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Old Saltyの日々雑感

日々雑感的に思うところを小さなウソと大きな誇張でデフォルメして掲載中!

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夏から秋への 能登半島  




夏から秋への 能登半島




上野 - 金沢間を走った夜間急行「能登」と寝台特急「北陸」が運行廃止になってもう6年も経つ。この二便はほぼ同時刻を走っていたから、「能登」は座席での夜行列車だったということだ。寝台特急はサスペンス小説を生むが、座っての夜行列車は寝付けないから様々な人生ドラマを生む。
寝台特急であれ夜行列車であれ、そのネーミングを聞くだけでノスタルジックな気分にさせられ15本、鉄道なので上り下りで30本ぐらいは文章が書ける。いや、書ける気分になる。連絡船や国鉄バスも含むとその気持ちもさらに大きくなるのだが、幾つものジグソーパズルのチップのような記憶がダイヤグラムのように錯綜し、何から手をつけようかという感じなのだ。



「能登」のようなボンネット型車両には暖かい記憶と寒々とした記憶の2つの記憶がある。
たしか、東京のモンゴル大使館へ行った時だったと思うが、行きは夜行バスだったのを帰りは列車で、それも東海道本線とは違うコースで帰阪しようと新宿から中央本線に乗ったのだった。8時丁度のあずさ2号に・・・。
狩人の『あずさ2号』がヒットし始めた頃のことだが、意図的に乗ったのではなく偶然乗ってしまったのだ。

  都会のすみであなたを待って
  私は季節に取り残された
  そんな気持ちの中のあせりが
  私を旅に誘うのでしょうか


と、口ずさみながら列車に揺られていたかどうかの記憶はないが、終着駅の松本まで旅した。ちなみにこの「あずさ2号」も今は走っていない。「あずさ」は走っているのだが新宿発松本行き下りの「あずさ2号」はない。ダイヤが変わり、上り便を偶数に、下り便を奇数に変えてしまったからだ。

松本で直江津方面からの名古屋行き列車に乗り換えたと思う。プラットホームがとてもローカルだったという記憶があるので、松本ではなく塩尻だったのかも知れないと、いま書きながら思っている。
いずれにせよ、春まだ浅い信濃路だったので肌寒く、「能登」と同じボンネット型の列車に乗り込んだ時に、食べ物やタバコの煙の匂い、人熱れで淀んだ暖房の効いた車内で空席探しをしている自分の姿が思い出せるのだ。これが暖かい方の記憶。

寒々とした方の記憶は大阪駅。早朝の始発の特急「飛騨」に乗った時だ。車内は暖房が入れられたばかり薄ら寒く、客もまばらで閑散としていた。「飛騨」はビジネス客よりも観光客向けの列車なのだが、車内には観光列車っぽい喧噪も華やかさもなく、僕と友人たちを除くと、地味なスーツを着た疲れた表情のサラリーマンばかりだった。彼らはまさか飛騨観とは思えないから、早朝の「飛騨」に乗るのは別の目的があってのことだ。おそらく名古屋かその先への出張なのである。支給された新幹線の旅費を在来線に変え差額を浮かすために早朝の列車に乗り込んだのだ。寒々とした光景に見えた。彼らは名古屋で全員下車したから想像は当たっていた。
僕たち貧乏仲間の観光旅行はスタート時から寒々としたものだったのだが、1泊2日の飛騨の旅は旅館の部屋も寒くて狭く、食事も不味くて量が少ないという、全てが不完全燃焼でつまらなく終わってしまったのだった。僕は演歌は嫌いではないが、竜鉄也の「奥飛騨慕情」を好きになれないのは、たぶん、この旅行のせいなのだ。

列車世代という言葉があるとすれば僕はその世代である。列車の全盛期を知っている世代であり、映画全盛、歌謡曲全盛時代を知っている世代でもある。恵まれた世代だと思うが、恵まれていただけに喪失感も大きい。だって、今も振り袖姿で歌うこまどり姉妹を見ると、その妖怪ぶりに鳥肌が立ち、その背景に、どう頑張っても決して取り戻せないモノがあることの大きさを知り、ため息が出てしまうもの・・・。
何事も引き際が肝心ということなのだろう。そういう点では、「能登」や「北陸」の運行廃止も、これが、引き際ということなのかも知れない。列車も人も、いつかはその人生の幕を閉じる。

