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Old Saltyの日々雑感

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道具へのこだわり  




道具へのこだわり


作家を、そうだな、ちょっと洒落た作家がいいな。そんな作家のことを少し紹介して、文章を創作するということについて書いてみよう。



もう亡くなってしまったが、開高健なんかがいいんじゃないかな。手垢にまみれた言葉を使うのを嫌った、独自の表現がとても魅力的だった。
彼の旅行記もドキュメントも、釣りの話しも、酒や食べ物の話しも、人を語る場面も、それぞれを引き立たせ、光らせ、重みを持たせ、立体化させ、大きさを見せ、そして読者に静謐な興奮と感動を与えた。おそらく、彼のような作家は二人と出現することはないと、僕はそう思っている。



時代は変わってしまったんだ。ペンを持たなくなったことが大きい。PCが原稿用紙とペンの道具、つまり表現の道具になってしまった。
とても簡単に文字が書け、画数の多い漢字も悩むことなく瞬時に表記できてしまう。 画像だって貼り付けることが可能だ。なるほど、とても簡単だ。
けれども、とても簡単になってしまったおかげで、一つの単語を眺め味わうことをしなくなった。例えば”静謐”とか”茫漠”といった言葉。
どういう時に静謐を使おうか、どういう心的状況や風景を茫漠と言うか。そういうことを 吟味しなくなってしまった。その言葉で表現仕切れないと思えば、自分の単語を創作する、そんなこともしなくなった。だから、文章に味がなくなってしまった。



開高健は何本ものペンを持っていた。何本ものパイプを持っていた。何個ものzipooを持っていた。レアモノの爪切りも持っていた。小さな庭のある和室に文机を置き、その上にペンやパイプやライターや爪切りを置いて執筆した。何も書けないときは、うん うんと頭の中で文章をこねくりまわしながら、万年筆を分解掃除したり、パイプの掃除をしたり、ライターを磨いたりしていたのだ。そして、うんうんと唸りながら背中を丸めて足の爪を切ったりした。



文章を書く行為に直接関係はないが、こうした道具はいわば必須だったのだ。そしてその道具は、慈しみながら手入れができる上質のものでなくてはならなかった。
100円のフェルトペンでも字は書ける。けれども、分解掃除はできないし、何のイメー ジも湧かない。だから、ぼんやりとペンを眺めながら文章を練る役には立たない。優れた道具は想像力や創作意欲をかきたてたりする。気分を丸くしたり広くしたりする。そうした時に、ポロリと文章が転がり出てくるのである。



このライターならあの煙草を、あの煙草ならこの酒を、この酒ならアイツとと、道具が 繋げてきたそんな連鎖もいまは途切れがちだ。
もう、かつてのように万年筆が復活することはないだろう。真似ようにも、開高健のよ うな創作スタイルは継承できないのだ。つまり、彼のような秀逸な表現ができる作家 は、2度と現れないということなのである。

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