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Old Saltの日々雑感

日々雑感的に思うところを小さなウソと大きな誇張でデフォルメして掲載中!

ダルニーのカレー物語  




ダルニーのカレー青春編


大阪の阿部野橋から堺市の浜寺公園まで阪堺線という路面電車が走っています。僕の子供の頃はこの阿倍野~堺間だけでなく、通天閣のある恵美須町~平野方面に向かう北畠線という路線もありました。

飛田遊郭に住んでいた僕は近くの今池駅から電車に乗り、阿倍野斎場で阪堺線に乗り換えて松虫駅で下車して中学校へ通ったのでした。もっとも、電車賃が惜しいのでほとんどは徒歩で通学しておりました。
今は駅が無くなっていますが、阪堺線の阿倍野斎場の一つ南に、晴明通りという駅があって、その駅前に、50歳ほどの寡黙な店主が一人で経営していた非常に小さくて狭いカレー屋があったのです。
屋号は『ダルニー』と言いました。店内はカウンターだけの6席。店先にはカレールーの大鍋が置かれておりました。
その匂いが店の前を通る学校帰りの中学生の空腹感を「食べないか・食べていけ・食べないと・食べたら」と、四段活用で刺激するのですね。今でもその匂いが鼻腔に蘇ります。

ダルニーのカレーは秀逸でした。
いつも空腹だったから何を食べても美味しい年頃だったということもあるでしょうが、それだけではないのです。これまでの日記にも書いてきましたが、僕の義父は料理長を経てすし屋をやっていたので舌が確かな人でした。その義父に小学生の頃から本物の味を体験させて貰っていました。だから僕は中学生ながら味にはうるさかったのです。

ダルニーのカレーの特徴はさらっとしたカレー。さらっとしていても奥行きのある旨味と香りが素晴らしいというものでした。ご飯は当然のように硬めです。月に1度か2度食べられればいい方でしたが、ここのカレーを食べた日は終日至福でした。

松虫中学校の近くにはさる有名な高等女学校があって、そこの女学生が制服姿で時々ダルニーでカレーを食べていることがあったのでした。なにしろたった6席。肩が擦れ合うような狭さです。そういうところで同席。純情な僕はせっかくのカレーの味は吹っ飛んでしまうのでありました。けれども、それはそれで別の意味で終日至福であったのですね♪

思い起こせば、僕は中学生の頃から、綺麗なお姉さんが好きだったようです。

成人してからも、時々猛烈にダルニーのカレーが食べたくなって出かけたものでした。
20年ぐらい前でしょうか。久しぶりに足を運んだら、店は無くなっておりました。かなりショックでした。
僕が中学生の頃に50歳代に見えた親父は生きていれば70歳代。現役は無理で引退したのか、あるいは亡くなってしまったかのどちらかだったのでしょう。
この日を境に、ダルニーのカレーを食べる機会を失ってしまったのでした。

わが家のカレーは、このダルニーのカレーを原点に持つ僕が作るので汁っぽいカレーです。筋肉や鶏がらや色んな野菜を溶けるまで煮て、ガラを取り除いてからミキサーにかけます。じゃがいもは入れません。ミキシングしても舌にざらつき感が残るからです。
この5年ほど、試行錯誤を繰り返しています。失敗も繰り返しています。それなのに、未だにダルニーのカレーが再現できないでいるのです。近い!と思ったこともありました。でも違うのです。妻や娘たち、友人たちに、これは美味しい♪と言わせたいと思っているのですがダメなのです。ダルニーの味とオーバーラップしてくれません。僕は凝り性なので、これからもあくなき探求は続くと思います。

ところで、そんな矢先のことでした。
ちょっと思うところがあってネットで検索してみたら、

『ニューダルニー』とあるではないですか。

ご飯がアーモンド形の型で入れられたものではないですが、器や汁っぽいカレー部分が似ています。これはどう考えても、ダルニーのカレーに違いありません。

『ダルニー』から『ニューダルニー』へ。20年以上の時を経て、その間で一体何があったのか?
きっとニューダルニー誕生秘話のドラマがあったはずなのです。はたしてどんなドラマがあったのか。


