと新宿から中央本線に乗ったのだった。8時丁度のあずさ2号に・・・。
狩人の『あずさ2号』がヒットし始めた頃のことだが、意図的に乗ったのではなく偶然乗ってしまったのだ。

  都会のすみであなたを待って
  私は季節に取り残された
  そんな気持ちの中のあせりが
  私を旅に誘うのでしょうか

と、口ずさみながら列車に揺られていたかどうかの記憶はないが、終着駅の松本までか手前の塩尻まで旅した。ちなみにこの「あずさ2号」も今は走っていない。「あずさ」は走っているのだが新宿発松本行き下りの「あずさ2号」はない。ダイヤが変わり、上り便を偶数に、下り便を奇数に変えてしまったからだ。

松本か塩尻で直江津方面からの名古屋行き列車に乗り換えたと思う。プラットホームがとてもローカルだったという記憶があるので、松本ではなく塩尻だったのかも知れないと、いま書きながら思っている。
いずれにせよ、春まだ浅い信濃路だったので肌寒く、「能登」と同じボンネット型の列車に乗り込んだ時に、食べ物やタバコの煙の匂いが淀んだ暖房効いた車内で空席を探している自分の姿が見えるのだ。これが暖かい方の記憶。

寒々とした方の記憶は大阪駅。早朝の始発の特急「飛騨」に乗った時だ。車内は暖房が入れられたばかりで効いておらず寒く、客もまばらで閑散としたものだった。「飛騨」はビジネス客よりも観光客向けの列車なのだが、車内には観光列車っぽい喧噪も華やかさもなく、僕と友人たちを除くと、車内は地味なスーツを着た疲れた表情のサラリーマンばかりだった。彼らはまさか飛騨観とは思えないから、早朝発の「飛騨」に乗るのは別の目的があってのことだ。彼らは名古屋かその先への出張なのである。支給された新幹線の旅費を在来線に変え差額を浮かすために早朝の列車に乗り込んだのだ。寒々とした光景に見えた。彼らは名古屋で全員下車したから想像は当たっていた。

僕たち貧乏仲間の観光旅行はスタート時から寒々としたものだったのだが、1泊2日の飛騨の旅は旅館の部屋も寒くて狭く、食事も不味くて量が少ないという、全てが不完全燃焼でつまらなくて終わってしまったのだった。僕は演歌は嫌いではないが、竜鉄也の「奥飛騨慕情」を好きになれないのは、たぶん、この旅行のせいなのだ。

列車世代という言葉があるとすれば僕はその世代である。列車の全盛期を知っている世代であり、映画全盛、歌謡曲全盛時代を知っている世代でもある。恵まれた世代だと思うが、恵まれていただけに喪失感も大きい。だって、今も振り袖姿で歌うこまどり姉妹を見ると、その妖怪ぶりに鳥肌が立ち、その背景に、どう頑張っても決して取り戻せないモノがあることの大きさを知り、ため息が出てしまうもの・・・。

何事も引き際が肝心ということなのだろう。そういう点では、「能登」や「北陸」の廃止も、これが、引き際ということなのかも知れない。列車も人も、いつかはその人生の幕を閉じる。

と、寂しく終わるのが目的ではないので、列車らしく、しかし危険がない程度に、話を脱線させて走らせることにする。

列車となると、やはり石川さゆりだ。彼女は旅好きなのだ。

  上野発の夜行列車 おりた時から
  青森駅は 雪の中
  北へ帰る人の群れは 誰も無口(むくち)で
  海鳴(うみな)りだけを きいている
  私もひとり 連絡船に乗り
  こごえそうな鴎(かもめ)見つめ
  泣いていました
  ああ 津軽海峡 冬景色

この歌がヒットする5年前。上野発ではなく大阪発の夜行列車に乗った僕が降り立った青森駅もやはり雪の中にあった。北へ帰る人の群れは誰も無口だったが、それはとても寒かったからだ。僕も連絡船に乗りさらに北へ向かい、凍えそうなカモメ見つめるまでは歌詞通りだったが泣かなかった。泣かなかったが、荒れる海に揺られ船酔いし、誰もいないアッパーデッキで、涙目になり吐いていた。そんな僕が、今は潮気たっぷりのヨット乗りなのだから、人生なんてホタテの貝柱だとつくづく思う。

