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Old Saltyの日々雑感

日々雑感的に思うところを小さなウソと大きな誇張でデフォルメして掲載中!

一枚の写真から  




一枚の写真から


友人のブログに掲載された写真を見ていて、その中にロバート・キャパの写真を思い出させるような一枚があった。ジャンルも被写体もまったく違うのになぜそう思ったのか少し考えてみたのだが、自分を納得させる答えは見つからなかった。あえていえば、被写体に対する思い入れだ。レンズの向こうの家族全員の我を忘れた表情、関西圏の表現でいうところのアホ面に、彼の思いの丈が重なったのである。
いい写真は、レンズを意識した被写体よりも意識していない被写体の方が圧倒的に出来がいい。

以前、彼の写真に「最近は考え過ぎていないか」と言ったことがあった。彼も、「そうかも知れない」と答えていたのだが、なぜそんなことを質問したのかというと、被写体がレンズを意識していたからである。草花だって長くレンズを向けられていると意識するのである。それは無機質な対象物も同じだ。被写体がカメラのレンズを意識する直前の、「あっ見られてる!」と感じたときというのは、それはすなわちカメラマンの思いが重なった時で、その、「見られてる!」と意識する寸前にシャッターは押されていなければならないのだ。
簡単に言えば、それがシャッターチャンスちゅうことやね。
補足すると、カメラマンの心のシャッターチャンスね。

彼は高級一眼レフデジカメを手に入れ、出張費を水増ししたり安ホテルを使ったりコンビニ弁当で腹を満たすといった節約をして買い込んだレンズやフィルターなどの道具に慣れてきて、出来上がりが想像できるレベル、換言すれば道具に使われるのではなく道具を使いこなせるようになってきたのである。そうなると“無心”が少なくなる。画を作ろうと考えるのだ。
彼はかなりいい写真を撮るようになったけれど、まだまだ心のシャッターチャンスとのタイムラグが有るのだ。先に述べた家族の写真の時は、偶然にもタイムラグがほとんどなく、彼の思いが家族の“意識がカメラ目線”になる直前にシャッターが切られたのである。
ま、下手な鉄砲とカメラは数打ちゃ当たるということですね。

キャパが出てくると、日本だったら誰だろうかなどと、いつもの僕の連想が始まる。そいう連想をさせてくれるブログはいいなと思う。

報道カメラマンとなると、澤田教一や岡村昭彦、石川文洋といった名が出てくるだろうが、僕の場合は秋元啓一だ。それは開高健を通じてということなのである。
僕は開高健の作品が好きで、その作品のほとんどを読んでいるつもりなのだが、彼がベトナム戦争時に報道特派員として米軍に従軍し戦地を駆け巡った時に同行したカメラマンが秋元啓一だったのである。


マジェスティックホテル(サイゴン)


取材で米軍と共に移動中、Dゾーンというところで200人の部隊のうち17人しか生還できなかったという猛烈な攻撃を受けるのだが、二人とも奇跡的にその生き残りの17人の中にいたのである。また、サイゴンでのジャーナリストたちの常宿だったマジェスティホテルの自分たちの部屋の隣に砲弾が打ち込まれるなど、何度も死地を潜り抜けて生き延びてきたのだった。


(左)開高健 (右)秋元啓一

生還を果たしたときに互いに1枚づつ写真を撮り合う



日本へ帰国した二人は年に一度、山ほどの酒をホテルの一室に持ち込んで朝まで浴びるように飲んだという。それは秋元が死ぬ1979年まで欠かすことなく続けられた。その開高健が亡くなるのは10年後の1989年。59歳だった。

1989年頃の僕はというと、大阪守口市にある公団住宅に住んでいた。彼が亡くなったその日(確か12月だったと思う)は月曜日だったような気がする。というのも週末にハーバーで足首を捻挫して当時付き合っていた彼女の運転で病院へ行き、今まさに団地の駐車場に入ろうとした時に、カーラジオのニュースで訃報を聞いたからである。
その訃報は、母親、無二の親友の死に次ぐ大きな衝撃だった。

彼の死後1ヵ月後ぐらいだったか、開高健を偲ぶ3時間の特集番組がテレビ放映される。スポンサーはサントリー。彼はかつて洋酒の壽屋(後のサントリー)広報部に席を置いていて、「人間らしくやりたいナ」や「何も足さない何も引かない」などのキャッチコピーを生み出した。サントリーの佐治敬三会長とはその時からの付き合いで、彼が作家になった後も公私両面で長くて深い親交があった。
3時間の特集番組は、放映中、唯の一度もCMが流されることが無かったのである。CMを流させなかった佐治に、彼の、開高健に先立たれた深い悲しみ、彼に対する最大級の敬意を感じてならなかった。
その佐治敬三氏は、奇縁というか、やはり10年後の1999年に彼岸の人となるのである。

佐治敬三という人は、財界人というよりは洒脱な趣味人で、豊かな感性と教養と舌を持っていた。二人の大阪弁での対談などを読んでいると、語られる内容のレベルの高さに驚くだけでなく、いたるところに上質な笑いが散りばめられていてシンフォニーであったりハーモニーであったりと、読者を魅了するのである。そんな関係であったからこそ、3時間の特番を、佐治敬三は開高健との最後の語らいとしたのだと思う。

これから先は余談になるのだが、二人は欧州へビールを飲む旅に出たことがある。色んなビールを飲み続け帰国し、成田空港で無事の帰国を祝ってまずは一献と国産ビールを飲み、国産ビールの不味さに気づくのである。開高健に「これななんですな。不味いですな」の言葉に頷いた佐治は美味いビールを作る決心をする。
1986年。米やトウモロコシやコーンスターチや大麦等の副材料を一切使わず麦芽100%のビールを生み出す。サントリーモルツである。モルツは、二人の舌にかなったビールであった。

なあんて書くとビールのCM?と思われてしまいそうだが、どう受け取ろうとアナタの自由です。

1987年春。世界で唯一の太平洋縦断(横断は存在する)ヨットレース、「メルボルン~大阪ダブルハンドヨットレース」のウエルカム事務局長を担当した僕は、海の男女に欠かせない酒、特にビールで歓待しよう思った。思ったけれど予算がない。そこでサントリーにサプライヤーのお願いに行ったのである。サントリーの広報担当者は「ああ、いいですよ」と二つ返事でOK。あまりの軽さに10ケースほどだろうなと思いハーバーへ戻った。数日後、クラブハウスの前にトラックが横付けされ、なんとスコッチウイスキー50ケース(90本)、サントリーモルツが500ケース(6000缶)も届けられたのである。
その多さにサントリーの好意を素直に喜べず、売れてなくて在庫を抱えていると穿った見方をしてしまったほどだった。
飲んでみて驚いた。サントリーはビールは専門外と思っていたからこれまで飲んだことがなかったのだが、予想外の美味さだった。外国のヨット乗りたちにもとても好評だった。事務局を担当した2ヶ月間で一人で500缶は飲んだと思う。

モルツが、前述したような佐治敬三と開高健の思い入れのこもったビールであったことを知るのはずっとあと、開高健が亡くなる前年の1988年のことなのである。


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