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1977年4月。近くの、阿倍野斎場の駐車場の周りに植えられた桜の花が散り始めた頃のことだった。カウンターだけの店の裏にある狭い台所で野菜を刻んでいた親父の胸に突然キリリとした痛みが走ったのである。その痛みが心臓なのか胸なのかの判別がつかない。来年74歳。歳も歳だから大鍋を提げてあばら骨にヒビが入ったのかも知れないとも思ったのだった。
いずれにせよ、初めての痛みを体感したことで、もう潮時かなと親父は思ったのだった。

親父の名は陰浦幸一。幸一の父は道修町で薬材問屋を営んでいた浦上靖介である。この人こそ、後に「ホームカレー」の稲田商店を吸収し「株式会社ハウスカレー浦上商店」を設立した、つまり現在のハウスの創始者なのである。

幸一はその長男として生まれたのだが妾腹の子であった。それでも子供に恵まれなかったために父の跡を継ぐものと期待されていたのである。ところがである。扱っていた薬材の一つが不妊気味だった正妻に効いたのである。それが後のユンケル帝王液。もしかしたら妻よりも夫のほうに効いたのかも知れないが真偽のほどは不明のままだ。

やがて正妻は幸二、幸三という二人の男子を出産する。こうなると妾の子は不幸というのが世の常で、幸一も例外ではなかった。僅かな始末金で縁を切られてしまうのである。成人した幸一はお情けでハウスカレー浦上商店に勤めるようになるのだが、家督や事業は正妻の子供たちが継ぐことが本決まりになったことを契機に店を辞めることになる。そして妾宅があった晴明通り近くの駅前の小さな土地を手に入れカレー店を開くのである。やがて結婚して1男2女を授かる。商いは細々としたものではあったが、幸一は、ことカレーに関しては浦上商店には絶対に負けないという自負があった。そのための研鑽を日々重ねてきたのだった。

そんな幸一の作るカレーがやがて近所の評判になる。狭い店だけの商いでは客が入りきらないので、セロファンの袋(ビニールの袋はまだ誕生していない)に詰めて店頭でも販売したのだった。
ある日のこと、近くの(徒歩4分)阿倍野斎場に故人の見送りに来た某会社オーナーが小腹が空いたので店に立ち寄ったのだった。そしてカレーの美味さに絶句したのである。彼の名は佐治敬三。洋酒の寿屋の次男坊、後のサントリーの会長である。敬三とハウスの浦上靖介はたまたま家が隣同士ということもあったので、佐治はお土産に買って帰り靖介にプレゼントしたのである。

翌日、息子の幸二が店を訪れる。浦上家の中で唯一幸一とは仲がよく、幸一に優しい弟だったのだ。その弟が低迷するカレー事業を立て直すためにレシピを教えて欲しいと懇願しに来たのだった。幸一は、他ならぬ幸二の頼みゆえ、何の見返りも求めず作り方の全てを教えたのである。それが2年後に発売されるハウスバーモンドカレーなのである。
ちなみに幸二の娘が西条秀樹のファンだったので彼がCMに起用されたことは以前の日記に書いた通りである。

幾星霜。
幸一は老い、体調に不安を覚えて廃業を覚悟した。そして1977年6月にダルニーは店を閉じ、なんとその半年後に彼岸へと旅立ってしまうのである。

それからさらに22年後の2000年のある日。
陰浦幸一の長男保は中津にある済世会病院の内科待合で偶然の出来事に遭遇する。待合で座っていると看護士が「浦上幸二さん!」と呼んだのである。保はその名に反応して顔を上げると、名指しされた人物が席から立ち上がるところで、その横顔が父の幸一に似ていたのだった。幸二の名は父から聞かされていたからすぐに叔父ではないかと思ったのだった。そこで、おずおずと尋ねてみたところやはりそうだったのだ。

その時にカレーの話が出たのである。幸二は幸一に世話になったこと、幸一の作るカレーに感動したことなどを語り、店がなくなってしまったことを残念がったのであった。そして再建してはどうかとまで言ったのである。
その時の保は、都島にある雪印乳業に勤めていたのだが会社が古い牛乳で食中毒事件を起こし消滅し、その事件の対応や後始末で胃潰瘍になり病院へ来ていたのである。幸二の話を聞いてダルニーの再建をしたいと保は思った。だが、保にはカレー作りのノウハウも資金も無かった。

