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Old Saltyの日々雑感

日々雑感的に思うところを小さなウソと大きな誇張でデフォルメして掲載中!

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파이팅!  




파이팅!


韓国語の勉強に必死で、このところまったくブログを顧みていなかった。
その講座も先週で5回目が終わり残すは3回。道半ばを過ぎ落ち着いてきたかというと、まったく逆で、回を重ねるにつれ内容が難しくなって行くため、これまで以上に追い込まれている。

もう40年も前になるでだろうか。
司馬遼太郎の「街道を行く」モンゴル編に触発され、モンゴルに行きたいと切望していた時期があった。当時の日本では、モンゴルではなく蒙古、知っているのはジンギスカンとお尻の青アザの蒙古斑ぐらいのもの。モンゴル関連の情報集めをしても何もない状態だった。唯一見つけたのがモンゴル語教本の「モンゴール語四週間(小沢重男著)」だった。
著者の小沢重男氏はモンゴル研究の第一人者的存在(後に知る)だったのだが、その専門家ですらМонгол (モンゴル)をモンゴールと表記していた。
後にネイティブなモンゴル人から学んで知るが、Монголはモンゴールとは読めないのである。
そんな教本で独学でモンゴル語の始めたのだが、生のモンゴル語を一度も聴いたことがなく、今と違い音声が入ったCDなどの付録もないから、書かれている発音記号を頼りに発音してみても、合っているのかさえ分からない状態だった。

突然話が飛ぶが、当時の日本人は韓国に強い差別意識があった。その頃世間の顰蹙を買った農協主催のツアーがあった。名所旧跡観光は名ばかりで実際は買春ツアー。顰蹙を買っても止めなかったのは韓国を見下す差別感があったからに他ならない。両班(ヤンバン:朝鮮王国時代の貴族)が奴婢(ヌヒ:最下層の人々)を見下すのと同じ視点だったからだ。だから何が悪い?という感覚なのだ。
現在、日韓友好の大きな障壁の一つに慰安婦問題があり、強制連行された慰安婦がいたこが事実であるにかかわらず慰安婦などいなかったと否定する議員や国民が多く存在するのは、彼らの中に今も韓国を見下す意識があるからだ。

農協主催の団体ツアーは男だけでなく農村の主婦を対象にしたものもあった。当時は男だけでなくオバサンたちも朝鮮人に対する差別意識を持っていたから、金浦空港に降り立ったとたん、空港内に漂うキムチの臭いにノックダウンされ、目も口も耳も閉ざし、つまり、韓国の衣食住を楽しむことも理解することもなく、臭い国という悪印象だけを抱き帰国したのである。

時代が変わってもオジサンの意識は変わらず、せいぜい韓国からフィリピンやフィリピンパブに目先が変わった程度だが、オバサンは変わった。
例えば今回のトラベル韓国語講習仲間のオバサンたちはキムチを肴にビールを飲みつつ韓ドラ鑑賞し、チヂミをつまみながらK-POPなのである。昭和のオバサンたちにはクサイ臭いでしかなかったキムチが、平成のオバサンには美味しい匂いになった。
臭い(におい)が匂いへ。この価値・感覚の変化がもたらす意味は大きい。以外と気づく人が少ないが、匂いは大きな差別要因だからである。

受講仲間の中には、今年になってすでに2回も韓国へ行った人やK-POPを追ってこれまで17回も韓国へ行った人もいて、平成のオバサンたちはすごくアグレッシブだ。好きこそものの上手なれの好例というか、このお二人、けっこう韓国語ができる。
ただ思うに、K-POPを追って17回はすごいが、若い娘の場合は追っかけだが、オバサンの場合はストーカーじゃないの? なんてことは口が裂けても言えません。

日韓の溝を大きく埋めたのは政府ではなく韓ドラやK-popファンのオバサマたちであると断言できる。それは多くの日本人の意識を変えただけでなく韓国人の日本に対する意識も大きく変えた。近くて遠かった韓国を近くて近い国に、多くの韓国人にとって近くて遠かった日本に対する意識を近くて近い日本に変えたのは、まぎれもなく日本のオバサマたちなのである。
친구여(友よ) めざせ今年3度目の韓国!
친구여 めざせ18回目のストーカー!