  夜明け間近か 北の海は波も荒く
  心細い旅の女 泣かせるよう
  ほつれ髪を指に巻いて ためいきつき
  通り過ぎる景色ばかり 見つめていた
  十九なかばの恋知らず
  十九なかばで恋を知り
  あなた あなたたずねて 行く旅は
  夏から秋への 能登半島

津軽の旅のあと、絹代(さゆりの本名)は「能登半島」へ向かったのだ。
この歌が発売される8年前。僕も夜汽車で金沢まで行き、岬巡りのバスに乗って能登半を反時計回りに旅した。夏から秋ではなく、季節は春だった。能登半島の先端、祿剛崎で泊まった民宿は今はない。

  バスの窓にキラリキラリ 波が光り
  岬までの道がつづく うねりながら
  季節はずれ 風がさわぐ海べりを
  私ひとり乗せただけの バスが行く
  これで心が 晴れました
  あなたなしで生きることに 決めました
  かもめつれて西へ走る フェリーボート
  私ぼんやり 南国土佐の昼さがり

「暖流」は石川さゆりの1977年の3部作の最後の曲。場所は四国の土佐。まだ四国への橋が出来ていないから、山陽本線経由で岡山からフェリーで四国へ渡ったか、大阪の天保山か神戸三宮から船で徳島へ渡ったのだろう。そして土讃線で高知へ向かい土佐の某港まで国鉄バスの客になった。なぜ国鉄バスかというと、国鉄バスだからこそ、客が一人でも走ったのである。

この歌が発売される6年前に僕は、明石からフェリーで淡路島へ渡りバスで南端の南淡まで行き、赤玉蒸気船で鳴門へ渡り土讃線に乗り継ぎ土佐へ行った。土佐まで1泊2日の行程。土佐はとても遠かった。

このように、19歳の石川さゆりの1997年は、恋を追い列車やバスや連絡線で東奔西走していたのである。僕の場合は、何を追っていたのだろう・・・。

  隠しきれない 移り香が
  いつしかあなたに しみついた
  誰かに盗られる くらいなら
  あなたを殺して いいですか
  寝乱れて 隠れ宿
  九十九折り 浄蓮の滝
  舞い上がり 揺れおちる 肩のむこうに
  あなた…… 山が燃える
  何があっても もういいの
  くらくら燃える 火をくぐり
  あなたと越えたい 天城越え

28歳になったさゆりは、大人の女の激しい恋に燃えるのである。清楚で凛々しいとさえ感じられた彼女も妙齢の色香を漂よわすオンナになったのだ。
この歌から遡ること24、25年。僕は天城峠を徒歩で越えた。むろん伊豆の踊子を追ってである。川端康成と同じコースを歩いたということだ。

2010年。52歳なった石川さゆりは、マウンテンバイクに買い物袋を乗せ、自由が丘近辺をのんびりと走り回っている。




母の日に  



母の日に

母が存命なら今年95歳になる。生まれ故郷は大分市の大野川(旧戸次川)沿いにある上戸次村。母が何歳の頃に村を離れ大阪に出たのかを僕は知らない。出奔理由だけでなく、母のことも家系のこともほとんど知らない。強く知りたいと思っている父のことに至っては母のこと以上に知らない。2X3cmサイズのモノクロ写真の中に小さく豆粒のよな父の姿が残っているだけだ。父と触れ合った記憶といえば、4歳か5歳の頃に旅館の一室で母の帯の一方を欄間にくくりつけ、一方を自分が持ち僕を帯に乗せブランコ遊びをしてくれた記憶があるのみだ。この時、おそらく母も父と久しぶりに会ったのだろう、とても嬉しそうに、にこやかに僕と父の遊びを見ていた記憶も一緒に残っている。