2週間後、幸二から会いたいという電話が入る。会ってみると、古ぼけたメモと500万円の現金が渡されたのであった。
幸二は「僕もリタイヤして財産は生前分与しているので自由になるお金があまりない。だからこれだけしか援助できないが、ぜひ店の再建に役立てて欲しい。こっちのメモは兄さん、君のお父さんから教えて貰ったダルニーのカレーのレシピだ。昔のものなので一部消えている部分があるが、この通りに作ればほぼ再現できるのではないかと思う。あとは、作りながら勉強して、お父さんの作ったカレーに近づいて行けばいいと思う」と言ったのである。

そうした経緯があって、2002年春。ダルニーはニューダルニーとなって復活したのである。京都なら錦市場、大阪なら黒門市場といわれるその黒門市場の一角に、昔と同じような狭い小さな店としてオープンしたのだった。

(つづく)



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ダルニーのカレー完結編


さて、そのニューダルニーのカレー。お味の方はどうだったのでしょうか。
結論から先に書きましょう。

不味かったです!

ネットではたくさんの人がニューダルニーのカレーを褒めていました。僕はお店紹介やグルメ案内を信じない方ですが、ことダルニーに関しては元祖の味を知っていますから、食べた人たちの感想を素直に信じたのでした。けれども、信じた僕が馬鹿でした。彼らはおよそグルメとは無縁の舌の持ち主ばかりだったのです。

店内に一歩足を踏み入れた時点で「不味いかも」という予感がいたしました。元祖ダルニーと同じようにカウンターだけの店なのですが、ダルニーがシンプルで清潔な店であったのに対し、ニューダルニーの店内は雑然としていたからです。とても同じ思想を受け継いだ店とは思えなかったのでした。壁に貼りつけられたメニューを見て、その思いをいっそう強いものにしたのでした。

エビカツカレーと大書きされた札が貼られているではないですか。カツカレーというのも貼られています。まあこれは百歩ほど譲って許すとしましょう。けれども、「カレーうどん」は許せんぞ。大阪市長が許しても僕は絶対に許しません。
なにかい。カレー屋だったらカレーとつけば何でも許されるのか?
カレーパンもOKなのか?
カレー風味のポテトチップもありか?
カレー味のイカの燻製も
カレー味の肉まんも
カレイの煮付けも売っていいのか!!
それじゃあダルニーじゃなくて、ダルイだろ。ダルすぎるでしょ!!!

カレールーも不味ければご飯も不味かったのでした。米が安物。炊き方もなってません。ダルニーのご飯は硬めに炊きあげてあったのです。さらっとしたルーに硬めのご飯。それがダルニーのカレーでした。その、ダルニーのカレーかくあるべしという哲学を学んだ形跡がどこにも見られないのでありました。
こんな素人以下のカレーを売って「カレーの店」はないやろと思ったのでありました。

そういうことをぐっと堪えて、年の頃なら43~45歳。化粧と今風の顔立ちとヘアスタイルからそう見えるが、実質は53歳ぐらいの店主の嫁風の女に「阿倍野にあったダルニーと関係があるのですか?」と尋ねてみたのでありました。
するとその女は「あらっ。あっちの店をご存知なのですね。えっ、ええ、親戚筋になります」と答えたのでした。丁度そのとき、年の頃なら37~42歳ぐらいの店主とおぼしき男の、カレー皿にメシを盛る手が、瞬間止まったのでありました。

「味が変わりましたね」と僕が言うと、「そうですか」と答えた女の目線が僕から外れ、と同時に男の顔も若干他所を向いたのを僕は見逃しませんでした。
この店は、ダルニーとはまったく何の関係もない店なのだ、そうに違いないと確信したのでした。そもそも親戚ではなく、親戚筋という言い方がおかしい。

親戚もしくは親族というのは、ざっと25等親ぐらいあるのだ。祖父母のイトコとかイトコの大叔父大叔母の孫あたりが最も遠い。この辺りの親戚だと天体でいう海王星・冥王星ほども遠い。親戚や親族でこれなのだ。筋はその系列ということだから、全くの他人であってもおかしくなほどのスジもある。

今回は、目を泳せながら「・・親戚筋なんです」と言った。
この場合の「筋」は、普段は大字(おおあざ)田舎字(あざ)田舎といった人口数百人の小さな村で、一人細々と畑を耕しているオヤジが年に1度の村祭りに子供会の御輿の先導をして、ふるまわれた御神酒に上機嫌になって、村の若衆に「オレはよ、こう見えてもよ、△△(広域暴力団)の、筋にあたるのよ」というのと同じほどの無関係な遠さだ。