ま、とにかく、大相撲のモンゴル人の活躍や韓ドラやK-POPの人気ぶりを見るたびに今昔の感に打たれます。

話を戻そう。
40年前、東京外国語大学が大学生を対象に夏休みを利用した少数民族語学講座を開催したことがあった。その中にモンゴル語講座があり、しかも教室は大阪。当時大阪の千里ニュータウンに住んでいた僕には千載一遇のチャンスだった。
ただ残念なことに募集は現役の大学生のみ。この機会を逃すと二度とモンゴル語を学ぶことはできないと思い、東京外大へ思いの丈を綴った長文の手紙を書き送ったところ熱意が伝わり例外を認められ受講できたのである。
届いた受講案内を見て、講習期間は夏休みの40日間だと知る。毎日9時から5時まで。なるほどこれは大学生でないと無理だ。社会人は仕事を辞めなければ受講できない。2月に会社を辞め、厳寒の奈良県の山奥で地質調査の肉体労働をして3ヶ月分ほどの生活予備資金を貯め夏を待った。

その1年後に8年間身を焦がし続けたモンゴルの地に立つわけだが、その詳細は今回の話とは関係がないので割愛する。が、一つだけ。
当時のモンゴルはソ連に次ぐ世界で2番目に古い共産国家で、観光旅行はむろんのこと、今のように誰もが簡単に行ける国ではなく、登山隊や学術調査、技術提供、交換留学生といった公的立場で少数の日本人がモンゴルに入った程度で、個人の観光や私的目的でビザが下りることは無かった。その壁を僕が破り、戦後、個人でモンゴルに入った最初の日本人になった。これは自慢しても許されると思う。

今でこそヨボセヨとかキムチジュセヨと言っている僕だが、元は蒼き狼(チンギスハーン)の末裔なのだ。だからモンゴルでは誰に教わることもなく馬にもラクダにも乗れた。馬に乗れる日本人は多くてもラクダに乗れる日本人は少ないはずだ。
お世話になっていたゲル(円形テント)のラクダ飼いの親父に「お前は立派なテメーチン(ラクダ飼)になれる。娘と結婚してここに住め」と言われたこともある。結婚していたら僕は今も彼の地に住んでいたわけだが、当時の僕は面食いだったため、どう妥協しても娘さんが僕の好みには合わなかったのだ。僕はまだ若く、女性の魅力は容姿だけではないということを知らなかったのだ。男ってバカですね♪

40日間毎日9時から5時まで現役の大学生と肩を並べての授業はとても辛かった。初めてモンゴル人を見た感動、初めてネイティブなモンゴル語を耳にした感動の余韻は2日間ほどでキレイさっぱり消え、後は地獄の毎日になった。
向上心の強いデキル学生ばかりだったので彼・彼女たちはスイスイと前へ進むのに、僕は帰宅後夜中まで復習と予習を懸命にやっても最後方をついて行くのがやっと。寸暇を惜しんで通学の電車の中でも単語暗記をしてもも「次は○○~」と降車駅のアナウンスが耳に入ったとたんに覚えたはずの単語が消えてしまう毎日だった。
とても情けなかったとです。ヒロシです。

それでも約300時間の集中授業は伊達ではなかった。先生が、モンゴルでは知らないモンゴル人はいないと言われ誰からも、「棈松バクシ!(あべまつ先生)」と慕われた大阪外大の棈松源一教授だったのも幸いした。司馬遼太郎さんは大阪外大モンゴル語科卒で、学生時代、この棈松先生から学んでいるのだ。その棈松先生から僕も学べたわけで、最後尾でついて行くのが必死の僕でも片言のモンゴル語は話せるようになった。そしてモンゴル行きも実現させたのだが、だがである。当時の授業での自分を思い返すと、その体たらくぶりが今でも情けなくてなしかたがないのだ。

その情けなかった思いを40年後の今、再び味わっている。当時と違い週一の90分だし美人のオバサマ(注:そうでないオバサマも混じる)たちの中の紅一点ならぬ緑一点なので環境はよろしい。妻がいうにはハーレムみたい♪らしいが、それは甘~い、甘すぎる。
めんどりの群の中に放り込まれた一羽のおんどりと言った方が正鵠を射ている。

受講して痛感したのは記憶力の衰えだ。集中力の低下も。韓国なら3歳の子供でも言える一から十、「私はペ・ヨンジュンです」といったことすらまとも言えない。なぜかとういと、僕が3歳だったのは遠い遠い昔のことだから。
大人には雑念がある。なので、「そういえばペ・ヨンジュンは去年結婚したよね。奥さんはパク・スジンだった?」「パク・スジンは僕の彼女は九尾狐(내 여자진구눈 구미호)に出てなかったっけ」「あのドラマは面白かった」「パク・スジンは日本語がぺらぺらなのがすごい」などと、雑念が頭の中を駆け巡りあちこち脱線し、九尾の九は구(ク)で、固有名詞だと아홉(アホプ) といった学習に身が入らないものだから覚えられず、毎回教室で冷や汗を流し続けている。