その父は数ヶ月後に他界した。母に連れられ遺骨を受け取るためにロングノーズのバスに乗り生駒山の麓の刑務所に向かった記憶も断片的に残っている。開け放たれた窓から蒸し暑いホコリが舞い込んでいたから梅雨の頃ではなかったか。
時代は戦後の混沌期。父は闇米を扱っていて逮捕され刑務所内で死亡した。30代半ばの働き盛りだったから入所わずかで病死とは考えられない。刑務所内で何かがあったはずなのだ。父のルーツは、その何かがあってもおかしくない差別されるものだったのだろう。だろうと書くのは、母は父のことを闇米で逮捕されたということ以外はなにも僕に語り残していないからである。父のことを具体的に話し聞かせるには僕は幼すぎたはずだし、語り継ぐ年頃になる前に母は他界してしまった。
僕の戸籍の父の欄は空白のままだ。つまり僕は私生児なのである。3歳で急逝したが妹もいたから家族が存在したのは事実だ。けれども、戸籍に乗せられないか、戸籍を作ってもらえない事由があったということなのだろう。“たかのつめ”は、父方ではなく母方の姓だ。以後の話も、母系の話である。父系の話は書きたくても藁一本の手がかりもない。

2~3年前になるが、ネットで「大分市たかのつめ」で検索してみたら即座に地図がヒットしたことがある。これには驚いた。
話が前後するが、生前、母が僕に断片的に語ってきたことは全てがウソっぽいと思っていたのだった。『ご先祖様はたかのつめ越前守というお殿様で、母が生まれ育ったのは濠で囲まれた大きな屋敷。演習で来た兵隊さんが沢山泊まれるほど大きな屋敷だった。大阪に出てきたのは祖父が事業を興すためで、家が没落したのは事業に失敗したため』と母は僕に語っていた。

この話を僕は信じ込んでいたのだが、母が亡くなった何年か後にふと気づいたのである。大分って越前かと。大分は豊後で、越前は福井ではないか。母は適当な作り話をしたのである。小学生の頃に父の姓を尋ねたことがあって、母は村田と答えたのだが、それはたぶん、浪曲演歌の村田英雄が大ヒットしていた頃だっから、思いつくままその名を言った違いなく、僕は村田は違うという確信があった。そうした話のアレコレから、父と死別してからの母はアンニュイに人生を送っていて、人生を振り返っての説明など面倒だったのかも知れない。あるいは、田舎のことや父のことはいつも布団の中での話だったから、母は息子を寝かしつけるための絵本でも読んでいるつもりの作り話だったのかも知れない。そのようなわけで僕は、母の話はどれもウソっぽいと思っていたのだが、越前が福井であることに気づいた時点で、ウソっぽいからウソに変わってしまったのである。僕の母への評価は。

母が住んでいた家の近くに大きな屋敷があって、そこに演習の兵隊が宿泊していて、祖母が手伝いかなにかで行っていて、母はその祖母から話を聞かされていたから細かいディテールまで話すことができたのだ。額の傷は濠に落ちたときに出来たと聞かされたが、そこのお嬢さんでもなくても濠に落ちることはできるではないか。疑えば全ての話が反転する。武士の家系でもなければ殿様の末裔でもなんでもなく、戸籍の父欄が空白なのでせめて立派な家系でも仕立ててと考えた作り話だと僕は結論づけたのだった。

それから幾星霜。やはり数年前になるが、暴れん坊将軍を見ていて「あれ?」っと思ったのである。大岡越前守は江戸にいるではないか。なんでヤツは福井県の裁判官ではないのだ。
このとき僕は自分の無知、不勉強さを知った。あちこちに越前守はいたのだ。大分にいても何ら不思議はないのである。母の作り話だと思っていたので真贋を調べもしなかった。インターネットが無かったということもあるが、図書館で調べるということもしなかった。ネットが普及してもなお、たかのつめ越前守で検索という簡単なことすらしてこなかった。

改めて検索してみると“たかのつめ越前守”で簡単にヒットするではないか。鶴賀城主とある。辿れば大友氏、さらに辿れば源頼朝にまで行き着く。家紋は杏葉だと判明した。杏葉(ぎょうよう)とは馬の装飾に用いる金具で、珍しい紋章らしい。
母の話は半分は事実だったのだ。半分と書いたのは、これだけでは大屋敷のお嬢様だったという証拠にはならないからだ。
たかのつめ越前守がヒットしたので、大分市・たかのつめで検索してみると、なんと地図がヒットしたのである。たかのつめという地域が今も存在するのだ。大友・島津激戦のとして有名なところでもあった。