ではご期待の、ダルニー物語完結編をどうぞ。もちろん、青春編同様、フィクションでございます。


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昔、男は阿倍野筋3丁目5-2-203に住んでいたのです。ご存知の方はご存知のように203というのは部屋の号数です。2階の3号室ですね。住所を正確に書くと、大阪市阿倍野区阿倍野筋3丁目5番地の2 アベノ寿ハイツ203号室です。名前は山内吉男と言います。
山内は高校を卒業して18歳の時に福井県から大阪に出て来てとんかつのKYKに調理師見習いで入社したのでした。将来は国に帰ってとんかつ屋を開くのが夢だったのです。ところが、料理の感性が今一つ鈍感なことに気づきます。早く言えば下手なのです。それでも我慢し勤め続けて10年経ちました。料理は下手のままでしたがカツを揚げる腕は上達しました。
そんなある日のことでした。アベノ近鉄百貨店前の旭町通りの路地を入ったすぐのところにあるキャバクラ「フェアリー」に同僚と入ったのでした。ここで運命的な出会いをするのです。それが今の嫁、美樹という源氏名で出ていた吉岡公子だったのでした。山内は公子は自分よりも歳下だと思っていたのですが実際は12歳年上だったのでした。縁とは不思議なもので公子も福井の出身だったのです。そんなわけで二人は付き合うようになります。そして小さくてもいいから店を持ちたいと夢を語り合っていたのでした。その店は当然トンカツ屋のはずが、そうではなかったのでした。

毎日800枚のトンカツを揚げていた山内は、とっくにトンカツに飽いてしまっていたのでした。トンカツ屋よりも休みの時によく行っていた近くのダルニーのようなカレー屋をやりたいと思っていたのです。
そんな矢先、ダルニーの親父が急死します。前回の物語では親父には息子がいましたが、今回の親父には息子がいません。親父はカレー探求に熱心すぎて婚期を逸し妻も子供もいませんでした。身寄りすらいなかったのです。そういう事情を知っていた山内吉男は、「よし俺がダルニーを継いでやる」と勝手に決めてしまったのです。たかがカレーじゃないか、俺でも作れると過信したのですね。

屋号は「ニューダルニー」です。
ダルニーの味を残そうという熱意は買えます。けれども、それがいい迷惑ということもあるのです。人間、熱意だけで満願成就するのなら、焼き芋やの親父は皆出世します。湯たんぽがホームセンターで350円で叩き売りされることもないのです。熱意も大事ですが能力はもっと大切です。そのことに山内は今も気づいていないわけですね。

もしかして、ニューダルニーの嫁の「親戚筋です」というのは、ダルニーの味とは親戚筋ほども遠い味という意味だったのでしょうか。

〔 完 〕


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ダルニーの名の向こうに




『かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を怖れるのだ。』

この書き出しで始まる「アカシアの大連」(清岡卓行:1969年芥川賞受賞)は、故郷の大連で出会った亡き妻との思い出を綴った私小説風の作品である。

アカシアの大連というタイトルと、この書き出しの文章だけで、見も知らない大連の情景が目に浮かぶ気になってしまうのは僕だけではないと思う。そして、情景だけでなくその心情にすら同化してしまうのではないだろうか。

想い出は年月とともに不純物が除かれ純化していく。遠い記憶ほど鮮明に覚えているのは、純化された記憶は劣化しないからだ。その純化した記憶のままに想い出の地を訪れてみると、大きく様変わりしていたり、記憶違いだったことに気づいたりする。古墳を発掘し陽に晒したのと同じで、純化していた想い出が瞬時に風化し色褪せ、ときには記憶そのものが消え去る。あれほど鮮明に覚えていたものが思い出そうとしても思い出せなくなるのである。思い出しても、はたしてこの記憶は正しいのかと自問してしまう。

“あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないか”というのは、自分の中で純化し鮮明に残っている亡き妻とのあれこれが実際の通りの中に立ったとたんに風化し、記憶そのものが消え去ったらどうしようという不安からなのである。それは彼にとっては何物にも代え難い喪失なわけで、だからこそ彼にとっての大連は、“かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない”ところなのである。

