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Old Saltyの日々雑感

日々雑感的に思うところを小さなウソと大きな誇張でデフォルメして掲載中!

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このアルバムについて、ブログに次のようなことを書いたことがある。

先日、横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」が、その73年の歴史を閉じた。最終日は閉店を惜しむ常連客や、かつて常連客だった人たちが最期を見届けようと全国から集まったようだ。閉店時間がきて、店の6千枚の中から選ばれターンテーブルに乗せられた最後の1枚が写真の、Kenny drewのレコードだったのである。

このレコードのA面の1曲目はcaravan。ジャズに興味のない人でも一度は耳にしたことがある曲のはずだ。そしてB面ラストがit's only paper moon。ナッキンコール(Nat King Cole)の歌で有名だが、彼の歌とは一味違うスインギーな演奏になっている。この2曲を含め、収められた8曲の全てがテレビCMや映画のBGMなどで聴いたことがある曲ばかりなのである。

「ちぐさ」が最後の1枚にマニアックなものを選ばずKenny drewのレコードを選んだのはなんとなく分かるような気がする。最後の1枚は、店に集まった全ての人たちの中にあまねく沁みるものでありたいわけで、それにはポピュラーな作品こそがふさわしいと思ったのではあるまいか。

かつてはたくさんのジャズ喫茶があったが、僕は苦手であまり行っていない。陰鬱な表情のしたり顔でジャズを聴いている客の雰囲気が嫌いだったからだ。名曲喫茶というのもあって、なぜかそれはクラシック音楽を聞かせる店で、クラシックを名曲と言ってはばからない傲慢さがジャズ喫茶以上に嫌いだった。

いつだったか、日米安保条約の更新を阻止するため新宿御苑付近で無届けデモを敢行したことがある。投石と放水で騒然とする中で僕たちの正義は国の正義に見事に打ち砕かれて散会したあと、ヘルメットを小脇に抱えて仲間たちと喫茶店に飛び込んだらそこは名曲喫茶だった。中に居た客たちは借りてきた猫のように大人しくかつ瞑想状態で、ドカドカと入り込んで来た僕たちを見て露骨に嫌な顔をしたのである。彼らにとって僕たちは場違いな存在だったろうが、僕たちにとっても彼らは異常なものに見えた。

  あなたの周りをご覧なさい
  あたりの河は水かさを増して
  あなたは河底に沈められ 押し流され行く
  溺れる前に泳ぎ始めよう
  時代は変わって行く


ボブ・ディランのこんなメッセージソングとは無縁な彼らは、“今”という世間とコミットすることなく“200年前の名曲”に浸っているわけで、「こいつらは国家権力よりも手強い」と痛切に思ったものである。
マニアックなジャズファンや名曲ファンに反吐が出る思いがするのは、このフレーズが、ここのところのテンポがと、木を見て森を見ない瑣末で矮小な薀蓄を語る評論家的なのがあまりにも多いからだ。

ジャズが闘いと営為によって系を成す具体者の血と肉体によって書かれた歴史であるという事、そして決して忘却されてはならない行為者の軌道と死によって“常に新たに見いだされ、常に新たな意味を生み出し、晒されるべき”生きたディスクール闘いによって満たされた“場”であるという事、このことこそがジャズの音楽の形式、音楽のジャンルに押し込めなかった、ジャズ自体の生成力であり、発展力であり、批判力となって来たのだったし、それ自らを新たなコンテクストの内に再生し、基礎付けて来た運動原理であったのだった。

ジョン・コルトレーンのレコード「至上の愛」に添付されている説明文だ。句点「。」の無い長い1文だが、これはほんの一部分で、レコード説明に入る前のジャズの話が4千文字も続く。そしてレコードの説明とコルトレーンの説明へと続く。その文字量は1万2千文字。その全文が上の例文のように難解ぶった抽象的な空虚な文の羅列なのである。
上の一文、あなたは内容が理解できました?
ジャズミュージシャンの誰がこんな無意味な講釈を垂れて演奏しているというのよ。
彼らは音楽を楽しんでいるのではなく薀蓄を語ることが高尚だと思い、その優越感を楽しんでいるだけでしかない。こういう輩をエセ・インテリという。

僕も喫茶店でよくジャズを聴いた一人だが、そこはジャズ喫茶ではなくジャズを流している喫茶店だったからにすぎない。BGMとしての聞き流しだから、マスターと音楽談義をする一方で友人たちと駄弁ったり女友だちとコーヒーを啜ったりした。そういう客がほとんどだったから、「皆静かに。新譜入荷だから。これ良いから。聴いてくれー!」とマスターが声高に叫ばなければ誰も真面目にスピーカーに耳を傾けなかったものだ。音楽とはそういうものだと思う。息の長いまともなライブハウスほど喧騒で溢れ返っているものである。

そんなある日のこと、その店に突然、ガロの「学生街の喫茶店」が流れたのである。瞬時にして店内は静まり返ったのはいうまでもない。

  君とよくこの店に 来たものさ
  訳もなくお茶を飲み 話したよ
  学生でにぎやかな この店の
  片隅で聞いていた ボブ・ディラン
  あの時の歌は 聞こえない
  人の姿も変わったよ
  時は流れた
  あの頃は愛だとは 知らないで
  サヨナラも言わないで 別れたよ
  君と


「・・・・」
「どうしたん、マスター?」
「うちの店のために作られた歌のようではないか」
「ボブ・ディランがかかったことがあったっけ?」
「・・・そんな瑣末なことはよろしい」
「で、どうしたん、マスター」
「本日をもって店を閉めることになりました」
「・・・」
「生でJazz 聴きたいので向こうへ行くことにした」
「閉めなくても、留守中は誰かに店を預けて行けばええやん」
「そうしたい。けど渡航費と滞在資金が無い。だから店を売った」

かくして突然、惜しむ暇もなく、店は無くなった。

半年後、持ち主が変わったその店はノーパン喫茶になって新規開店した。

そのことをNYに滞在していたマスターに手紙で知らせると、
「わはは。帰国したら一緒に行こう」と返事をくれたのだが、
結局、五番街のマリーと一緒になって未だに帰国していないのだ。

ガロの「学生街の喫茶店」を耳にすると、
ジャズを流した喫茶店よりも、なぜか、
行けずじまいだったノーパン喫茶の方を思い出してしまうのである。

※「ちぐさ」は5年後の2012年に有志の人たちの手で再建され場所を代え復活している。

上の文章は「ちぐさ」が店を閉じた2007年に書いたものだ。
なぜこの文章を乗せたかというと、このところ毎朝の5時ぐらいから2時間ほど、レコードをPCにダビングしていて、今日の一枚目が「ちぐさ」で最後にターンテーブルに乗せられたのと同じKenny drewのレコードだったから。

所有しているレコードをPCにコピーし iPhoneやCDに焼き車で聴くといったことをしたいと思っていたのだが、以前使っていたレコードプレーやオーディオ機器ではそれができず、さりとて問題なく使えているプレーヤーを買い換えるには惜しく今に至っていたのだった。だがついに買い換えた。



これがそのプレーヤー。スピーカー内蔵なのでアンプも外付けのスピーカもいらない。そして、USBで接続すればPCにダビングできるのである。安価なプレーヤーなのだが、聴くに堪える音質で録音できる。
このプレーヤーはオートスタートやオートリターン機能がなく全て手動。レコードのスタートとPCの録音作業を同時にやらなければならないので面倒な部分もあるが、反面、それが楽しく感じられる。

早朝に聴くジャズ。これがまたよろしいのです。
その心地よさを長く忘れておりました。


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