母の話が半分本当なら、息子としては残りの半分の検証もしてみたい。けれども大屋敷のお嬢様であったことを調べる手立てがない。姉がいたようなのだが他家へ嫁ぎ姓が変わったためその後のことが掴めない。母には弟が二人いて共に50年前までは大阪に住んでいたのは確かだが、その叔父たちの消息も掴めていない。



手元にある資料といえば二十数枚のモノクロがセピア色に色褪せた写真だけだ。数日前にそれを見直していて、ようやく母の話の残りの半分の方もあながちウソばかりではないと思うに至ったのだった。



祖父の巡礼地であろう所の写真、母の姉の写真、部落の結婚式か祭りごとの集合記念写真、母が2歳の頃の写真。その一枚一枚を見ていて、大きなことを見落としていたことに気づいた。それは、写真が撮られたのは大正から昭和初期だということ。いまなら簡単に写真が撮れるが、誰もが写真が撮れる時代ではなかったはずだ。写真機は貴重で高価なものだった。祖父の巡礼地の写真は祖父か同行の誰かが、その貴重で高価な写真機を持っていたことを物語っている。つまり貧乏旅行ではなかったということではないか。その他の写真も同様である。庭先で軽く撮ったと思われる写真もあったりして、写真機がたかのつめ家の身近に感じられるのである。



この母が2歳の時の写真は写真館の椅子のように見えるが、たぶん木製の高級なベビーサークルだ。着物も粗末なものではない。
たかのつめ家は大家族だったようで、母には兄が二人以上、姉も二人はいたようだ。下に弟が二人いるから、少なくとも7人兄弟だった。兄たちの写真は軍服姿で将校クラスの服装である。そんな点を線でつなげると裕福だっ家族像が見えてくる。母の話は概ね事実だったということになろう。
こうしたことが分かってから、僕は母の生地、それは僕のサライでもあるわけで、その地を無性に訪ねてみたくなった。数年前から大分の母の出生地へ行ってみたいと言い続けてきたのだった。


この連休、その願いがようやく叶った。
2泊3日。走行距離はなんと1896km。僕も頑張ったが妻も頑張ってくれた。娘たちは、よく耐えてくれた。だれよりも頑張ったのは、ポンコツのノアだったと思う。故障もせずによく走ってくれました。

愛知・三重・滋賀・京都・大阪・兵庫・岡山・広島・山口・福岡の10の都府県を走り抜け大分に到達。特に往路は夜中に発ちトイレ休憩以外はノンストップの深夜特急。所要時間13時間30分。
わが家は貧乏故に、旅行は不可避的に車での遠距離移動になる。そもそも旅は簡単なものではなく、知恵と体力を使ってこそ得るものも大きいと思っているからこのスタイルは平気なのだが、気力は盛んでも、情けないことに年ごとに体力は衰える一方。今回の長丁場はさすがに応えた。



母の生地は開発の波が近くまで押し寄せて来ているものの未だ田舎のままだった。ご先祖様の墓碑はいつも手入れされているようで掃除が行き届き清潔に保たれていた。気持ちがとても安らぎ、小雨の中なのに去りがたく、ぐずぐずと周辺を歩いた。



母がこの地のどの辺りに住んでいたのか、母が話していた屋敷はどこにあったのか、今もここに住んでいるに違いないはずの遠戚はどの家なのかなどの一切が不明で、それが少し心残りだったが、母や祖父がこの地を離れてから90年の時の流れと風化があるわけで、今更探ってみても詮無いこと。サライの空の下に末裔の一人として家族と共に立てたことで充分。それだけで充分だと僕は思った。