1回目の授業が終わったときに、こうした会話教室に向いていないことを自覚した。右耳は鼓膜が無く、頼りの左耳が加齢による軽度の難聴。それを失念していたのだ。先生の話がちゃんと聞こえていないではないか。
日本語の会話でも「えっ?」と聞き返すことが多い左耳が、「えっ?」無しで韓国語が聴き取れるはずがない。先生が教本の文を言い復唱するように言われても耳コピができていないからしゃべれない。
だから家で他の生徒以上に予習や復習をしなくてはならないのだが、復習を始めると上述したようなペ・ヨンジュンの嫁は誰?的に思考が転々。肝心の勉強が前に進まないのである。しかも、心優しい受講仲間が韓ドラを全60話分も貸してくれたりするものだから、ますます勉強が手につかない。

そのような現状なのだが、僕が韓国語の勉強を投げ出すことはない。なぜなら「生涯・韓国語」を座右の銘に置いたから。
僕は突発性間質性肺炎という難病持ち。この病気の平均寿命は5年半、長くても8年なのに、よほどこの病気に好かれているのか罹患して今年で10年目なのにまだ生きている。医師がいうには珍しい例だそうで、「アナタの場合は寿命はあと何年ではなく、毎日が更新と思って生きてください」とのことなのである。つまり明日高熱を出してダウンしても何の不思議もない。だから「生涯・韓国語」といっても何十年もということではないから、気楽な座右の銘なのだ。

トラベル韓国語講座で得た最大の成果はたくさんのガールフレンドができたことだと思っている。LINE友だちが両手に花なのだ。もとい、両手にうば桜というべきか。
誤解がないように書いておくが、姥桜は年老いて萎びた花という意味ではない。“若さの盛りを過ぎても、なお美しさが残っている女性”のことをいう。 実際、何か趣味に打ち込んでいる女性は、僕の目には例外なく美しく可愛く見える。

トラベル韓国語講座の最後尾を追走する僕なので偉そうなことは言えないが、あえて言わせていただくと、講座自体は食い足らない内容だ。
祖父をハラボシ、祖母をハラモニ、妹から見た姉はオンニ、弟から見た姉はヌネなどはどうでもいい。韓国に親兄弟はいないし、韓国に旅行したとしても使う言葉の優先順位は低いと思うから。
講座名が「初歩の韓国語講座」や「初級韓国語講座」ならいい。だが「トラベル韓国語」がタイトルだ。しかもわずか8回、72時間でしかない。短期間の講座を少しでも効果あるものにするにはタイトルに即したシラバスでありカリキュラムであるべきだが、近所の韓国人のオバサンに場当たり的に教えてもらっているという感じが否めない。

仁川国際空港に降り立った所からスタートし、明洞や仁寺洞や広蔵市場などを巡りながら母音や子音、基本的な数字や単語を学び、買物や交通などの例でその使い方を学び、冬のソナタの舞台になった春川辺りで講座の最終回にする。そして、「次は一歩ディープな韓国(中級編)を楽しみましょう、파이팅!(ファイト)」
トラベル韓国語なのだから、僕ならそんな内容にする。今のやり方だと一歩一歩階段を上っている感覚がない。散らかった部屋の今日はここ、明日はそこ、次はあそこと片付けているようなもので、8回でどこまで片付くの?という感じなのだ。トラベル韓国語講座の最終回のイメージができない。
このような疑問はは2回目あたりで感じていた。続けても大した成果は期待できないと思った。で、目線を姥桜たちに向けたのである。彼女たちと友だちになろうと思ったのだ。

地球上に70億の人がいても生涯に出会える人の数は知れている。歳を重ねると人との縁をよく意識する。せっかく出会ったのだから大切にしたいと思うようになる。
どうせ出会うなら、若さの盛りを過ぎてもなお美しさが残っている姥桜よりも、若さの盛りが過ぎていない美しい人の方がいいが、相手だって渡辺謙のような僕よりも福山雅治の方がいいと思っているはずだから贅沢はいえない。

そこで、LINEをやりましょうと呼びかけた。せっかつ出来た縁だし、習い事は継続が全て。一人では頓挫しがちでも仲間がいると励みになる。韓国語や韓ドラやグルメだけでなく、色々と情報交換できる。それが継続のエネルギーになる。そう思ったのである。

LINEの提案に快く応じてくれた姥桜が現在5人。みなさん素敵な女性たちだ。
せっかくできた縁、出会である。講習が終わったあとも交友活を続けていきたいと思っている。


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