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Old Saltyの日々雑感

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鍋焼きうどん秘話  




鍋焼きうどん秘話



大阪人の最も好きな食べ物はお好み焼やタコ焼だと他府県の人は思うようですが、それは大いなる間違いです。外国人が今も、日本はフジヤマと芸者とスキヤキの国で、ちょん髷で背広を着て新幹線に乗っている猿だと思っているのと同じです。



大阪人の一番好きな食べ物は“うどん”なのです。大阪のうどんは美味しいという評判は耳にしているでしょうが、まさかうどんが一番好きな食べ物だったとはご存知なかったと思うのですね。実は大阪人も気づいていません。大阪人にとってのうどんは空気のようなものなので存在していることすら忘れているのですね。

ちょっと違う例で説明いたしましょう。
烏賊(いか)と蛸(たこ)がおりますね。日本では昔から馴染みのある食べ物です。この烏賊と蛸。蛸の方は全国に色々と民話その他で残っていたり神体として祭られたりしているのですが、烏賊の方はほとんど活躍した話が残っておりません。
唯一ともいえる例が隠岐の島の神社に残された民話。この民話はどういうものかというと、隠岐の島のある小さな湾の浜辺で女の神様が水浴びをしていたところ、その神様のナニに烏賊が飛び込んでしまったのでした。女神様は激怒なさったのです。そして烏賊の代表を呼びつけ、無礼を償うために今後は毎年全員で神社参りをするようにと申しつけたのです。それ以降この湾には毎年大量の烏賊が押し寄せ、島民たちはバケツで掬ってとるような有様になったといいます。この話の背景にあるのは、日本沿岸には掃いて捨てるほど烏賊がいたということなのですね。

※乱獲でさすがに毎年というのはなくなったものの、今も数年に一度はイカの大群が押し寄せるそうです。


世界で一番烏賊を食べるのは日本人です。烏賊の加工品を含めると年間一人当たり何匹だったか、詳細な数字は忘れましたが世界の漁獲量の60%を日本人が消費しています。
それほどまでの烏賊好きなのには理由があります。先に書いたように日本には烏賊が溢れていたからです。どこででも烏賊が取れたので当たり前のように烏賊を食べていたのですね。日本各地に貝塚があります。大阪にはズバリ、貝塚という地名があります。鬼の大松率いる女子バレーが金メダルを取った日紡貝塚(日本紡績貝塚工場)があるところですね。
貝殻でできた山を貝塚といいますが、それほど貝を食べていたという証です。日本人は潮干狩りが好きなのも。遠い昔に好き放題に獲れた貝への憧憬がDNA を刺激しての行為なのです。貝と烏賊は全国どこででも掃いて捨てるほど獲れたので有り難味がありません。民話にすらならない存在だったわけですね。

大阪人のうどんは、日本人と烏賊の関係と同じなのです。大阪人には当り前の食べ物なので誰もが一位とは思わずに日々うどんを食べているということなのです。



そのうどんですが、うどんそのものの味を楽しむのは讃岐(香川県)です。腰や喉ごしなど麺の美味しさを味わいます。だから釜揚げなどのシンプルな食べ方が主流。
大阪のうどんは麺ではなくくトッピングや出汁など、食べ方のバリエーションを楽しみます。うどんは一度茹でて冷やしたうどん玉を再度暖めて使います。ベトナムやタイの米粉やホーの食べ方と親戚関係にあります。
ほ~と感心しないように!

きつねどん兵衛の東西版の違いが出汁であるように、大阪のうどんは出汁が決め手になります。いかに美味しい出汁でうどんを食べるかがポイントなのです。昆布と鰹節と鯖節、この3つのブレンドが決め手になります。鰯やハゼ、アゴ(飛魚)、秋刀魚などの干物をブレンドすることはありません。この干物出汁を混ぜたラーメンが節系などといってもてはされていますが、魚臭いあれを美味いと思うのは名古屋以東の、ジャンクフードで舌のミライが麻痺してしまった人たちだけです。

大阪のうどんの基本は出汁にありますから、うどん屋の良し悪しは素うどんで見極めます。素うどんの美味いうどん屋は他のものも美味しいのです。薄味の中にコクと風味がある出汁で食べますから腰が強くて出汁がからみにくい讃岐系のうどんだと麺が勝ってしまうのです。茹でて作り置いた個性のないうどんの方が合うのですね。

関東方面では“かけ”と、汁をかけただけだかんね!一番安い喰い物だかんね!と馬鹿にした扱いをしますが、大阪では“素うどん”または“すうどん”と堂々とメニューに記されます。「出汁の美味しさを素のうどんのシンプルな食べ方で検証してくれ!」といううどん屋のおっさんの心意気が素うどんなのです。大阪のうどん屋でメニューに素うどんが載っていない店は不味いと思えばいいでしょう。

関東方面では一杯のかけ蕎麦を家族で食べるのは貧乏人の象徴とされていますが、大阪では、真逆の金持ちの食べ方なのです。
京都在住の元華族や元貴族、神戸芦屋のセレブ、大手洋酒メーカーや製薬会社の経営者などがうどん屋に入ると、まずは家族で一杯の素うどんを分けあって食べて薀蓄を傾けるのです。素うどんは高級ワインのテスティと同じなわけですね。素うどんで出汁を確かめてから、「父上はキツネにしよう」「母はオカメにしまっさ」「麻呂は鍋焼き食べちゃうもんねー♪」というように注文するのです。