京都・春の神社巡り  





京都・春の神社巡り

いちにち、京都で遊んだ。
次女が古事記や神社にはまっていて、その読書量は祝詞やお守りの本を含めると百冊を軽く超え、神々の名前はむろんのこと、祝詞は諳んじているし闇御津羽神(くらみつはのかみ)や闇龗神(くらおかみのかみ)などのややこしい漢字もスラッと書けるほど。“おかみ”は雨冠に口が3つに龍で33画。当用漢字や常用漢字にも載っていない。闇龗神の『龗』が分かりづらいと思うが、文字が無くて画像で作成された文字なのである。
今回の京都行、次女が執拗に貴船神社に行きを希望していたので、貴船を中心に神社巡りをすることにした。むろん、この時期なので花見を兼ねて・・・。

昼前には天候が回復するという予報を信じ雨の中を発つ。まずは山科の醍醐寺で花見の予定だったのだが天候が回復しないため醍醐寺の花見を諦め伏見稲荷大社へ向かう。伏見稲荷大社は全国にあまたあるお稲荷さんの総本山。じっくり詣でると4時間以上はかかる。妻が軽い捻挫で歩くのが辛いため小一時間にとどめる。それでも次女は大満足だった。

稲荷神社から寺町三条へ向かう途中の川端通りの両サイドは桜・さくら・サクラ。今まさに満開で、その美しさに酔いしれる。ここに限らず仁和寺(にんなじ)や竜安寺、銀閣寺、疎水、八坂、祇園、上賀茂や下鴨、寺町、御所、平野神社、北野白梅町、天満宮などなど、さらにごく普通の家の庭も含め、まちなかのあらゆる所で桜が咲き乱れていた。それが京都の町並みにごく自然に溶け込んでいて、今更ながらに京の春には桜がよく似合うと思った。

寺町三条を上がった(京都では北へ行くことを上がる、南へ行くことを下がるという)ところにある進々堂で少し早めの昼食を摂る。焼きたてのパンを売る店なのだが喫茶コーナーがあって、セットメニューだけでなく店頭に並ぶパンで食事をすることもできる。妻たちはフランスパンの正真正銘のフレンチトーストを食べ、僕は店頭から幾つか選んできたパンを食べた。コーヒーのお代わりができるというのが嬉しい。

昼食後、貴船神社に向かう。加茂川に沿って遡上し北山杉の山中を分け入るといった感じで深山幽谷の趣がある。
貴船神社へは車よりも今出川河原町の出町柳から叡電でこっとんこっとんと揺られて行く方が情緒がある。昔、立命館大の学生だった友人が出町柳から7つ目にある岩倉駅の近くに下宿していたことがあって、「その朝のジャズ」にそのことを書きブログに載せたことがあるが、その話に出てくる叡電である。
当時は駅を降りると田畑ばかりだった岩倉も、今は昔日の面影の片鱗もなく変貌してしまっている。それはそうだ。だって友人が下宿していたのは40年も前のことなのだから。

貴船神社はやはり40年ほど前に一度、叡電で訪れたことがある。今の貴船神社界隈はというと駅そのものが記憶に残る当時のままの姿で、貴船神社周辺も山菜や川魚料理を食べさせる旅館が何軒か増えた以外は当時のままだった。なにしろ山深いだけでなく細い清流と道に沿った峻険な山肌にへばりつくように建立された神社だから新たな開発の余地がない。そのため40年の時を経ても昔の姿をとどめているのである。

次女の闇御津羽神がどうしたこうしたという説明を聞きながらお宮巡りをしたわけだが、ひやりとした空気の美味しさには格別のものがあった。
貴船神社のあと、そう遠くもないので大原に行くことにした。大原の里は比叡山の京都側の麓に位置し、昔は忍びの者の里であったところでもある。大原といえば三千院や寂光院だろう。ちなみに寂光院は尼寺である。
“京都大原三千院 恋に疲れた女が一人”(いずみたく作曲・永六輔作詞)は今も歌われているが、寂光院が尼寺だったからというのもあるのではないかと思ったりする。
ちなみに2番の歌詞は 京都栂尾(とがのう)高山寺で、3番は 京都嵐山(らんざん)大覚寺。2番も3番でも恋に疲れた女がいるのである。三千院は左京区、高山寺と大覚寺は共に右京区。京の右京左京周辺部は恋いに疲れた女性がとても多いところなのだ。
実際、貴船神社の参拝客のほとんどが女性。貴船神社は水の神様なのだが、縁結びの神社でもあるのだ。次女の、嬉々とした説明を抜粋し書くと以下のようになる。