と、寂しく終わるのが目的ではないので、列車らしく、しかし危険がない程度に、話を脱線させて走らせることにする。

列車となると、やはり石川さゆりだ。彼女は旅好きなのだ。

  上野発の夜行列車 おりた時から
  青森駅は 雪の中
  北へ帰る人の群れは 誰も無口(むくち)で
  海鳴(うみな)りだけを きいている
  私もひとり 連絡船に乗り
  こごえそうな鴎(かもめ)見つめ
  泣いていました
  ああ 津軽海峡 冬景色


この歌がヒットする5年前、上野発ではなく大阪発の夜行列車に乗った僕が降り立った青森駅もやはり雪の中にあった。北へ帰る人の群れは誰も無口だったのは、とても寒かったからだ、と思う。僕も連絡船に乗りさらに北へ向かい、凍えそうなカモメ見つめるまでは歌詞通りだったが泣かなかった。泣かなかったが、荒れる海に揺られて船酔いし、誰もいないアッパーデッキで、涙目になり吐いていた。そんな僕が、今は潮気たっぷりのヨット乗りなのだから、人生なんてホタテの貝柱だとつくづく思う。

  夜明け間近か 北の海は波も荒く
  心細い旅の女 泣かせるよう
  ほつれ髪を指に巻いて ためいきつき
  通り過ぎる景色ばかり 見つめていた
  十九なかばの恋知らず
  十九なかばで恋を知り
  あなた あなたたずねて 行く旅は
  夏から秋への 能登半島


津軽の旅のあと、絹代(さゆりの本名)は「能登半島」へ向かったのだ。
この歌が発売される8年前。僕も当時付き合っていた女性と夜汽車で金沢まで行き、岬巡りのバスに乗って能登半島を反時計回りに旅した。夏から秋ではなく、季節は春だった。能登半島の先端、祿剛崎で泊まった民宿は、今はない。

  バスの窓にキラリキラリ 波が光り
  岬までの道がつづく うねりながら
  季節はずれ 風がさわぐ海べりを
  私ひとり乗せただけの バスが行く
  これで心が 晴れました
  あなたなしで生きることに 決めました
  かもめつれて西へ走る フェリーボート
  私ぼんやり 南国土佐の昼さがり


「暖流」は石川さゆりの1977年の3部作の最後の曲。場所は四国の土佐。まだ本州から四国への橋が出来ていないから、山陽本線経由で岡山からフェリーで四国へ渡ったか、大阪の天保山か神戸三宮から船で徳島へ渡ったのだろう。そして土讃線で高知へ向かい土佐の某港まで国鉄バスの客になった。なぜ国鉄バスかというと、国鉄バスだからこそ、客が一人でも走ったからである。

この歌が発売される6年前に僕は、明石からフェリーで淡路島へ渡りバスで南端の南淡まで行き、赤玉蒸気船で鳴門へ渡り土讃線に乗り継ぎ土佐へ行った。土佐まで1泊2日の行程。土佐はとても遠かった。

このように、19歳の石川さゆりの1977年は、恋を追い列車やバスや連絡線で東奔西走していたのである。僕の場合は、何を追っていたのだろう・・・。

  隠しきれない 移り香が
  いつしかあなたに しみついた
  誰かに盗られる くらいなら
  あなたを殺して いいですか
  寝乱れて 隠れ宿
  九十九折り 浄蓮の滝
  舞い上がり 揺れおちる 肩のむこうに
  あなた…… 山が燃える
  何があっても もういいの
  くらくら燃える 火をくぐり
  あなたと越えたい 天城越え


28歳になったさゆりは、大人の女の激しい恋に燃えるのである。清楚で凛々しいとさえ感じられた彼女も妙齢の色香を漂よわすオンナになったのだ。
この歌から遡ること24、25年前、僕は天城峠(旧天城隧道)を徒歩で越えた。むろん伊豆の踊子の薫を追ってである。川端康成と同じコースを歩いたということだ。

2016年。58歳なった石川さゆりは、マウンテンバイクに買い物袋を乗せ、自由が丘近辺をのんびりと走り回っている。

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