大阪人にとってのうどんはそういう存在なので、大阪人の誰もが、うどんに関する思い出を1つや2つぐらいは持ちます。当然、元大阪人の僕も例外ではありません。

僕の場合、すうどんと聞くと、新聞配達が思い出されます。
小学3年生ぐらいの時でしたか、新聞配達のアルバイトをしておりました。時々電車道をマンモスが歩くという、冬は今よりももっと寒かった時代で、早朝に店に行くのが辛くて週末は店に泊り込むのが通例になっておりました。そんな夜に、屋台のうどんを食べに行ったものでした。むろんすうどんです。大阪のすうどんは素とはいっても、素っ気無いの素(す)ではありません。薄い蒲鉾1枚、刻みネギ、おぼろ昆布や刻んだ薄揚げの一つまみぐらいはトッピングされていたのです。その熱々をずずっとすすりながら食べるのでありますね。寒さと空腹で縮んだ胃に出汁がガツンとキックして、それはもう至福でございました。

そんな大阪のうどんで、もっとも高級なのは“うどんすき”です。これは美々卯という店の登録商標なので一般的には使えませんが、つまりはうどんの鍋です。これは確かに美味しい。わが家では僕が味を再現しておりますからよく食卓に登場します。

次いで高級なのが鍋焼きうどんです。これも大好物です。鍋焼きうどんは子供の頃から好物でしたが、子供の小遣いだとすうどんかせいぜいキツネうどん。値の張る鍋焼きうどんは高嶺の花でした。
母と行った時はいつも“あんかけ”でした。出汁にトロミをつけておろしショウガを乗せたあれです。風邪を引くと母親にうどん屋に連れていかれるのです。当時のうどん屋には富山の置き薬の頓服薬もあって、あんかけを食べてからバラ売りで買った頓服を飲んで帰って布団を被って寝るのでした。そうすると汗が目茶目茶出て、2~3回着替えをすると翌朝には学校へ行けるほど回復したのでした。インフルエンザがまだ登場していないのんびりした時代だったのです。

鍋焼きうどんの思い出となると、玲子さんでしょうか。
小学4年生の頃でした。当時母は遊郭で仕事をしていて、その遊郭の玲子という名のこいさんと僕が同級生だったのです。母はシングルマザーだったので子連れで働くのは何かと大変ということもあり、これも縁と、僕は奈良の大和郡山にある彼女の実家に預けられたのでした。女衒のような風体の怪しいオジサンに連れられて天王寺駅から関西線の汽車に乗りました。D51 。蒸気機関車が当たり前の時代でした。
こいさんの実家に着いて驚きました。大屋敷でした。部屋数が幾つあったのか。裏庭の先には延々とブドウ畑が続いているという、地元では大富豪のお屋敷だったのです。その家から地元の小学校に通いました。どういうわけか、こいさんも転校してきて同じ小学校に通ったのです。まるで伊藤左千夫の野菊の墓のようですね。

楼閣の主は僕を娘の遊び相手か付き人にでもということだったのかも知れません。僕たちは仲が良かったのも事実だし・・・。
セレブなお嬢さんというのは綺麗な人というのが常識です。これは着飾れるし洗練されるから当然です。当時の世間はセピア色。その風景の中にこいさんだけが総天然色ですから綺麗で当たり前です。そんなお嬢さんと一緒に生活ができて、僕も幸せだったのでありますね。

玲子さんはお嬢さんにしては性格の優しい人でした。女の子の方がおませなので、僕に友達以上の好意を抱いていたと思うし、使用人の子という同情心もあったのでしょう。同じ年なのになにかとよく面倒をみてくれたのです。
そんな彼女に、大和郡山の駅前の小さなうどん屋で週に2度はご馳走になったのが鍋焼きうどんでした。自分の分も含めて2杯注文するときもありましたが、たいていは僕の分だけでした。僕が食べるのをじっと、嬉しそう眺めている彼女の表情が今も思い出されます。

そんな、僕にとっては異邦人的な生活もちょっとしたことで壊れてしまいます。

夏休みのある登校日。いつも二人一緒に家を出るのにその日に限って僕が先に登校したのでした。学校へ着いてからその日が登校日でなかったことを知ったのです。Uターンした帰り道で彼女と出会いました。
「どうしたん?」という問いに、なぜか、
「忘れ物をした」と答えてしまったのでした。イジワルをしようという気で言ったのではなかったのですが、そう答えてしまったのでした。

その夜、ご主人に大広間に呼びつけられ、正座させられ激しく叱責されました。そして「そんな嘘つきは家には置けん!」と通告されたのです。
翌日僕は大阪に戻され、元の小学校に戻りました。なぜか、しばらくして彼女も再び転校してしてきて同じクラスになったのでした。
「ごめんね。告げ口でいったんと違うんよ。こんなことになるとは思えへんかってん」と泣きながら僕に詫びたのでした。
元はといえば僕の潜在的な悪意というか金持ちへの嫉妬が原因。だから自業自得なのになぜか、この時から彼女が疎ましくなったのでした。それから中学の3年生までずっと彼女と同じクラスでした。クラス替えしてもいつも同じクラスというのが意図的なのか運命なのかの区別はつきませんでしたが、いつも彼女の柔らかい視線が注がれていたのは感じていました。



そのこいさんが後の大女優の大原麗子だと言っても誰も信じないことでしょう。



そしてこれが唯一残っている若い頃の僕たち二人の写真だと言っても誰も信じないでしょね。

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