神武天皇(初代の天皇)の曽祖父にあたられる瓊々杵命(ににぎのみこと)が、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を妻にもらおうとしたとき、父の大山衹命(おおやまつみのみこと)が姉の磐長姫命(いわながひめのみこと)も一緒にどお?とすすめたが、瓊々杵命に木花咲耶姫命だけでいいとを言われちゃったのでした。このため磐長姫命はとても恥ずかしく思い、「吾ここに留まりて人々に良縁を授けよう」と貴船神社に鎮座、今風に言うと居座っちゃったのだ。

木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)はあまりにも有名で数々の想像絵にも残ってるが、お姉さんの磐長姫命は知名度がもう一つ。古事文によると 磐長姫は「いと醜く」とあるわけですね。でも、その見かけとは裏腹にとても心優しい面と芯の通った「強い」女性だったとか。そのようなわけで、あの和泉式部(いずみしきぶ)も切ない心情を歌に託して祈願したいう歴史ある縁結びの神社なのであります。
女性同士のカップルで来ていた人に「恋いに疲れて来たの?」とインタビューしたところ、「違います!パワースポットだから来たの!!」と憮然とした態度で怒られちゃました。貴船神社は今はやりのパワースポットでも有名になっているらしい。

三千院の次は八坂神社に行きたいと次女が言うので白川通りを南下。途中の銀閣寺そばの白川疎水通りの桜が見事で、それを楽しもうと観光客で溢れかえっておりました。
白川通りの一筋東に哲学の道があって、そこも桜が見頃のはずなのだが人の多さに呆れ断念。
この、白川通り今出川交差点の東南角に、小汚なくかつ小さいくせにつとに有名なアイスキャンデー屋があって、その店先で列をなす客にアイスを売っている小太りのおばさんが店の一人娘で、横の親父がたぶん婿養子なのだろうと思うが彼もせっせとアイスを売っている姿を見る。
このおばさんと僕は浅からぬ、とはいえ決して深くはない縁がある。深い縁にならなかったのは彼女が磐長姫的だったからに他ならない。まだまだ若く美青年だった僕は、女性の美しさは外面よりも内面にあるということに気づいていなかったのだ。女性は、容姿が良くてスタイルが良いだけではダメだと、妻を見ていてつくづく思うのである。

アイスキャンデー屋のおばさんはかつて、阪急の西京極駅前にある公団住宅の2階の家賃1万4700円の1DKの部屋に住んでいた。その真上の3階の部屋に僕が住んでいたのだ。ある日の夜中、ドアがドンドンと叩かれちゃうので出てみると磐長姫が立っていたのである。

「天井から水が落ちてくるのだけど・・・」

慌てて風呂場を覗いてみると入れっぱなしで忘れていた浴槽から湯が溢れ脱衣場まで水浸し。磐長姫に平謝りしたのはもちろん、翌日は確かケーキ持参で再度謝罪に行ったのだった。そして彼女の部屋でお茶をよばれながら件のアイスキャンデー屋の一人娘でうんぬんといった話を聞かされたのだった。あの時に僕がアイスキャンデー屋の婿養子にもっと興味を持っていたら、今頃は白川通り今出川交差点東南角の小汚くも小さい店先でアイスを売っていたに違いないわけで、縁とは不思議なものでございます。

岡崎公園の地下駐車場に車を預け通りに出ると、さすがは世界の八坂神社。四条通は圧倒的な人の洪水だった。おそらく祇園や先斗町の細い路地の一本一本にまで観光客が溢れていたのではあるまいか。そんな人混みの中を簡易着物とでもいうのだろうか、着物と浴衣の中間のような和服姿の外人たちが大勢歩いているのを見る。全員が非常に疲れ切りげんなりした顔で歩いていた。けれども、着崩れ姿で大股で歩く彼女たちから恋いに疲れた女の姿は見て取れなかったので、たぶん、ただの観光疲れなのだろうと思う。慣れない草履と足袋できっと沓づれだぜ。お疲れさまぁ。
外人は和服が似合わないとつくづく思うが、浴衣の似合わない日本女性も多くなりました。