大連は遼寧半島(中国遼寧省・北朝鮮の少し西)の先端にある。大連はロシアがこの地を中国から租借し作った町だ。パリの市街地を真似て作られたといわれている。モスクワから遠くアジアの東の端にあるため『ダーリニー・ヴォストーク』と名付けられた。ダーリニーは遠い、ヴォストークは東。極東という意味だ。
やがて日露戦争が勃発。この戦争に勝利した日本がダーリニーの租借権を得る。ダーリニーの中国語の発音に似た漢字を当てはめ大連となった。やがて多くの日本人が住むようになる。「アカシアの大連」の作者清岡卓行はそんなこの地で生まれ育った日本人の一人だった。彼は第二次世界大戦の敗戦で故郷を喪失してしまうわけで、加えて大連で出会った妻も亡くすという喪失感が重なりアカシアの花が香る大連の町を昇華させ作品にした。

この本が発刊された当時、多くの読者が大連に思いを馳せたに違いない。誰もが行ってみたいと思ったはずだ。日中友好条約が締結されたのは1972年のことなので、この本が発刊された69年はまだ国交は途絶えていて中国は近くて遠い国だった。行きたくても行けない国だったからなおさら、作者も読者も大連に思いを馳せたのではあるまいか。

大連(ダイレン)は中国語読みだとダルニー。
繋がりましたね。冒頭のカレーの写真と・・・。

僕のカレーの原点である「ダルニー」の店名は「大連」だったのだ。このことを知ったのはごく最近で、カレーに関する何かをネットで調べていて知った。中学生の頃から気になっていた屋号の謎が解けとても感動したのだが、と同時に、これまではカレーの味だけに拘泥していた目が店主の方に向いた。

店主は敗戦で故郷を追われた大連からの引き揚げ者だったに違いない。「アカシアの大連」の作者同様、故郷を失ったがゆえにいっそう故郷に思いを募らせ、店の名をダルニーとしたのだろう。

僕の記憶の中で年月を重ね昇華し続けているダルニーの“純カレー”は、たぶん、大連仕込みの味なのだ。6人しか座れないカウンターだけの狭い店内で、ゆっくり黙々と大鍋を木べら混ぜていたのは、ルーを焦がさないための所作ではなく、遠い故郷を思い身を焦がしている自分をなだめていたということなのか。半世紀前の阿倍野区晴明通りの路面電車が走る風景は大連の町の景色と確かに似ている。だから停車場のそばに店を構えたのかと、今振り返ってそう思う。

彼には遠い遠い大連だが、僕も同じで、何度挑戦しても決して行き着けないダルニー(遠い)のカレーなのである。

コメント

懐かしい~~!
私はまだ子供で父母に連れられて連れていた犬も一緒に
お店に入ったのを覚えています。
そこから南に歩いて「松虫」の次の駅、東天下茶屋が最寄り駅で
そこからまた10分ほど歩いた橋本町に住んでいました。
母も父も亡くなり、遠い思い出となった「ダルに―」を
何故か急に思い出しPCで検索するとこの文章が
目に留まりこうしてキーを打っています。
詳しく綴られた文章に当時の風景が蘇りました。
ありがとう!!

ウネガワ #- | URL
2019/02/18 01:04 | edit

TAKAさん

よくぞご指摘いただきました。

中道でしたね。通りは共立通り。路線名もご指摘通りです。
すっかり記憶違いをしていました。
創作の方に没頭していて地名その他の検証がおろそかでした。

ご指摘いただいたおかげで「なにか違うな」という部分の違和感が解消しました。
磨りガラス越しに見ていた景色が白内障手術でクリアになったとでも言いましょうか、ぼやけていた記憶の中の当時の風景が鮮明に象を結びました。

そう、私はそういうオトシゴロなので、半世紀以上も前の記憶を辿った物語なのです。
たぶん他にも気になる箇所があるとは思いますが、ご容赦ください(笑)

TAKAさんのダルニーの記憶、残っているイメージはどういうものか、もしあの地域にお住まい、もしくは昔住んでおられたのなら、町のことや記憶に残る店などの話を聞かせていただけると嬉しいです。

コメント、ありがとうございました。

たかのつめ #- | URL
2019/02/24 08:08 | edit

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