八坂神社の南門から出たすぐのところに「ちりめん山椒」の“やよい”がある。世間にあまたのちりめん山椒が売られているが、“やよい”以上に美味で繊細で風雅な趣のあるちりめん山椒はまずない。妻も僕も大好物なのである。今回は筍と山吹と山椒の佃煮も買ってみたがこれも美味しかった。

次は東山区轆轤町にある六波羅蜜寺に向かう。神社ではなくお寺なのだが、ここも次女所望なのである。用件はお守りの購入。次女に登校拒否気味の友人がいて、時々勉強のアドバイスなどをしているのだが、その子の登校拒否という病気が少しでも良くなるように病気除けのお守りをプレゼントしたいのだという。色々と調べた結果、六波羅蜜寺がいいだろうということになったのだった。

六波羅蜜寺は口から六体の阿弥陀仏をはき出している空也上人のが起こしたお寺。小さな寺だが重文の仏像が多く安置されている寺でもある。次回は拝観料を払ってじっくり仏像を見たいと思っている。
六波羅蜜寺の住所の轆轤町の轆轤は「ろくろ」と読む。すぐ東が清水焼の清水寺。昔はこの辺りで轆轤を回す焼き物職人が多く居た場所だったということか。いまの松原界隈は少し上手にある祇園などの影響を強く受けて花街の一角といった様相になっている。

京都市東山区轆轤町松原通大和大路東入。長ったらしく画数の多い住所なので人に教えるのも書くのも面倒だが、東山区五条大和大路上る東入でもOKなのが京都らしいところだ。郵便物はどちらの表記でも届く。おそらく東山通り松原西入る大和大路下るでも届くはずである。
僕は上京区今出川堀川上立売下る北舟橋町866番地今出川堀川団地811号室という長ったらしい住所のところに住んでいたのだが、友人には上京区今出川堀川上ル公団811と簡略化して教えていた。何の問題もなく郵便物は届いていた。住所は西入ル東入ル上ル下ルと何通にも書け、そのどれででも目的地に到達できたり郵便物が届いて便利なのだが、ただ一点だけおやっ?と思うことがある。それは役場に届け出た住所(これが公的な正式住所)がどれだったっけ?ということ。僕の場合、堀川今出川だったか今出川堀川だったか、正式な書類に記載するときにいつも悩み、自分の住所を手帳を見て書くという有様だった。今もし銀行などでメモや手帳を見ながら住所を書いたりすれば不審者として警察に通報されるのではあるまいか。

六波羅蜜寺を出て五条通を西へ走り西大路五条へ向かう。西大路五条を右折し西大路通りを上がり北野白梅町にある、本日の最後の目的地「ジャンボ」に向かう。今日の小旅行で撮った写真の中から、ジャンボ関連を掲載してみました。



お好み焼き2枚と焼きそば。その名の通りジャンボで、お好み焼きも大きいが焼きそばもこれで1人前と大量。大きいだけではなくて美味い!
イカ・豚・牛ミンチとタマゴ4個入りのお好み焼きも大量の焼きそばも値段は同じ750円。持ち帰りは800円。4人が満腹でギブアップ寸前になって2250円。今出川堀川角にある和菓子の鶴屋吉信で買った小さな生菓子4個とほぼ同じ値段なのだから、ジャンボは格安でしょ。



写真は焼きそば用。右のザルが冒頭の写真の1人前の量。左橋のザルはペアという名のダブルサイズの材料。驚くほどのビッグサイズです。



何の飾りっ気もない店内。我々が店に入ったのが4時40分。4時45分ですでに満席で手前は順番待ちの人たち。店で食べる客以外に持ち帰り客がやたら多く、ひっきりなしに電話注文が入り客が“生”(自宅で焼く)を受け取りに来る。



すごいなと思うのは、“生”を2個3個と持ち帰っている(右端の女性は持ち帰り客)わけで、つまりは自宅に、この量が焼ける鉄板もしくはサイズの大きなフライパンがあるということ。粉文化の底ジカラを見る思いがいたしました。

京都まで往路3時間。帰路2時間30分。新名神が開通し京都がずいぶん近くなりました。

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